■金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
顔合わせが終わり、真我は初華だけを会議室へ呼んだ。
2人だけの会議室に、静かな沈黙が満ちていた。
窓から差し込む昼前の光が、使い込まれた長机の表面を柔らかく照らしている。
二人の間に置かれた紙コップからは、細い湯気がゆらゆらと立ち上っていた。
真我は手元の薄い資料をゆっくりと閉じ、小さな音を立てて机の上に置いた。
「……さて。業務上の数値やスケジュール確認は、これくらいにしておきましょうか」
対面に座る初華が、微かに首を傾げる。
「業務以外の……お話、ですか?」
「ええ」
真我は穏やかな笑みを崩さず、静かに頷いた。
「本日の面談は、監査でも事情聴取でもありません。三角初華さん――いいえ」
一拍置き、彼女の目を真っ直ぐに見据える。
「……初音さんご自身が、これからどうしたいのか。その本当のお気持ちを聞きたいと思っています」
「っ……!」
その名が唇から漏れた瞬間、初華の肩が跳ねるように震えた。
名前を否定されたわけではない。責め立てられたわけでもない。ただ――隠していたはずの自分という人間そのものを見抜かれた。そんな冷たい悪寒と、妙な温もりが混ざり合った感覚だった。
「……ご存じ、だったんですね」
「ある程度は」
真我は肯定も否定もせず、ただ淡々と返す。
「豊川グループ側が把握している記録もありますし、私個人が裏付けを取った部分もあります。……ですが、それらはどこまで行っても『過去の事実』でしかありません」
落ち着いた声が、静まり返った室内に響く。
「私は、初音さんご自身が今、何を思われているのか……その『心』までは知りません」
初華は溢れそうになる視線を遮るように、膝の上でそっと目を伏せた。
責められるのだとばかり思っていた。
『どうして妹の名前を使って表舞台に立ったのか』
『一体どんな企みや目的があったのか』
詰問され、追い詰められる覚悟はとっくに決めていた。けれど目の前にいる男は、追及どころか、もっと根源的な「彼女の意思」にだけ焦点を当てている。
「……私、自身も」
ぽつり、と言葉の破片が落ちる。
「……自分が、本当は何をしたかったのか……分からないんです」
真我は口を挟まない。相槌すら打たず、ただ彼女が言葉を紡ぎ出すための安全な空間を保ち続けている。その沈黙が少しも苦しくないからこそ、初華は言葉を続けることができた。
「さきちゃんに……会いたかったんです」
「はい」
「ただ……それだけだったんです」
初華の唇に、乾いた笑みが浮かぶ。
「本当に、ただそれだけだったのに……」
ゆっくりと目を閉じる。思い返されるのは、流されるままに駆け抜けてきた怒涛の日々だ。
「気が付いたら東京に出てきていて、妹の名前を借りて、人前で歌って、テレビや雑誌に出て……気が付いたら、こんな……手の届かないところまで来ちゃって」
自嘲気味に、小さく息を吐き出す。
「……何をやっているんでしょうね、私」
「……なるほど。純粋に祥子さんに会いたかった、ただそれだけのだった」
「はい」
「なのに、肝心の祥子さんとは満足に関わることもできず」
「……ええ」
「自分は一体、何のためにここにいるのか」
真我は彼女の言葉を丁寧に引き取り、少しだけ間を置いてから言った。
「『会うこと』と『深く関わること』は、似ているようで全く別の事象ですからね」
初華が、弾かれたように顔を上げる。
「会いたかった。けれど……本当は、彼女に幸せになっていてほしかった。だからこそ、今の自分ではこれ以上近づけなかった」
その言葉は、まるで初華自身も言語化できていなかった心の奥底の結び目を、魔法のように解いていくようだった。胸の奥深くに、じんわりと染み込んでいく。
「……そう、かもしれません」
初華は力なく、悲しげに笑った。
「だって……っ」
声が一際大きく震え、彼女は自分の両手を強く握り締めた。
「全部……私のせいだから」
真我は否定しない。安易な慰めで彼女の感情を塗り潰すこともしない。ただ、その重みを確認するように問い返す。
「“全部”、とおっしゃるのですね」
