その日、美織は関所に向かっていた。理由はいくつもある。昼過ぎに陣衛からの使いだという守人からセンブリ茶の袋を受け取ったこと。
丁寧に礼が記された手紙を読んだこと。手紙を読み、なぜか美織はいてもたってもいられなくなった。その礼をするのだと、そう決めたのだ。思い詰めたように休みをと申し出た美織を、美那は優しく送り出した。だから美織は陣衛に会うためだけに、町を一人歩く。
未だ城下にはあやかしの噂がまことしやかに流れていて、町を巡回する守人もピリピリとしている。外からの物資が入ってこないせいで、いつもは賑わう繁華街ですらどこか寂しげな風が吹いている。
陣衛は守人で、忙しい。埋め合わせをと言っていた機会も一向に訪れない。手紙には、どうにか手に入れたセンブリ茶を送ることで埋め合わせとさせて頂く。そう書かれていた。四角四面な陣衛の性格ままな、几帳面な字だ。時候の挨拶から始まり、未だ顔を出せぬことへの謝罪も丁寧に重ねられていた。
陣衛は忙しい。関所を出られない。ならば、自分が行けば良い。自分が行くしかない。ずっと悩み続けて、手紙を読んでようやくに出した答えがそれだ。未だ固まることのない美織と陣衛の関係。突然に顔を出して嫌な顔をさせてしまわないか。迷惑を掛けてしまわないか。それが怖くて動けなかった美織だ。しかし、もはやそんなことは良いのだ。いくら忙しくとも、一言礼を言いに行くくらいは許される。そう美織は考えた。なにより、美織は陣衛に会いたかった。ただ、礼を言いたかった。共に苦い茶を飲みたかったのだ。
花千里へ見回りに来た守人にも、念のため差し入れが許されるかも聞いて、問題ないと言われている。ならばもう、ためらう必要はない。
人気の無い商店街をピンと背筋を伸ばして進む。関所へと近づけば、いつぞや陣衛と歩いた道だ。如何なる時でも生活の根幹を担う飲食は止められない。だから露店の蕎麦や天ぷら屋、串肉を売る商人は消えることはないのだ。ふと視線を感じて美織が店を見れば、店主が口を開ける。
美織にとってはその後の大事件で薄れていた記憶だが、露店を開く若商人達からすれば忘れるはずもないのが美織の顔だ。何せ堅物陣衛が唯一自分たちに紹介した(これには語弊があるが)少女である。
笠間の旦那に会いに行くんですかと図星を突かれ、戸惑う合間にあっという間に囲まれる。彼らが美織に取る態度は恭しく紳士的で、しかし気安い。陣衛が普段どんな顔で立ち食いをしているかを微に入り細に入り語ったりする。であるから、美織も歩きながら耳を傾け、歩調が緩やかになる。
だから、美織はその瞬間に居合わせた。居合わせることができたのだ。
関所まで、あとは角を一つ曲がるところ。四つ角の手前は馬車道があり、少しだけ開けている。美織と商人達の目の前、家と家とを切り分ける生け垣へと”何か”が飛び込んだ。バキバキとへし折れる音に、全員が足を止める。何が起きたのか、一人の商人が恐る恐る生け垣に近づく。そして叫ぶ。
「笠間の旦那じゃねぇか!」
この場にいる全員が知る名である。慌てて生け垣へと集まり、陣衛を生け垣から引き出す。
「笠間さんっ!?」
美織の声にも陣衛は応えない。幾重もの生け垣を突き破りようやく止まったのだ。全身を打ち付け、完全に意識がない。血にまみれた陣衛に、美織が縋るように声をかけ続ける。
「こりゃいけねぇ、すぐに診療所に運ばねぇと……」
「うわ、重いな……」
「刀は、これはどうしたら……」
「それは私が運びます! 笠間さんの、大事なものなんです」
陣衛の赤鞘、無明をその手から外す。固く握り続けていた手のひらが、美織の手で開かれる。 美織の身丈ほどもある長大な太刀である。どこかで落としたのか、陣衛が誇らしげにしていた赤い鞘は見あたらない。そのままでは確かに危険である。ただ、商人達で陣衛を運ぶしかない以上は美織に任せるしかない。
うう……と、美織は刃に触れぬよう、峰を自身に立て掛けるようにしてようやく無明を持ち上げる。そして全員で陣衛を診療所へ運ぼうというその時。
