金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」   作:あばなたらたやた

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⑦進むべき道

 

 豊川家の応接室に、紅茶の上品で香ばしい香りが静かに広がっていた。

 向かいに座る少女は、ティーカップを両手で丁寧に持ち上げると、一口含んでから小さく微笑んだ。

 

「今日はお招きいただいて、ありがとうございます」

「こちらこそ」

 真我は穏やかな笑みを浮かべ、カップをソーサーに戻した。

「祥子さんと仲良くしてくださって、ありがとうございます」

「そんな……私の方こそ、お世話になっています」

 

 長崎そよ。

 祥子、睦、立希、燈。すでに面識を得た四人に続く、最後の一人。

 物腰は柔らかく、受け答えも洗練されている。誰が見ても「優しくおっとりとしたお姉さん」という印象を抱くだろう。

 しかし真我の視線は、テーブルの下で膝の上に置かれた彼女の指先が、わずかに、そして繊細に動き続けているのを見逃さなかった。

 

 慎重に、言葉を選んでいる……何をどう切り出すべきか、探っている感じか。

 呼吸を整えるような短い間の後、そよは静かに目線を上げた。

 

「……祥子ちゃんは、お元気ですか?」

 

 真我は少しだけ目を細めた。嘘で誤魔化すような真似はしたくない。だが、踏み込ませるわけにもいかない。

 

「元気、とは言い難いですね」

 

 その言葉に含まれた温度だけで、そよは何かを察したようだった。瞳の奥に影が落ちる。

 

「今は……どちらで暮らしているんでしょう?」

「それは」

 

 真我は静かに首を横へ振った。

 

「僕からお話しすることではありません」

「……そうですか」

 

 そよの笑みは崩れない。しかし、質問の手を止める気もないようだった。

 

「では、どうして学校を辞めてしまったんですか?」

「それも、祥子さん本人から聞いてあげてください」

 

 短い沈黙が応接室を支配する。そよの指先が、ぎゅっと自らのスカートの布地を掴んだ。

 

「……でも祥子ちゃん、今とても困っていますよね?」

「そうですね」

「だったら」

 

 そよは少しだけ身を乗り出した。テーブルの上に影が伸びる。

 

「事情くらい教えてくださっても……私達なら、力になれます」

「その気持ちは、とても嬉しいです。ですが事情は、本人の口から聞くべきだと思っています」

 

 そよの笑みが、ほんの少しだけ固くなった。完璧だった優等生の面に、わずかな亀裂が入る。

 

「……私達に秘密にすることが、本当にさきちゃんのためなんでしょうか?」

 

 さきちゃん、ね。

 

「場合によります。ですが今回は、本人が『話すかどうかを選ぶ権利』を守りたいんです」

 

 そよは視線を落とし、冷めかけた紅茶の水面を見つめた。

 

「……待ちます」

 

 ポツリと、小さく呟く。

 

「さきちゃんが、帰ってくるまで」

「家には戻ってきません」

 

 真我の静かな一言に、そよは初めて大きく目を見開いた。

 

「……え?」

「祥子さんは、自分で選んだ道を歩いています。だから、この豊川家へ戻ることはありません」

 

 応接室が静寂に包まれる。時間が止まったかのような感覚の中で、そよは焦りを覆い隠すように指先をきつく組んだ。

 

「……じゃあ、私が迎えに行けば。話を聞けば。支えれば……!」

 

 その言葉には、隠しきれない切迫感が滲み出ていた。

 真我は、諭すように優しく首を振る。

 

「迎えに行くこと自体を否定はしません。でもそよさん、答えを知るために会うのではなく、祥子さんと『対話』するために会ってください」

「……違いがあるんですか?」

「あります。情報を集めることが目的になると、人は相手自身を見なくなってしまう。自分の聞きたい答えだけを探し始めてしまうんです。でも、対話は違います。相手が何を話したいか、何を話したくないか……その両方を尊重することです」

 

 そよは静かに息を吐いた。初めて、その胸の内に渦巻く感情の一部が口から漏れ出す。

 

「……そんな悠長なこと、言っていられません」

「困っているなら、すぐに助けないと」

「そうですね」

 

 真我は彼女の言葉を否定しない。

 

「でも、助けることと、踏み込むことは違います」

 

 そよは真っ直ぐに真我の瞳射抜いた。

 

「お兄さんなのに、ずいぶん冷たいんですね」

「そう見えるかもしれません」

「さきちゃんが苦しんでいても、待つんですか?」

「はい」

「どうして……!?」

 

 信じられない、と言いたげな表情だ。真我は少しだけ視線を泳がせて思案したあと、静かに、だが確かな芯を持って答えた。

 

「祥子さんの人生だからです。僕が正しいと思う道を歩かせるより、祥子さん自身が選んだ道を歩くことの方がずっと大切です。そして僕は……本人が逃げ出したくなった時に、逃げ込める居場所を用意しておくだけです」

 

 そよは小さく笑った。

 優しく、けれどどこか胸を刺すような、寂しい笑顔だった。

 