初華は深く吸い込んだ息を、震えながら吐き出した。
「私が……さきちゃんのお父さんに、本当のことを話しちゃったんです」
「……はい」
「私が余計なことを言わなければ……黙っていれば、お父さんも、さきちゃんも……あんな風に壊れることはなかった」
沈黙が落ちる。その重苦しい事実を、真我はただ静かに聞いている。
「私が言わなければ……知らんふりをしていれば……」
「初音さんは、そうやって後悔していた?」
「……はい」
初華は俯いたまま、絞り出すように続ける。
「それからも……ずっと見ていました。さきちゃんのこと。……泣いているところも。泥をすするような思いで苦労しているところも。たった一人で無理をして、必死に頑張っているところも……全部」
握りしめた拳の指先が、白く変色していく。
「でも、私……何もしなかった。助けにも行かず、声すら掛けなかった。ただ遠くから見ていただけ……」
自嘲の笑みが、いっそう濃くなる。
「最低です。生まれなければ良かったのに」
真我は静かに首を横に振った。
「最低かどうかを判別することは、私の役割ではありません」
そして、静かに尋ねた。
「初音さんご自身は、その時どうして動き出せなかったのだと思いますか?」
「……逃げたんです」
迷いのない即答だった。
「怖かったんです。豊川グループという大きな存在が……」
初華の声が、かすかに小さくなる。
「正直……今でも、すごく怖いです」
「ええ」
「だから何もできなかった。……だから今さら、私からさきちゃんに近づく資格なんて、あるはずがないんです」
「なるほど、資格がない、と」
「はい……私が近づいたら、またさきちゃんを壊してしまう気がして……」
そこまで一気に捲し立てると、初華はふっと肩の力を抜き、困り果てたように笑った。
「なのに……」
胸の奥から溢れ出す感情を隠しきれず、目元を歪める。
「会いたいんです。……もっと話したい。昔みたいに笑ってほしい。もっと、一緒にいたい……っ」
涙は零れ落ちなかった。だが、その声は涙以上に切なく震えていた。
「おかしいですよね……自分から近づいちゃいけないって分かっているのに、会いたいだなんて……」
真我はしばらくの間、黙っていた。否定もせず、安易な同情も示さない。ただ、彼女の中で渦巻く感情の嵐が収まるのを、静かに待っている。
初華はふと、不思議な感覚に包まれていた。
(どうして……こんなに話してしまうんだろう)
目の前にいる男は、決して優しいわけではない。
「あなたは悪くない」なんて甘い言葉をかけてくれるわけでもない。傷ついた心を慰めてくれるわけでもない。
それなのに。
まるで、自分にとって都合の良い存在が、そこにぽっかりと用意されているかのようだった。
言葉を投げかければ、どんな歪んだ感情であってもそのまま器のように受け止めてくれる。無理に答えを出すことを強制しない。だから、安心して傷口を開いて見せることができる。
――そんな、甘く毒のような錯覚。
「……なんでか」
初華は、少しだけ気恥ずかしそうに口元を緩めた。
「真我さんには……何故か、素直に話せてしまいます」
「へぇ、そうなんですか。それはそれは」
「普通なら、こんなこと絶対に人に言えません」
「確かに話せないでしょう。弱みになり得る情報です」
「でも……」
ほんの少しだけ照れくさそうに、けれどどこか縋るような視線を向ける。
「真我さんに言ったら……何を言っても、大丈夫な気がするんです」
今日、初めて会ったばかりの男だ。
信頼関係も無ければ、深い思い出があるわけでもない。自分の命を救ってくれたわけでも、特別な絆を結んだわけでもない。
それなのに自分は、長年誰にも言えなかった胸の奥底を、当然のように吐き出している。
祥子のこと。
過去の過ち。
身を焦がすような罪悪感。
普通なら、絶対に人には言えない。話したところで理解されるはずもなく、最悪の場合、弱みとして利用されるのがオチだ。だからこそ、ずっと喉の奥に押し込め、鍵をかけてきたはずだった。
(……変だ)
初華はそっと目を伏せる。
彼が「優しいから」ではない。真我は決して安易に慰めない。「あなたは悪くない」といった耳ざわりの良い言葉で誤魔化すこともしない。
