「笠間ァ、悪いんだけどよ、ちょっといいか?」
昼を回った時分である。詰所の自席で書き物を綴る陣衛の元に、珍しい客が来た。無精ひげに垂れた目。歳は陣衛の一回り上。水守の司でも最年長の剣士、友坂半重郎である。詰所は息が詰まるなどと言ってどこぞ適当な場所をぶらついている男が、わざわざ陣衛の元に来たのである。
「珍しいことだな」
「まあな。これを見てくれ」
言うやいなや放り投げられる紙の束。それを陣衛は何とか受け取る。机の上は作成中の報告書。当然のことながら筆も墨も出ている。墨壺を倒せば半日かけた苦労が水の泡だ。
思わず睨みつけるが、友坂は一切気にした様子がない。もとより雑な男だ。水守としての腕は確かである。が、そのあまりのおおざっぱな振る舞いに事務方から蛇蝎のごとく嫌われている男でもあるのだ。
陣衛からしてもあまり関わりたくない御仁ではある。一度などその場に偶然居合わせただけで飲み屋に連れていかれ、ひたすらうまくもない酒を飲み続ける羽目になったこともある。だから期待できることは何もない。陣衛は適当に流すことを考え、しかしその手を止める。
友坂が寄越した書面は流麗な筆致で整えられている。題目は”霊水考”とある。無論、友坂の字ではない。
そこでようやく陣衛は友坂の背後にもう一人いることに気が付いた。女性である。年の瀬に新人として水守の司に加わった少女――相馬氷雨だ。女性にしては上背があり、猫背で背筋の曲がった友坂とは視線の位置がほとんど変わらない。
「あ、あやかしが嫌う水についてを、わたしなりの視点でまとめました……! ぜひ、笠間殿のご意見を頂けないでしょうか……!」
ニヤニヤと友坂が笑っている。
「先輩としてよぉ、どうかお願いできないもんかね」
後輩として指導を願う。問題などありようもない発言だが、それは発言者の信用あってのこと。友坂の態度は面白がっているのが明白である。一息に断わって無視するのも手だ。が、氷雨は陣衛にとって初めての後輩である。
友坂が教育係になっているためほとんど詰所で見ることはないから、まともに口を利いたのが初めてだとしても。書面を軽くめくる。八枚のつづりで、本人の性格を映しているのだろう、揺らぎのない文字が並んでいる。
「内容としては――」
説明をと口を開いた氷雨を制して、まずは中身を読む。しばしの間、詰所は無音となる。気まずげに立ったまま身じろぎする氷雨と、座ったままに黙々と書面をめくる陣衛。
友坂は近くの机から勝手に座布団を奪い、すっかりくつろいでいる。
一通り読み、陣衛は内容を脳内でまとめる。あやかしの正体を暴く水調べ、それは霊峰白衣山から注ぎ込む清水を由来とする。どれだけ高度なあやかしの擬態もたやすく打ち破り、その力を弱める神秘がある。ならばその効果をあやかしへの直接的な対策にできないか。そういう趣旨である。
実際に氷雨が遭遇したあやかしに、この霊水をかぶせた時の反応や効果、その有効度が記されている。また、その効果が何をもってなされているのか。あやかしの身を形作る墨のごとき黒い煙と絡めた論理が展開されている。
「なかなか面白い話だろう? うまくすれば、わざわざ剣を下げずともあやかしを祓えるかもしらん」
「か、笠間殿はどう考えますか?」
なるほどと、陣衛は声に出さず得心する。氷雨は水守の司における初の女性剣士である。腕がいいとは噂には聞いていた。加えてあやかしへの対策をうまくまとめられる頭脳と行動力がある。確かに水守の司として任じられるだけの実力はあるのだろう。
――同時にこの提案書がまるで使えないと断ずる。
「霊水の力をうまく抽出して、誰もが持ち歩けるようにすれば、もっともっと人の領域を広げることが出来ると思うのです……! 読んでみて、いかがだったでしょうか?」
まっすぐに陣衛を見る目には、自信が見て取れる。効果がある。それは確かにそうなのだろう。だが、それは氷雨自身の贔屓目がある。氷雨が効果を確かめたというあやかし。それはどこで確かめたのか。
水調べの最中に効果も分からない実験など、許されるはずがない。当然指導役である友坂が殴ってでも止めるはずだ。であれば当然城外でのことになる。先手必勝が対あやかしの定石だ。であれば、水をかけるなどという手間をかけても問題ない相手と言うことになる。変化も使えぬような、灰墨や淡墨程度のあやかしだろう。その程度の相手にならば、効果があるというのだ。
――使えん。
言葉が口から飛び出す寸前、直感的な何かが陣衛の口を閉じさせた。
”言い方です!”
