やはり俺のアイドルプロデュースは間違っている   作:stein0630

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第二話 被写体の沈黙を、撮影者は都合よく翻訳する。

 

 撮影現場には、だいたい二種類の人間がいる。

 

 何を撮りたいか分かっている人間と、撮れたものを見てから何を撮りたかったのか決める人間だ。

 

 後者が悪いとは限らない。偶然を価値へ変えるのも技術のうちである。問題は、偶然を最初から自分の狙いだったことにする奴が一定数いることだ。

 

 就職活動で「予想外の質問にも柔軟に対応しました」と語る学生の九割は、答えられなかった事実を柔軟な言葉で包んでいる。残り一割は、そもそも予想をしていない。

 

「もう少し、感情を消せる?」

 

 カメラマンが言った。

 

 白い壁を背に立つ樋口は、わずかに顎を引いた。

 

 今日の衣装は、淡い青のシャツに濃紺のロングスカート。飾りは少なく、髪も普段と大きく変えていない。

 

 事前に共有された企画書の題は、『透明な放課後』。

 

 意味が分かるようで分からない。高校生に透明という形容詞をつければ、企画として成立した気分になるらしい。なお、透明な会社員はだいたい組織図から消えている。

 

「感情を消す、というのは」

 

 樋口が訊き返す。

 

「ほら、何を考えてるか分からない感じ。もっと冷たくて、誰にも興味がないような」

 

「分かりました」

 

 声は従順だった。

 

 表情からも、目立った反発は見えない。

 

 それから樋口は、カメラマンを見なくなった。

 

 レンズの少し上。照明の向こう側にある、何もない白壁へ視線を置く。

 

 シャッターが切られる。

 

「うん、いいね。そうそう。孤独な感じ」

 

 樋口の指先が、スカートの布をわずかにつまんだ。

 

 俺は撮影ブースの外で、進行表に時刻を書き込む。

 

 口を出す段階ではない。

 

 少なくとも、まだ。

 

「次、椅子使いましょうか」

 

 編集担当の女性が言った。

 

 三十代半ばくらい。黒縁の眼鏡に、クリップボード。最初の挨拶では自分を佐伯と名乗った。

 

「窓際で本を読んでる感じ。休み時間なのに、クラスメイトと馴染めなくて、一人でいる女の子」

 

「本は何を」

 

 樋口が訊く。

 

「何でもいいですよ。文字は写らないので」

 

 小道具担当が、棚からハードカバーを一冊持ってきた。

 

 樋口は表紙を見る。

 

「これ、料理の本ですけど」

 

「あ、本当だ」

 

 佐伯は笑った。

 

「でも雰囲気だけだから。開いて持ってくれれば大丈夫」

 

 樋口は本を受け取った。

 

「はい」

 

 返事に棘はなかった。

 

 だからこそ、俺は進行表から顔を上げた。

 

 樋口が抵抗しないとき、それは納得したときとは限らない。

 

 初対面から数日しか経っていない俺が断定していいことではない。だが、少なくとも彼女は、嫌なものをすべて言葉にする人間ではなかった。

 

 言っても無駄だと判断した相手に、説明という労力を支払わない。

 

 それは反抗よりも、ずっと明確な見切りだった。

 

 撮影が再開される。

 

 窓に見立てた白い枠の前で、樋口は椅子に座った。料理本を開き、ページへ目を落とす。

 

「もう少し寂しそうにできる?」

 

 カメラマンが言う。

 

「寂しそう」

 

「そう。ほんとは誰かに声をかけてほしいんだけど、自分からはいけない、みたいな」

 

 樋口はページをめくった。

 

「誰にですか」

 

「え?」

 

「誰に、声をかけてほしいんですか」

 

「ああ、具体的な相手はいなくていいよ。イメージだから」

 

「いない相手を待つんですか」

 

 撮影ブースに、わずかな沈黙が落ちた。

 

 カメラマンは困ったように笑う。

 

「難しく考えなくて大丈夫。樋口さん、そういう雰囲気を持ってるから」

 

「そう見えるということですか」

 