かといって、機械のように冷酷かと言われればそれも違う。
人の心を数字やデータとして処理している様子はないのに、まるで水面に落ちた自分の言葉だけを静かに掬い上げ、一切濁らせずにそのまま手元へ返してくるような感覚。
だが――「話しやすい」という言葉だけで片付けるには、あまりにも毒々しい感覚が残った。
もっと嫌で、どこか泥のように粘着質な感覚。
(……違う)
思考の奥で、恐ろしい正体が形を成していく。その真実に思い当たった瞬間、初華の背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
(この人……私にとって……都合が良すぎる)
どんな醜い感情を吐露しても、否定されない。答えを押し付けられることもなく、境界線を踏み越えてこない。それでいて、自分が本当に言いたかった場所へと滑らかに導いていく。
まるで……自分を救うためだけに誂えられた、完璧な「聞き役」。
自分が救われ、楽になるためだけに存在している都合の良い人間。
そんな身勝手な錯覚すら覚えてしまう。
もちろん、そんなはずがない。相手は豊川グループから遣わされた管理担当者であり、ビジネスの相手だ。利害関係すら一致していない敵かもしれないのだから。
それなのに、心のどこかで甘い毒が囁く。
(この人になら……私の身勝手な都合を押し付けても、許されるんじゃないか、って。最低だ、私)
猛烈な自己嫌悪が襲いかかる。
祥子に対してもそうだった。自分はいつだってそうだ。誰かを自分の都合の良い存在に祭り上げ、欲しい言葉を求め、勝手に期待して、勝手に傷ついて苦しむ。
そんな自分が惨めで嫌いだからこそ、人と距離を置いてきたはずなのに。
今度はその愚かな依存心を、目の前の真我に向けようとしている。しかし、真我は初華の沈黙を責めもせず、急かしもしない。
促すような言葉も投げかけず、ただそこに静然と佇んでいる。その静寂が、皮肉にも初華の乱れた呼吸を落ち着かせていくのだった。
(……やっぱり、おかしいよ)
この人は決して味方ではない。きっと敵ですらないのだろう。けれど――自分の中にある一番醜い感情を、そのまま預けてしまえるような恐ろしい器。
その奇妙で異様な違和感に、初華は最後まで名前を付けることができなかった。
真我は少しだけ間を置き、自身のネクタイの結び目に手をやると、静かに言葉を紡いだ。
「私は、初音さんの人生や選択を代わりに決めてあげるような立場ではありません」
「はい」
「豊川グループにはグループの立場や事情があります」
「ええ」
「そして祥子さんにも、彼女自身の人生と選択があります」
そこで一度言葉を区切り、真我は真っ直ぐに初華の瞳を見つめ返した。
「ですから、私が誰かの答えを代わりに用意することはありません。……ですが」
一歩、声のトーンが温かみを帯びる。
「初音さんが、ご自身の足で歩んでいくための『着地点』であれば、一緒に探すことはできます」
初華はゆっくりと、深く息を吐き出した。
その一言で、十分だった。
今すぐ罪が許されなくてもいい。今すぐ祥子の元へ駆けつけられなくてもいい。ただ、絡まった感情を誰かと一つずつ解きほぐしながら、前に進んでいく道筋。それが初めて、暗闇の先に少しだけ見えた気がしたのだった。
◆
「失礼いたしました」
会議室を後にし、重厚なドアが静かに閉まる。誰もいない静まり返った廊下に、真我の足音だけが低く響いた。
窓際に寄り、眼下に広がるビル群と行き交うミニチュアのような人々をぼんやりと見下ろす。胸の内で、深く息を吐き出した。
(……思っていた以上だな)
その時、脳裏の暗がりから「声」が落とされた。己の中に潜む、もう一人の自分――観察者としての思考だ。
『どうした』
(あの子は……とても傷ついている)
『だから?』
(放っておくわけにはいかない)
一瞬の静寂の後、内なる自分は刃物のような声で切り捨てた。
『それは業務か?』
真我は答えを保留する。
『違うな。お前は感情移入している』
(……かもしれない)
『かもしれない、ではない』
内なる声は、客観的な事実だけを冷淡に並べ立てる。