「……私は、使えるものは全部使います。人も、情報も、全部。さきちゃんを取り戻すためなら……みんなの居場所を守るためなら、必ず」

「そうですか。それが、そよさんの選ぶ道なんですね。――応援します」

 

 真我の拍子抜けするほどの言葉に、そよは呆気にとられたように目を見張った。

 

「……止めないんですか?」

「止める理由はありません。ただ」

 

 真我は柔らかく微笑む。

 

「その道を歩く中で、本当に困った時は相談してください。僕も、あなたが傷を負うなら浅いものであってほしい」

「なら、さきちゃんのことを教えてください」

「祥子さんの秘密は話せません。ですが、そよさん自身の悩みなら、いくらでも聞きます。個人のプライバシーではなく、金銭や権力が必要な時はいつでも頼ってください」

 

 その言葉に、そよの指先の動きが完全に止まった。

 目の前の青年は、自分を利用しようとも、説得して思い通りに動かそうともしていない。ただ純粋に、自分という人間そのものを気遣っている。

 そんな存在に出会ったことが、彼女にはあまりにも珍しかった。

 そよは再びティーカップに口をつける。

 洗練された、優雅な仕草。誰が見ても完璧な少女。けれど、カップを持つ指先だけが、落ち着き無くかすかに震えていた。

 

「……真我さん」

「はい」

「さきちゃん……今、笑えていますか?」

 

 真我は少し考えてから、あえて静かに答えた。

 

「それも、僕からお答えすることではありません」

 

 そよは小さく苦笑した。

 

「そう、ですよね……」

 

 無理に作った笑顔が痛々しい。

 

「私、さきちゃんの力になれたらと思っているんです。みんなが困らないように……みんなが集まれるように、居場所を守らないと」

「ふむ……『みんな』の居場所、ですか」

 

 真我はその言葉にだけ静かに反応したが、そこへ強く踏み込むことはしなかった。ただ、確認するように優しい声で問いかける。

 

「そよさんは祥子さんがいなくなって、それによって連鎖的に大切な居場所が壊れてしまうのを、恐れている?」

 

 その一言が、彼女の核心を突いた。そよの動きが完全に固まる。

 

「……そう、かもしれません」

 

 消え入りそうな声で、真実を認める。

 

「いなく、ならないでほしい。終わってしまうのは……少し、嫌なんです」

 

 その声は、迷子になった幼子のように震えていた。

 真我は深く、静かに頷いた。

 

「それでいいんですよ」

「え……?」

「そう思うことは、少しもおかしくありません。大切な人を失いたくない。安心できる居場所を守りたい。誰だってそう願います」

 

 真我は柔らかく微笑んだ。

 

「だから、その気持ちまで隠さなくていいんです」

 

 そよの瞳に、薄っすらと涙が滲んだ。

 

「でも、私は……きっと、少し欲張りなんです。祥子ちゃんのことも、みんなのことも失いたくなくて。たぶん……自分のためでもあるんだと思います」

「人の善意なんて、案外みんな自分のためでもあるんですよ」

 

 真我はあっさりと、だが包み込むように言った。

 

「安心したい。失いたくない。笑っていてほしい。全部、自分の願いです。だから、それを恥じる必要はありません。自分の感情は、あなただけのものです。そこに優劣も、善悪も、正誤も存在しません」

 

 そよは静かに、指先で涙を拭った。

 

「……それでも。私はできることを全部やります。祥子ちゃんを取り戻せるなら、何でも」

「それが、そよさんの選んだ道なんですね」

「はい」

「なら僕は、その道を祝福します」

「……どこまでも止めないんですね」

「ええ。ただ」

 

 真我は真っ直ぐに彼女を見つめた。

 

「誰かを繋ぎ止めるために、そよさん自身が壊れそうになったら……その時は僕を頼ってください。祥子さんを守ろうとするあなたもまた、守られるべき人なんですから」

 

 そよは言葉を失った。自分が「助ける側」ではなく「助けられる側」になるなんて、これまで考えたこともなかったからだ。しばらくの絶句の後、彼女は小さく、本日初めての人間味あふれる笑みを漏らした。

 

「……ずるいですね」

「どうしてです?」

「そういうことを言われると……少しだけ、頼ってみたくなるじゃないですか」

「それなら、いつでも歓迎ですよ」

 

 その穏やかな笑顔を見つめながら、そよは胸の奥で静かに確信していた。

(この人は、誰かを繋ぎ止める人じゃない……去った人も、迷っている人も、そして私みたいな人間も、静かに迎え入れてくれる『場所』そのものなんだ)

 

 そよはゆっくりと立ち上がり、綺麗なお辞儀をした。

 

「……ありがとうございます」

 

 静かに応接室を後にしようとする彼女の背中に、扉が閉まる直前、真我はそっと声をかけた。

 

「そよさん」

 

 振り返る彼女に、真我は最後に言葉を贈る。

 

「一人で抱え込む人ほど、『誰かを助けたい』と言うんです。だから、そよさんも助けが必要になった時は遠慮しないでください。自分を救えない人が、他人を救うことは難しい気がするんです。……他人を助けるのと同じくらい、ご自身も労わってあげてくださいね」