「うん。近寄りがたいけど、内心では誰かを求めてる感じ」

 

 樋口は料理本を閉じた。

 

 音は小さかった。

 

 だが、撮影を止めるには十分だった。

 

「すみません」

 

 佐伯がこちらを見た。

 

 担当者として、対応を求められている。

 

 俺は撮影ブースへ入った。

 

「五分、休憩をいただけますか」

 

「え、でも押していて」

 

「十三時開始予定で、現在十三時四十二分です。準備の遅れが十八分、衣装調整が九分。撮影自体は予定時間内です」

 

 俺が進行表を見せると、佐伯の笑顔が少し薄くなった。

 

「細かく記録されてるんですね」

 

「新人なので」

 

「……五分だけお願いします」

 

「ありがとうございます」

 

 樋口が椅子から立つ。

 

 俺の横を通るとき、こちらを見なかった。

 

 控室へ戻ると、樋口は料理本を机に置いた。

 

「助けたつもりですか」

 

 扉が閉じる前に言われた。

 

「休憩を入れただけだ」

 

「私が困っているように見えた?」

 

「見えたとは言ってない」

 

「また、言っていないことを読むんですね」

 

 俺は扉を閉めた。

 

 控室には樋口と俺しかいない。

 

 メイク担当は飲み物を取りに出ており、七草さんは別件で事務所に残っている。新人一人で現場へ出す会社の判断については、帰社後に議題として提出したい。主に俺の精神衛生のために。

 

「撮影を続けられるか」

 

「続けられます」

 

「企画の解釈には納得してるか」

 

「それを確認して、どうするんですか」

 

「必要なら先方と調整する」

 

「私が不満を言ったから?」

 

「それ以外に何がある」

 

「プロデューサーとして、自分が正しいと思ったからではなく?」

 

 質問の形をしているが、確認ではない。

 

 逃げ道を塞いでいる。

 

 俺が「お前のためだ」と答えれば、勝手に守る側へ立つなと言われる。

 

 俺が「仕事上の判断だ」と答えれば、本人の意思を利用して自分の判断を通しただけだと言われる。

 

 厄介な二択である。

 

 だが、こういうとき第三の選択肢を探す癖は、たいてい問題を余計に複雑にする。

 

「両方だ」

 

「便利な答え」

 

「企画書にない人格設定を現場で足してる。事前合意の範囲を越えてるから、担当として確認する必要がある。それとは別に、お前が嫌なら調整する」

 

「嫌だと言ったら」

 

「変えさせる」

 

「仕事がなくなっても?」

 

「そこは交渉する」

 

「できなかったら」

 

「断る選択肢も含めて考える」

 

 樋口の目が、わずかに動いた。

 

「簡単に言いますね」

 

「簡単ではない」

 

「でも、決めるのはあなたでしょう」

 

「最終的な契約判断は事務所がする」

 

「そういう話じゃない」

 

 低い声だった。

 

 机の上の料理本が、二人の間に置かれている。

 

「私が嫌だと言ったら、あなたは断ったことにする。私が我慢すれば、納得したことにする。どちらにしても、あなたが意味を決める」

 

「なら、どうしてほしい」

 

 訊いた瞬間、樋口の視線が冷えた。

 

「それを私に考えさせるんですか」

 

「本人の希望を聞いてる」

 

「自分では何も決めないで」

 

「俺が決めたら、一方的だと言っただろ」

 

「だから、選択肢を二つ並べて、選ばせた形にする?」

 

 言葉が詰まる。

 

 樋口は、午前中よりも明確に苛立っていた。

 

 しかし、その矛先は撮影スタッフより俺へ向いている。

 

 外の人間に勝手な意味をつけられることより、俺がそれを理解したふりで処理しようとすることのほうが、彼女にとって不快らしい。

 

 いや。

 

 その解釈もまた、俺が勝手につけた意味だ。

 

「……企画自体は受けます」

 

 樋口が言った。

 

「ただ、孤独で誰かを待ってる人にはなりません」

 

「分かった」

 

「分かってない顔」

 

「顔については生まれつきだ」

 

「そうやって逃げるの、仕事でも使うんですね」

 

