金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
長崎そよ
長崎そよを豊川家の応接室へ差し込んでいた。
紅茶の香りが静かに広がる。
向かいに座る少女は、ティーカップを丁寧に持ち上げ、小さく微笑んだ。
「今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
長崎そよ。
祥子、睦、立希、燈。
四人とは既に面識ができた。だからこそ、最後の一人には自然と興味が湧いた。
祥子が選んだ五人目は、どんな少女なのだろう。
そう思い、真我から招待したのだった。
「こちらこそ」
真我は柔らかく笑う。
「祥子さんと仲良くしてくださって、ありがとうございます」
「そんな。」
そよは穏やかに首を振る。
「私の方こそ、お世話になっています。」
物腰は柔らかい。
受け答えも丁寧。
誰が見ても優しいお姉さんだと思うだろう。しかし真我の視線は、テーブルの下で小さく動き続ける彼女の指先を見逃さなかった。
考えている。
何をどう切り出すか。
慎重に、そして、やがて。
「……祥子ちゃんは、お元気ですか?」
真我は少しだけ目を細めた。
「元気、とは言い難いですね」
嘘はつかない。しかし、それ以上は踏み込ませない。
そよも、その返答だけで察したようだった。
「今は、どちらで暮らしているんでしょう?」
「それは」
真我は静かに首を横へ振る。
「僕からお話しすることではありません」
そよは笑顔を崩さない。
「そうですか」
「では、どうして学校を辞めてしまったんですか?」
「それも本人から聞いてください」
短い沈黙。
そよの指先が、小さく動く。
「……でも祥子ちゃん、今とても困っていますよね?」
「そうですね」
「だったら」
そよは少しだけ身を乗り出した。
「事情くらい教えてくださっても……私たちなら力になれます」
真我は穏やかに頷いた。
「その気持ちは、とても嬉しいです。ですが事情は本人の口から聞くべきだと思っています」
そよの笑みが、ほんの少しだけ固くなる。
「……私達に秘密にすることが、本当に祥子ちゃんのためなんでしょうか?」
「場合によります。今回は、本人が話す権利を守りたい」
そよは紅茶へ視線を落とした。
「……待ちます」
ぽつりと呟く。
「祥子ちゃんが帰ってくるまで」
「家には戻ってきません。」
その言葉に、そよは初めて目を見開いた。
「……え?」
「祥子さんは、自分で選んだ道を歩いています。だから豊川家へ戻ることはありません」
応接室が静まり返る。
そよは何かを考えるように指先を組んだ。
「……じゃあ」
「私が迎えに行けば。話を聞けば。支えれば」
その言葉には焦りが滲んでいた。
真我は優しく首を振る。
「迎えに行くことは否定しません。でも、答えを知るために会うのではなく、祥子さんと対話するために会ってください」
そよは静かに真我を見る。
「違いがあるんですか?」
「あります。情報を集めることが目的になると人は相手を見なくなる。聞きたい答えだけを探し始めます。でも。対話は違います。相手が何を話したいか。何を話したくないか。その両方を尊重することです」
そよは少しだけ息を吐く。
「……そんな悠長なこと、言っていられません」
初めて、少しだけ感情が漏れた。
「困っているなら、すぐに助けないと」
「そうですね」
真我は否定しない。
「でも助けることと、踏み込むことは同じではありません」
そよは真っ直ぐ真我を見る。
「お兄さんなのにずいぶん冷たいんですね」
「そう見えるかもしれません。」
「祥子ちゃんが苦しんでいても待つんですか?」
「はい」
「どうして……?」
信じられない、という表情だ。
真我は少し考えたあと、静かに答えた。
「祥子さんの人生だからです。僕が正しいと思う道を歩かせるより、祥子さん自身が選んだ道を歩く方が大切だと思っています。そして、本人が逃げたい時に、逃げ込む居場所を用意しておくつもりです」
そよは小さく笑った。
その笑顔は優しい。けれど、どこか寂しかった。