どすん、と地面が震える。何か、重い何かが落ちてきた。陣衛に続き二度目だ。美織の頭に浮かんだのは、陣衛の友人を名乗る朝芳の顔。音の元を見る。二つの脚と、その後ろに見えるは尾。美織の視線では、その全貌が分からず、目線を上げる。美織の三倍でも利かない体躯、巨体がそびえる。
――大鱗丸。朝芳を振り切り、陣衛にとどめを差すべく追撃に現れた最悪の竜人。男達に抱えられ、意識のない陣衛に舌なめずりをする。大鱗丸にはまるで自らに捧げんとしている様に見えたからである。
「あれで、終いだったか。だが、強き剣士だった。……カサマを、置いていけ。それは、俺のモノだ」
死、そのものの顕現。逞しい商人達だ。あやかしと対峙した経験があるものも多い。行商旅ではあやかしを倒したことのあるものだっていた。しかしそんなことは何一つ役に立つことはない。立ち向かえば、その先には絶対の死がある。命あるものの本能が、時を止めたように彼らを固めてしまうのだ。それでも彼らには意地がある。動くことはできずとも、それは逃げるという選択肢を捨て去ってるからこそ。
ならば奪うのみ。大鱗丸が一歩動くその瞬間に、銀が割り込む。大鱗丸と陣衛の間、一人の少女がふらふらと頼りなく、無明を構えていた。ふるふると剣先は震えながら、しかし確かに戦う意志がそこにあった。美織が、全身を震わせながら、無明を大鱗丸に突き出す。超重量の大太刀である。当然、まともな構えであるはずもない。だが、美織は確かに構えている。槍を持つかのように左半身を前に、柄を体に押しつけるようにして、全身の力を以てようやく構えている。そして大鱗丸に啖呵を切ってみせさえもする。
「か、笠間さんは、わたしません……!」
身丈十尺を越える竜人と、小柄な少女。戦いになるはずもない。それは誰より美織自身が分かっている。けれど、どれだけ無謀でも許せるものではないのだ。陣衛を、くれてやるわけにはいかないのだ。
美織にとっての陣衛は、陣衛との仲はまだ言い表す言葉がない。ただの知り合い、食事処の店員と常連。でも最近ようやく、変わってきたのだ。ようやくその言葉が、美織にも見えてきたところなのだ。なればこそ、これほど無粋な横やりを許せるわけがない。陣衛を渡さない。強い意志が美織の目を激しく燃やす。
物音に気がついた町の衆が集まり、そして息を殺す。
「だ、旦那! 起きてくれ!」
「嬢ちゃんが不味いんだ! 旦那!」
美織の背後では、必死に陣衛を起こそうと呼びかける声。
大鱗丸が色のない目で爪を伸ばす。その爪が触れたときが自分の最期。死だ。美織にはそれが分かっていて、それでもしかと地面を踏みしめ譲らない。
「か、かかって、きなさい……!」
子猫の威嚇よりもか細い声が、音のない城下町にむなしく消える。誰も動かない。これから起きるだろう惨劇に、誰もが目を伏せる。
――その静寂を破るのは、耳慣れた一つの足音。
大鱗丸が、三日月のような笑みを浮かべる。
持ち続けるだけで困難な、力不足に揺れる刀身が突然に静止する。美織の手から重さが抜けて軽くなる。刀を支えていた美織の左手に、大きな手が重なる。無骨でガサガサとしている、暖かい手のひらが、美織の手を優しく解く。
「美織」
その声に、力が抜ける。あれほど重かった太刀が軽々と持ち上げられる。美織の背に、ぽんぽんと手が当てられる。
「大丈夫だ。任せてくれ。もう、怖がらせることは、ない」
美織を庇うように、町の人々を守るために、陣衛は大鱗丸の前に立つ。
「カサマァ……!」
大鱗丸が歓喜を込めた名を呼ぶ。
「笠間さん……!」
美織が万感の意を込めてその名を呼ぶ。
「ああ。美織、もう少し下がっていてくれ。お前達も、ありがとう。声が聞こえていた。だから間に合った」
陣衛が無明を正眼に構える。静かで穏やかな動きだ。たったそれだけで、大鱗丸がまき散らした恐怖が薄れる。まるで死そのものが切り裂かれたかのように。
平静に見える陣衛の内面はしかし、濁流のように荒れ狂っている。
ふがいない。情けない。守人の風上にも置けぬ情けない奴!