「……ふふ、お母さんみたいですね」

 

 一瞬だけ、“優等生のお姉さん”の仮面が完全に剥がれ落ち、年相応の少女の顔が覗いた。そよは小さく微笑み直し、丁寧に部屋を後にした。

 

◼️ 真我のノート

 そよさんは、とても優しい人だった。けれど、ただの「優しさ」という言葉だけでは説明がつかない。

 彼女は「失うこと」を極端に恐れている。だからこそ、すべてを繋ぎ止めようとするのだ。人も、関係も、居場所も、全部。

 

 最初は、純粋に祥子さんを助けたいのだと思っていた。だが会話を重ねて分かった。助けたい気持ちに嘘はない。けれど、その奥底にある本当の願いはもっと切実で、個人的なものだった。

 

『終わってほしくない』

 

 それが、彼女の真実だ。

 

『みんなも困らないように』という言葉。

 

 一見すると献身的で立派に見える。だが、その「誰もが困らないための居場所」の中に、彼女自身が含まれていないことが気になった。

 

 彼女は他人を守り、支えることには慣れている。けれど、自分が誰かに守られることには酷く生真面目で、慣れていないのだ。

 

 今日、一番意見がぶつかったのは「秘密」についての考え方だった。

 彼女は『事情を知ること』が救いにつながると信じている。

 僕は『話すかどうかを選ぶ本人の権利』を守りたいと考えている。

 

 どちらも「相手を救いたい」という善意から始まっている。けれど、救いのアプローチが根本的に違うのだ。

 正直に言えば、少し恐ろしかった。

 

 彼女は目的のためなら、情報も、人も、すべてを利用すると言った。あれは脅しでもハラフカシでもない。退路を断った人間の「覚悟」だった。だから僕は彼女を止めなかった。止めたところで意味がないし、何より彼女は自分で自分の道を選ぶ強さを持っているからだ。けれど、一つだけは伝えておきたかった。

 

『困ったら頼ってください』

 

 あれは決して、場を収めるための社交辞令ではない。

 そよさんは人を支え続ける。だからこそ、いつか限界が来て、誰にも支えられないまま倒れてしまう日が来るかもしれない。

 

 その時に「私は大丈夫ですから」と虚勢を張って笑ってしまいそうな危うさがある。それが心配だったのだ。

 別れ際、『ずるいですね』と笑った時の顔。

 あれが今日、初めて見せてくれた本当の素顔だった気がする。作られた完璧な優等生ではなく、一人の等身大の少女としての笑顔。

 

 少しだけ安心した。すべてを肩代わりすることはできなくても、彼女にも寄りかかれる場所が一つくらいあっていいはずだ。

 

 ……と、ここまで書いてペンを置くと、内なる自分が呆れたように語りかけてくる。

 

『今回は、君もかなり頑固だったね』

「……そうかな」

『そうだよ。彼女は「助けるためなら秘密も知るべきだ」と主張した。けれど君は、最後まで祥子の情報を開示しなかった』

「教えられるはずがないよ。あれは僕の情報じゃない。祥子さんの人生であり、彼女自身のプライバシーだ」

『なるほどね。つまり今回の対立は、けっして「善と悪」の戦いではなかったわけだ』

「うん。お互いの善意と譲れない美学の衝突だった。だからこそ難しい」

『整理してみようか。そよは「結果」を守ろうとしている。 CRYCHICという形や居場所を残すという結果をね。対して君は「過程」を守ろうとしている。祥子が自分自身で悩み、選択するという過程を』

「結果と過程……」

『そう。そよにとって最優先事項は「居場所が壊れないこと」だ。そのためなら多少強引な踏み込みも必要悪だと考える。一方、君にとっての最優先は「本人が意志を持って選択すること」。たとえそれが遠回りや破滅に見えたとしても、選択権そのものを尊重したい。――だから最後まで、二人はお互いを否定しなかったんだ』

「……価値観が違うことと、相手が間違っていることは別だからね。僕は、長崎そよという人間の覚悟と優しさを、とても高く評価しているよ」

『もちろんさ。あそこまで不器用に誰かを思える人間は珍しい。ただ、その強すぎる愛情は時として他人の境界線を踏み越えてしまう。だから君は釘を刺し、同時に手を差し伸べた』

『そして彼女も悟ったはずだ。君は人を強引に引き止める鎖じゃない。迷い疲れて帰ってきた時に、静かに扉を開けて待っている「家」なんだと』

「……それでいいさ。無理に誰かの生き方を変えたいとは思わない。傷ついて帰ってきた人に『おかえり』と言える存在でいたい。それが、僕の選んだ在り方なのだから」

 

サブストーリーとして一番交流してほしいキャラは?(メインは祥子と初音

  • 若葉睦
  • 椎名立希
  • 長崎そよ
  • 高松燈
  • 野良猫
  • 祐天寺にゃむ
  • 八幡海鈴
  • モーティス
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