「場を和ませようとした」

 

「誰が和みました?」

 

「俺が少し」

 

「最低」

 

 樋口は椅子に座り、ペットボトルの水を一口飲んだ。

 

「企画の雰囲気は変えなくていいです」

 

「人格設定だけ外す?」

 

「外してもらわなくて結構です」

 

「どっちだよ」

 

「向こうがどう思って撮るかは、向こうの自由でしょう」

 

「それを言ったら、勝手に物語をつけられることを防げない」

 

「写真に写るのは、向こうの解釈だけじゃない」

 

 樋口はペットボトルの蓋を閉めた。

 

「孤独に見えるなら、そう撮ればいい。何かを待っているように見えるなら、それでもいいです。でも、私が誰かを待っている演技をする必要はない」

 

「……なるほど」

 

「今、理解した顔をするの、やめてもらえますか」

 

「難易度が高いな。顔の機能を止めろと言われてる」

 

「最初からあまり動いてませんけど」

 

 それはお互い様だろ、と言いかけてやめた。

 

 似ているという分類を、彼女は嫌う。

 

 それに、実際には似ていない。

 

 俺は他人に誤解されることを、ある程度受け入れている。説明しても無駄だと諦め、自分から誤解されやすい形へ寄せることすらある。

 

 樋口は違う。

 

 他人がどう見るかは止められないと知りながら、その視線に合わせて自分を差し出すことは拒む。

 

 誤解されることと、誤解に加担することを分けている。

 

 俺には、その線引きがなかった。

 

「先方には俺から話す」

 

「何て?」

 

「演技指示ではなく、本人の自然な表情を中心に撮ってほしいと伝える」

 

「角が立たない言い方」

 

「仕事だからな」

 

「私が面倒を起こしたとは言わない?」

 

「言う必要がない」

 

「自分が判断したことにするんですね」

 

「俺が提案するんだから、俺の判断でもある」

 

「そうやって、また」

 

 樋口はそこで言葉を切った。

 

 五分の休憩は、もう終わろうとしている。

 

「何だ」

 

「別に」

 

「言いかけただろ」

 

「聞けば答えてもらえると思わないでください」

 

 二度目だった。

 

 今度は、午前中より少しだけ鋭い。

 

 俺は先に控室を出た。

 

 撮影ブースへ戻ると、佐伯が腕時計を確認している。

 

「大丈夫そうですか?」

 

「はい。ひとつ、撮影方針を調整させてください」

 

「調整?」

 

「樋口に具体的な感情や背景を演じさせるより、衣装と光に対して自然に立たせてほしいです」

 

 カメラマンが眉を上げた。

 

「でも、物語があったほうが表情を作りやすいんですよ」

 

「企画書では、作り込んだ演技よりも日常的な空気感を重視すると伺っています」

 

「そのためのイメージです」

 

「本人の表情を引き出すためのイメージが、本人の表情を消しているように見えます」

 

 口にしてから、少し強すぎたと思った。

 

 だが、もう遅い。

 

 佐伯の指がクリップボードの縁を叩く。

 

「樋口さんがそう言ったんですか?」

 

 予想していた質問だった。

 

「担当としての判断です」

 

「本人は?」

 

「撮影を続ける意思があります」

 

「不満はあるけど、言えないということですか」

 

「そういう意味ではありません」

 

「では、どういう意味です?」

 

 樋口の言葉を、そのまま伝えることはできる。

 

 だが、彼女が俺に話した内容を、本人のいないところで交渉材料に使うのは違う。

 

 それは保護ではなく、所有に近い。

 

「先ほどの指示では、事前に共有された企画以上の人物像を求めています。こちらとしては、その追加部分に同意していません」

 

「ずいぶん固いですね」

 

「新人なので」

 

「それ、免罪符になります?」

 

「なりません。だから、俺の判断として記録に残してください」

 

 佐伯の口元から、仕事用の笑顔が消えた。

 

「分かりました。時間もありませんし、その形で進めましょう」

 

「ありがとうございます」

 

 礼を言うと、相手は小さく息を吐いた。

 

 交渉成立。

 