「……私は使えるものは全部使います。人も、情報も、全部。祥子ちゃんを取り戻すためなら。みんなの居場所を守る為なら必ず」
「そうですか。それが、そよさんの選ぶ道なんですね。応援します」
そよは少しだけ驚く。
「止めないんですか?」
「止める理由はありません。ただ」
真我は柔らかく微笑んだ。
「その道を歩くなら、困った時は相談してください。僕も傷を負うなら浅いようにしたい」
「なら、祥子ちゃんのことを教えてください」
そよは黙る。
「祥子さんの秘密は話せません。でも、そよさん自身の悩みなら、いくらでも聞きます。個人のプライバシーなどの情報ではなく、金銭や権力が必要な時は頼ってください」
その言葉に、そよの指先の動きが止まった。
目の前の青年は、自分を利用しようとも、説得しようともしていない。
ただ、自分自身のことを気遣っている。
そんな相手は、あまりにも珍しかった。
応接室には、静かな空気が流れていた。
そよは紅茶へ口をつける。
優雅な仕草。誰が見ても、おっとりとした優等生のお姉さん。けれど、ティーカップを持つ指先だけが、わずかに落ち着かずに動いている。
「……真我さん」
「はい」
「祥子ちゃん。今、笑えていますか?」
真我は少し考えてから答えた。
「それは、僕から答えることではありません」
そよは小さく笑う。
「そう、ですよね」
その笑顔は柔らかい。けれど、どこか無理をしているようにも見えた。
「私、祥子ちゃんの力になれたら、と思っているんです」
「うん」
「みんなも困らないように。みんなが集まれるように居場所を守らないと」
「ふむ……誰も、居場所ですか」
真我はその言葉にだけ、静かに反応した。けれど、そこには踏み込まない。
「なら、そこに自分も加えてください」
そよはゆっくり顔を上げる。
「私は……別に。みんながいてくれれば、それで十分だと」
言葉が止まる。
確認するような優しい声だった。
「そよさんは祥子さんがいなくなって、それによって連鎖的に居場所が壊れるのを恐れているんですね」
その一言で。
彼女の指先が止まった。
「……そう、かもしれません」
小さく。
本当に小さく頷く。
「いなく、ならないでほしい。終わってしまうのは少し、嫌」
その声は、幼い子どものように震えていた。
真我は静かに頷く。
「それでいい」
そよは驚いたように顔を上げる。
「え……?」
「そう思うことは、おかしくありません。大切な人を失いたくない。安心できる居場所を守りたい。誰だって思います」
真我は少し笑う。
「だから、その気持ちまで、隠さなくていい」
そよの目に涙が滲む。
「でも、私は。きっと。少し、欲張りなんです。祥子ちゃんのことも、みんなのことも、失いたくなくて。たぶん。自分のためでも、あるんだと思います」
真我はあっさり頷いた。
「人の善意は案外、自分のためでもあるんです。安心したい。失いたくない。笑っていてほしい。全部、自分の願いでもある。だから、それを恥じなくていい。自分の感情は自分だけのものです。そこに優劣や善悪、正誤もありません」
そよは静かに涙を拭った。
「……それでも。私はできることは全部やります。祥子ちゃんを取り戻せるなら、何でも」
真我は穏やかに頷く。
「それが、そよさんの選ぶ道なんですね」
「はい」
「なら僕は、その道を祝福します」
そよは少し驚く。
「止めないんですか?」
「止めません。ただ」
真我は真っ直ぐ彼女を見る。
「誰かを繋ぎ止めるために、そよさん自身が壊れそうになったら。その時は僕を頼ってください」
「……」
「祥子さんを守る人も、守られるべき人なんです」
そよは言葉を失った。
自分が誰かに助けられる側だと。
あまり考えたことがなかったからだ。しばらくして、小さく微笑む。
「……ずるいですね」
「どうして?」
「そういうことを言われると、少しだけ、頼ってみたくなるじゃないですか」
真我は笑った。
「それなら、いつでも歓迎ですよ」
その穏やかな笑顔を見つめながら、そよは初めて胸の奥で思った。
――この人は、誰かを繋ぎ止める人ではない。