頭の中で、小さくともはっきりと輪郭を持った言葉が浮かび上がる。いつぞやのやらかし以来、どうにも頭に美織の声が居座っている。その声をどうにも無視できず、陣衛は口の中で一つ呟く。
「……言い方が、あるか」
その声は二人には届かなかったようである。陣衛は立ちあがり氷雨に向き直る。そして読み終わった書面を氷雨に返す。
「理念は理解した。だが、水守の司として研究を進めることは推奨しない。俺たちの果たすべき使命は何だ? 一匹たりともあやかしを城下へ入れないことだ。わずかな水にひるむ程度のあやかしが相手になるか?」
一度言葉を切り、氷雨の反応を伺う。固く引き結んだ唇。紅潮した頬。意見を正面から受け止めようと気を張っているのが分かった。
「役に立てようと思うなら、俺たちではなく警邏の守人へ持ちこむべき話だ」
「あ、りがとうございます……」
悔し気に、陣衛に向かい頭が下げられた。そしてくるりと反転して詰所を飛び出していった。パタパタと、廊下を走っていく音が遠ざかっていく。
それを陣衛と友坂が見送る。
追わないのか、そういう意図で友坂を見れば、意外そうな顔をした友坂と目が合った。感心したように無精ひげに手を当て、何度か頷く姿がどうにも陣衛の気に障った。
「俺が言うまでもない話だ」
言外に友坂がさっさと指摘すればよかったと突き付ける。だが、友坂は目を丸くしたままだ。
「いや……そうだな、そうだが。それなりに俺からも助言をしたからな。笠間ならはっきり言うと思ったんだが……、お前、いいじゃないか」
勢いよく立ち上がった友坂が陣衛の肩に腕を回す。ぐりぐりと組んだ肩を揺らしてくくくと笑っている。眉を顰める。友坂の態度、その理由は予想が付く。自分がもっと厳しく氷雨に対応すると思っていたのだろう。だが曲がりなりにも説明をし、わずかであろうと助言までもして見せた。それを、友坂は成長としてみた。そういうことだろう。陣衛としてはどうにも落ち着かないことではあるが。
だから、友坂に染みついた煙管の匂いについ感想がこぼれた。
「臭うな」
ピタリと友坂が動きを止める。そして、ゆっくりと組んだ肩をほどき、一歩下がる。自分の口から出た失言を取り返す手段を探す陣衛だが、何もかもが手遅れだ。
「ん、ああ、すまんな……。は、は、は……。こないだ娘にもそういわれたんだよなァ……」
そしてそのまま詰所を出て行く。肩を落とした姿に豪快な無頼の影はなく。ただ消沈した男の背だけがあった。
入れ違うようにして詰所に戻ってきた朝芳が首をかしげている。
「友坂殿は何かあったのか? 珍しく詰所から出てきたと思えば、随分としょぼくれてたぞ?」
朝芳の疑問に答える言葉はない。
“言い方!”、”言い方!”、”言い方!”
ひたすら自らを叱責する美織の言葉がぐるぐると頭を巡っているのだった。