 そして、おそらく心証は悪化した。

 

 仕事の成果と人間関係の悪化は両立する。むしろ、俺の人生ではセット販売されていることが多い。

 

 樋口が戻ってくる。

 

 俺と佐伯の間に残った空気を、彼女は一度見ただけで何も言わなかった。

 

 撮影が再開された。

 

 今度は、細かい感情の指示は出なかった。

 

 樋口は窓枠の前に座り、料理本を開く。

 

 数秒後、ページを眺めたまま言った。

 

「これ、材料が多すぎる」

 

 カメラマンがファインダーから顔を上げる。

 

「え?」

 

「二人分なのに、玉ねぎを三個使うんですね」

 

「料理、するの?」

 

「今はしません」

 

「じゃあ、本を読んで思ったこと、そのまま口にしてみて」

 

「どうしてですか」

 

「そのほうが自然だから」

 

 樋口は一瞬、俺を見た。

 

 俺は何も言わない。

 

「高いですね、玉ねぎ」

 

 シャッターが切られた。

 

「最近?」

 

「一般論です」

 

「一般論で玉ねぎの値段を気にする高校生、いるかな」

 

「そちらが持たせた本ですけど」

 

 もう一度、シャッター。

 

 カメラマンが少し笑った。

 

 樋口は笑わない。

 

 ただ、先ほどより視線がレンズに近づいていた。

 

「じゃあ、その本を選んだ人に一言」

 

「確認しなかったんですか」

 

「厳しいね」

 

「感想です」

 

「もう一言」

 

「早く撮ってください」

 

 連続してシャッターが切られる。

 

 樋口の眉が、ほんのわずかに寄る。

 

 不機嫌そうに見える。

 

 実際、不機嫌なのだろう。

 

 だが、先ほどの空虚な無表情とは違った。

 

 レンズの向こうにいる人間へ、自分の言葉を返している。

 

「いいね、それ」

 

 カメラマンが言った。

 

 樋口の表情が消える。

 

 褒められたからではない。

 

 おそらく、「それ」と一括りにされたことが気に入らなかった。

 

 撮影は、その後一時間ほど続いた。

 

 予定より七分遅れて終了したが、佐伯は最後にモニターを確認しながら、「使えそうな写真は多いです」と言った。

 

 使えそう。

 

 商品に対する評価としては正しい。

 

 人間に向けられると、少しだけ居心地が悪い。

 

「今日はありがとうございました」

 

 俺が頭を下げる。

 

 佐伯も形式的に礼を返した。

 

「今後は、事前にもう少し細かく認識を合わせたほうがよさそうですね」

 

「そうですね」

 

「樋口さんは、難しい方ですから」

 

 隣で荷物を持っていた樋口の手が止まった。

 

 俺は佐伯を見る。

 

「難しくしたのは、こちらの確認不足です」

 

「責めているわけではありませんよ」

 

「はい。俺も、事実関係を整理しただけです」

 

 佐伯は数秒黙り、「では、データは後日」と言って離れた。

 

 帰り道、樋口は一言も話さなかった。

 

 駅までの歩道を、半歩ほど後ろから歩いている。

 

 担当アイドルを車で送るような環境は、現在の俺には用意されていない。事務所の車を使うには社内審査が必要であり、新人に許された移動手段は電車と徒歩と自責の念だけだった。

 

 信号が赤になる。

 

 横断歩道の前で、俺たちは立ち止まった。

 

「さっきの」

 

 樋口が言った。

 

「どれだ」

 

「私が難しいんじゃなくて、自分の確認不足だって」

 

「事実だろ」

 

「違います」

 

「どこが」

 

「私も面倒でした」

 

 自己評価としては珍しく正直だった。

 

「否定しないんですね」

 

「否定してほしかったのか」

 

「まさか」

 

 信号はまだ変わらない。

 

 車が何台か通り過ぎる。

 

「どうして、私が言ったことにしなかったんですか」

 

「言ったこと?」

 

「撮影方針を変えた理由」

 

「お前が言った内容を、そのまま伝えていいとは聞いてない」

 

「それだけ?」

 

