■金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
①豊川祥子
豊川家の屋敷は、いつもと変わらぬ静けさを保っていた。
高い門扉。手入れの行き届いた庭園。重厚な屋敷の外観。そのすべてが、この家が積み重ねてきた歴史と権威を物語っている。しかし、その門の前だけは、張り詰めた空気に包まれていた。
最低限の荷物だけを手にした少女――豊川祥子が、屋敷へ背を向けて立っている。
その正面には、一人の大学生の青年がいた。
黒髪を整えた豊川真我。
祥子の兄である彼もまた、何も持たず、ただ静かに祥子を見つめていた。
二人の間を、冷たい風が吹き抜ける。
祥子は真我を睨みつける。
「……止めに来ましたの?」
その声音には、怒りと失望が入り混じっていた。
真我は首を横に振る。
「違うよ」
「では何ですの」
「見送りに来た」
祥子の眉がわずかに動く。
「祖父様の命令で?」
「僕は豊川家の人間だからね」
真我は穏やかに答えた。
「豊川グループに忠実であれ。それが僕の役目だ」
その言葉を聞いた瞬間、祥子の表情が険しくなる。
「……やはりそうですのね」
彼女は小さく笑った。
それは嘲笑だった。
「貴方も結局、豊川なのですわ。頑張って、愛を注いでくれた父を見捨て、一族を選ぶ。立派ですこと」
真我は反論しない。
祥子は続ける。
「わたくしは違います。お父様はすべてを失いました。だからわたくしはお父様について行きます。誰が何を言おうと」
彼女は真っ直ぐ真我を見据えた。
「貴方が止めようとしても。祖父様が命じようとも私は――」
一歩前へ踏み出す。
「私は、私の心に従いますわ」
その宣言は幼い少女のものとは思えないほど強く、揺るぎなかった。
真我は、その瞳を静かに見つめ返した。
怒りも、否定もない。失望さえもない。しばらく沈黙が流れたあと、真我は小さく頷いた。
「うん」
それだけだった。
祥子は拍子抜けしたように目を見開く。
「……何ですの?」
「祥子さんが決めたんだ」
真我は穏やかに微笑む。
「なら、僕はその決断を尊重する」
祥子は言葉を失う。
止められると思っていた。責められると思っていた。だが、目の前の兄は違った。
「祥子さん」
真我は静かな声で続ける。
「君が選んだ道は、たぶん茨の道になる。楽ではない。理不尽もある。努力しても報われない日が来るかもしれない」
祥子は黙って聞いている。
「それでも、その道を望むなら進むといい。僕は止めない」
祥子の手が、荷物の持ち手を強く握り締めた。
真我は一歩だけ近づく。
「そして、もし逃げたくなったら、逃げてもいい」
祥子の肩がわずかに震える。
「助けてほしいと思ったら、僕を頼ってほしい。誰にも言えないことがあるなら、僕に話してほしい。君がどんな選択をしても、僕は君を尊重する」
祥子は俯いた。しばらく何も言わなかった。やがて、小さく息を吐き、顔を上げる。
「……貴方は」
少しだけ目を細める。
「本当に、お人好しですわね」
その声には、先ほどまでの棘が少しだけ薄れていた。
真我は困ったように笑う。
「よく言われる」
祥子は踵を返す。
門の向こうではなく、その外へ。父が待つ未来へ歩き出す直前、立ち止まり、小さく呟いた。
「……後悔はしません」
真我は静かに頷く。
「うん、祥子さんの人生だから。君が選んで、君が歩けばいい」
「では、ごきげんよう。お兄様」
祥子は振り返らなかった。
そのまま屋敷を後にし、小さな背中はゆっくりと遠ざかっていく。
真我は、その姿が見えなくなるまで見送っていた。
止めることはしない。
追いかけることもしない。
ただ、いつかその背中が疲れたとき、帰ってこられる場所であり続けようと、静かに心に決めていた。
◼️真我はノートを取り出し、静かに書き綴る
……祥子さんは、強い。
いや、正確には違う。
「強くあろうとしている」のか。あの年齢で、あそこまで自分の意思を貫ける人は多くない。
普通なら迷う。大人に従う。誰かに決めてもらう。でも彼女は違った。
「私は私の心に従いますわ」
そう言い切った。
あれは反抗じゃない、覚悟だ。
……でも、覚悟があることと、苦しまないことは別だ。
彼女は父親を選んだ。
豊川家ではなく、地位でもなく、財産でもなく。自分を愛してくれた人を選んだ。
たぶん彼女の中では、それ以外の選択肢なんて存在しなかった。だから止めても意味はない。
説得しても意味はない。人は理屈で決めたことより、大切な人を裏切らないための決断の方が、ずっと強い。
少し羨ましいとも思った。
あそこまで真っ直ぐ「この人についていく」と言える相手がいること。
でも同時に怖くもある。
もし、その相手が倒れたら。
もし、その相手が間違えたら。
彼女は一緒に倒れてしまう。
それくらい真っ直ぐだった。
……僕は止めなかった。止められなかった、じゃない。止めなかった。彼女の人生だから。誰かが「正しい道」を押し付けるのは簡単だ。でも、その正しさで生きるのは本人じゃない。
本人が選ばなかった人生は、きっと誰かを恨む人生になる。だから尊重した。尊重するって賛成することじゃない。
責任を押し付けることでもない。
「君には、自分で決める権利がある」
そう信じることだと思う。だけど、一つだけ願うことがある。
彼女はきっと、これから何度も後悔する。泣く日もある。父親を責めそうになる日もある。自分の選択を間違いだったと思う日も来る。
その時だけは「だから言っただろう」なんて言いたくない。帰って来られる場所くらい残しておきたい。
彼女は最後に言った。
「後悔はしません」
あれは今の本心だ。だから否定する必要はない。でも、人は未来の自分までは約束できない。
後悔する日が来てもいい。
弱音を吐いてもいい。
逃げてもいい。
その時に「あなたは間違っていませんでしたわ」と言ってもらうためじゃない。
「帰ってきても大丈夫だよ」と言える人でいたい。
それが今の僕にやりたいことで、できることなんだと思う。
内なる自分が言う。
「どうだった?」
……思っていた以上に、危うい子だった。
「危うい?」
覚悟がある人ほど、自分を逃がせなくなる。私は決めたから、私は後悔しないから。そう言い続けるほど、途中で助けを求めにくくなる。だから最初に逃げてもいい、と伝えておきたかった。
「なるほど、君は彼女の決断を守ったんじゃない。彼女の『未来の弱さ』まで尊重したわけだ」
そうかもしれない。人は変わる。今日の覚悟が、十年後も同じとは限らない。だからこそ、いつでも戻れる場所が必要なんだ。
「いい話だ。相談というものは、人の答えを決めることじゃない。その人が、自分で選んだ答えを抱えきれなくなった時に、もう一度話せる関係を残すことだ。君は祥子を送り出したんじゃない。『いつでも戻ってきていい』という選択肢を、彼女の人生に一つ増やした」
それだけで十分だと、僕は思いたい。彼女がなのまま幸せになれることを、祈るよ。
一区切りになる7/17日まで、昼の12時に更新されます。