『豊川定治から話を聞いた時点では、彼女は単なる管理対象であり、危険な爆弾だった。扱いを誤ればグループに損害を与えるリスクファクターだ。お前の評価は揺らいだ』
…………。
『哀れだ。守りたい。救ってあげたい。庇護すべき存在。お前は無意識に、そう結論付けている』
反論の言葉が出てこなかった。作りものの笑み。強張った肩。誰にも明かさなかった深い傷。そのすべてが、真我の心に刺さったまま抜けない。
(あんな少女を、ただの爆弾として処理するのは間違いだ)
『違わない』
間髪を入れず、刃が突き立てられる。
『豊川グループにとって重要なのは、感情ではなく利益と損害だ。あの少女は豊川家の秘密を知り、祥子と深い接点を持ち、精神的にも不安定。危険因子とみなすには十分すぎる理由がある』
(それでも――)
『それでも?』
(あんなに傷ついているんだぞ)
『だから何だというんだ?』
(誰かが支えなければ、精神的に病んでしまう可能性だって)
『それを決めるのは誰だ?』
真我は唇を噛み締め、言葉を詰まらせた。
『お前か? 豊川グループか? それとも、初華本人か? 違うだろう。専門機関と資格を持った人間だ』
答えられない。内なる声は容赦なく追撃する。
『勘違いするな。あの少女は被害者であると同時に、加害者でもある。祥子の父親に真実を告げ、その結果として現在の破綻があることを本人も理解している。どれほど罪悪感に苛まれようと、犯した事実と責任が消えるわけではない』
(……分かっている)
『本当に分かっているのか? ならばなぜ、救済者気取りで手を差し伸べようとする?』
その問いにだけは、真我の思考が即座に反応した。
(助けを求めているように、見えたからだ)
暗闇の中で、内なる自分が嘲笑う気配がした。
『違うな。お前が、彼女を助けたいだけだ』
心臓を直撃する一言だった。
『初華が助けてくださいと言ったか? 「守ってくれ」「救ってくれ」と乞うたか?』
――言っていない。彼女はただ、溢れ出た感情を語っただけだ。
『なのにお前は、勝手に彼女を可哀想な被害者に仕立て上げ、自分の保護下に置こうとしている。それは支援などではない。お前のエゴが生み出した救済願望だ』
真我は強く眉をひそめた。
(……それでも、目の前で苦しんでいる人間を捨てることはできない)
『それが感情移入だと言っているんだ。相手の願いではなく、お前自身の救いたい、という感情を優先している』
空調の機械音だけが、虚しく廊下に響き渡る。
『もう一つ、忘れるな』
声のトーンがさらに沈み、氷のように冴え渡る。
『お前は豊川グループの人間だ。初華の味方でも、祥子の味方でも、正義のヒーローでもない。お前が守るべき最優先事項はグループの利益。その制約の中で、ギリギリの着地点を探すことだ』
真我は静かに目を閉じた。
ぐうの音も出ない正論だった。
自分はヒーローでもなければ、神でもない。一人の少女のために巨大な組織を敵に回す覚悟も、その権限もない。
だが――。
(利益を守ることと、目の前の人間を守ることは……必ずしも相反するわけではないはずだ)
内なる声は、それ以上何も答えなかった。重苦しい沈黙だけが、脳裏に残される。真我は目を開け、鏡のような窓ガラスに映る自分のネクタイを整えた。
「……感情は、否定しない」
誰に聞かせるでもなく、ぽつりと呟く。
「だが、感情だけでは動かない」
助けたい、守りたい、哀れだと思う。
その情が自分の中に存在すること自体は拒絶しない。だが、それを判断の基準にはしない。感情は人を動かす「動機」にはなり得ても、正解を導き出す「結論」ではないのだから。
真我はスーツのボタンをかけ直すと、踵を返し、再び澄ました顔で廊下を歩き始めた。
サブストーリーとして一番交流してほしいキャラは?(メインは祥子と初音
-
若葉睦
-
椎名立希
-
長崎そよ
-
高松燈
-
野良猫
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祐天寺にゃむ
-
八幡海鈴
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モーティス