「他に何がある」

 

 樋口は前を向いたまま、少し黙った。

 

「自分が嫌われるほうが、楽だからでしょう」

 

 俺は答えなかった。

 

 否定すると嘘になる。

 

 肯定すれば、また彼女の指摘を受け入れることで誠実さを演出することになる。

 

「黙れば正解になると思ってます?」

 

「思ってない」

 

「じゃあ、答えてください」

 

「俺が窓口だからだ」

 

「それは役割の話」

 

「仕事で問題が起きたとき、担当者が矢面に立つのは普通だろ」

 

「普通なら、あなたは悪くないんですか」

 

「そういう話じゃない」

 

「同じです」

 

 信号が青に変わる。

 

 周囲の人間が歩き始める。

 

 樋口は動かなかった。

 

「本人の意図を勝手に決めるなと言われたから、確認せずに言葉を使わなかった。お前が面倒なアイドルだという評価を残すより、俺の調整不足にしたほうが次の仕事に影響しにくい。理由はそれだけだ」

 

「それだけ」

 

「ああ」

 

「私がどう思うかは?」

 

 質問の意味を測りかねた。

 

「何について」

 

 樋口の視線が、こちらへ向く。

 

 失望に似たものが見えた気がした。

 

 だが、それも俺の読みすぎかもしれない。

 

「もういいです」

 

 樋口は横断歩道を渡り始めた。

 

 青信号の残り時間が点滅している。

 

 俺も後を追う。

 

「待て。どういう意味だ」

 

「聞けば答えてもらえると思わないでください」

 

「三回目だぞ、それ」

 

「数えてるんですか。気持ち悪い」

 

「業務記録だ」

 

「最悪」

 

 駅の入口まで来たところで、樋口は立ち止まった。

 

「今日の写真」

 

「何だ」

 

「選ぶとき、私にも見せてください」

 

「その予定だ」

 

「予定じゃなくて、約束してください」

 

 午前中、未来について保証できるのは意図までだと俺は言った。

 

 今も、理屈としては変わらない。

 

 データの管理権限は媒体側にあり、最終選定に本人が参加できるとは限らない。俺が約束できるのは、確認の機会を求めることまでだ。

 

「掲載前に確認できるよう、先方と交渉する」

 

「そうじゃなくて」

 

 樋口が俺を見る。

 

「あなたが選ぶ前に、私に見せてください」

 

「俺が選ぶことになったらな」

 

「なりますよ」

 

「どうして分かる」

 

「そういう顔をしてるから」

 

「顔に職務権限は書いてない」

 

「自分で全部処理したい人の顔です」

 

 反論できなかった。

 

 樋口は俺の返事を待っている。

 

 信頼されているわけではない。

 

 むしろ逆だ。

 

 こいつは一人で勝手に決める。だから、その前に止めなければならない。

 

 そう判断されている。

 

「分かった。約束する」

 

 俺が言うと、樋口は小さく頷いた。

 

「破ったら」

 

「破ったら?」

 

「二度と、あなたの判断を確認しません」

 

 脅しとしては静かだった。

 

 だが、内容は重い。

 

 怒るとも、抗議するとも言わない。

 

 ただ、次から期待しない。

 

 それだけだった。

 

「了解」

 

「軽い」

 

「約束した以上、余計な説明はいらないだろ」

 

 樋口は数秒、俺の顔を見た。

 

「……そうですか」

 

 改札へ向かう彼女の背中を見送りながら、俺は手帳を開いた。

 

 撮影データは、本人確認後に選定。

 

 書き込もうとして、ペンが止まる。

 

 それは業務上の確認事項ではある。

 

 だが、樋口が求めたのは、手順だけではなかった気がする。

 

 俺が何を選ぶか。

 

 その前に、自分へ見せろと言った。

 

 理由を考え始めて、やめた。

 

 本人の意図を単一化しない。

 

 初日に自分で書いた文字を思い出す。

 

 約束を守ることと、相手を理解することは違う。

 

 理解できなくても、守れる約束はある。

 

 その程度のことを、俺はまだ信用とは呼ばなかった。

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