帰ってきた人も、迷っている人も、長崎そよ自身も、静かに迎え入れる場所なのだ、と。
そよはゆっくり立ち上がり、小さく一礼する。
「……ありがとうございます」
そして応接室を後にする。
扉が閉まる直前、真我は静かに声を掛けた。
「そよさん」
そよは振り返る。
「改めてお伝えします。一人で抱え込む人ほど、『誰かを助けたい』と言います。だから、そよさんも、助けが必要になったら遠慮しないでください」
「はい」
「自分を救えない人が、他人を救うことは難しい気がするんです。だから他人を助けるように、自分も労わってあげてくださいね
「はい。お母さん、みたいですね」
一瞬だけ、そよの表情から”優等生のお姉さん”の仮面が揺らいだ。しかし彼女はすぐに微笑み直し、小さく頷いて部屋を後にした。
◼️ 真我はノートを取り出し、静かに書き綴る
……そよさんは、優しい人だった。でも、優しいだけでは説明できない。
あの人は「失うこと」を極端に恐れている。だから繋ぎ止めようとする。
人も。関係も。居場所も。全部。
……最初は祥子さんを助けたいからだと思っていた。でも話していて分かった。
違う。助けたいのは本当。だけど、その奥にある願いはもっと個人的だった。
「終わってほしくない」
それが一番大きかった。
「みんなも困らないように」
あの言葉。
一見すると、とても立派だ。でも、少しだけ気になった。「誰も」の中に、自分が入っていなかった。
あの人は、他人を守ることには慣れている。でも、自分を守られることには慣れていない。そして、今日、一番ぶつかったのは、秘密の話だった。
彼女は、「知ること」が救うことにつながると思っている。
僕は、「話すかどうかを選ぶ権利」を守りたいと思っている。
どちらも、救いたいという気持ちから始まっている。でも、救い方が違う。
正直に言えば、少し怖かった。
彼女は目的のためなら、情報も、人も、全部使うと言った。
あれは脅しじゃない。
覚悟だった。だから止めなかった。
止めても、きっと意味がない。
彼女は、自分で選ぶ人だから。でも、一つだけ伝えたかった。
「困ったら頼ってください。」
あれは社交辞令じゃない。
そよさんは、人を支え続ける。だからいつか、誰にも支えられない日が来る。その時に「私は大丈夫です」と笑ってしまいそうだった。
それが心配だった。
最後、「ずるいですね」そう笑った。
あれは、今日初めて見た、本当の笑顔だった気がする。
優等生のお姉さんじゃない。一人の中学生としての笑顔。
少し安心した。全部は無理でも、あの人にも、寄りかかる場所が一つくらいあっていい。
内なる自分が言う。
「今回は、君もかなり頑固だったね。」
……そうかな。
「そうだよ。彼女は『助けるためなら秘密も知るべき』と言った。でも君は最後まで教えなかった」
教えられなかった。
あれは僕の情報じゃない。祥子さんの人生であり情報だ。
「なるほど? つまり今回の対立は、善悪ではないわけだ」
うん。どちらも善意だった。だから難しい。
「整理しよう。そよは、結果を守ろうとしている。君は、過程を守ろうとしている」
結果と過程……。
「そよにとって一番大切なのは、『CRYCHICが壊れないこと』だ。だから、そのためなら多少の踏み込みも必要だと考える。一方、君にとって一番大切なのは、『本人が自分で選ぶこと』だ。たとえ結果として遠回りになっても、その選択権を守りたい」
……そうか。だから最後まで、お互い相手を否定しなかったんだ。
「そう。価値観が違うことと、相手が間違っていることは別だからだ。むしろ君は、そよという人間を高く評価している。」
もちろん。あれほど誰かを大切に思える人は、そう多くない。ただその優しさは、時として相手の境界線を越えてしまう。だから少しだけ心配なんだ。
「そして、そよも君を理解し始めた。君は人を引き止める人じゃない。帰ってきた時に扉を開ける人だ」
……それでいい。無理に誰かを変えたいとは思わない。帰ってきた人に、おかえり、と言える人でいたい。
それが、僕の選んだ在り方だから