あやかしを城下にみすみす入れてしまった。
――あり得ざることだ。
町の人々を危険にさらしている
――あってはならないことだ。
守るべき人達を前に、未だ打開策すら浮かばない
――それは許されないことだ。
なにより、絶対に守りたいその人を危険にさらした。その人に守らせてしまった。
鏡のように透き通った水面のその下に、何もかもを飲み込み打ち砕く激流があった。
汚名はすすがねばならない。不安を除かねばならない。陣衛自身がそうあらねばならない。陣衛が身に付けた剣の腕は大鱗丸に届かなかった。だから、今は要らない。陣衛が求めるのは、誰もが心落ち着くような――美織が安心できる――強き剣だ。そう、あらねばならない。
水打ちでもしたか、陣衛の目の前には水たまりがあった。泥水だ。それでも、茶色い水面には相対する巨大な化け物が映っている。竜人の首魁、大鱗丸には自分の姿はどう映っているだろうか。そして、怯えながらも逃げることすらできずに自分を見ている人々にはどう見えているか。何より、美織には。
戦えぬだけだ。自分との違いはそれだけ。
大鱗丸を前に震えながらも刀を握り続けた美織。己に声をかけ続けた若い衆。恐怖に我を忘れることなく、弱い者を背に隠す町の人々。
ぎゅうと無明の柄を握り直す。手の間隔はより広く。柔らかに、そして確かに。
胸の奥から、こんこんと湧き続ける何かがある。陣衛の胴、肩や手、脚のつま先までを満たす何かがある。それは、白峰より注ぐ雪解け水のようで、陣衛の心を清め濯いでいく。
視界が広がる。暮れゆく陽が、空を赤鞘のごとく染める。影があやかしを更に大きくみせる。揺らぐ尾とこぼれるうなり声が人々の心を重く締め付ける。
だが、それだけだ。既に腹は決まっている。命はもはや陣衛に託したと、恐怖と怯えを傍らに立っている。
この心強き者達へ、陣衛は何をみせられるのか。何をみせるべきか。
――決まっている。
陣衛は水たまりを跨ぐ。映るのはぼろぼろで一敗を喫した自分自身。ありのままを映す水鏡である。だが、陣衛が見せるのは価値ある未来だ。例え血にまみれボロボロであれど、あやかしを打ち倒す自らの姿。恐怖が濯がれ、安心に胸なで下ろす人々の姿だ。
自らの役目を果たす。水守の司。あやかしより人を守る守護者である。それこそが陣衛の務めならば。
水が映すは化生の本性。映るが人でも同じだ。ただ、その姿が良くあれと願う。人を守る、何より人を安心させられる強さであれと願う。
したっと、陣衛の隣に朝芳が降り立つ。陣衛が吹き飛ばされた後も大鱗丸とやり合っていたようで、陣衛に負けず劣らずボロボロである。その片手には陣衛がどこかで落としてきた無明の赤鞘を持っている。
「お前ね、大事なもの忘れんなよな。かっこ付かないだろうが」
「助かる」
「おう」
いそいそと陣衛は赤鞘を腰に佩く。その間も大鱗丸は爛々と目を輝かせる。陣衛達は敵前であるとは思えないほど自然に、ただ身なりを整える。血と埃に汚れ着崩れた水干をぎゅっと糺す。
「で、どうするんだ?」
「やるべきことを忘れていた」
なんだそれはと首を傾げる朝芳を放置し、陣衛は大鱗丸へと強く踏み出す。
――陣衛は見得を張る。いつか美織が言ってくれた、陣衛の強さをここに見せるために。
無明の切っ先を空に向け、静かに目を瞑る。それは祈りにも似た、陣衛が理想を実現するための一歩。
目を開いた陣衛は、無明を大きく、切っ先で真円を描くように回して肩に担ぐ。夕暮れの日が、刀身を燃える陽の様に朱に染め上げる。日輪のごとき残光が、不安げに陣衛と大鱗丸を囲む人々の目に焼き付く。
陣衛は軽く左足を前に、担いだ刀身を見せつけるように、半身を取る。強き視線を大鱗丸へ向ける。
そして大きく、名乗りを上げる。
「東松原の国、笠間時頼が次男、関守りし水守の司――笠間陣衛。国の安寧を乱す悪鬼あやかし打倒をここに宣言する!」
誰にでも分かるように、誰からも見えるように。
隣に朝芳が並ぶ。心底楽しげな、嬉しそうな表情を隠すこともなく、陣衛に続けて吼える。
「同じく関守りし水守の司――辻堂朝芳。重ねてあやかし討滅を宣言する!」
陣衛と朝芳。戦意の刃が大鱗丸に向けられた。