金持ち大学生「どうしたん? 大丈夫? 話きこか?」 作:あばなたらたやた
豊川家の応接室に、紅茶の上品で香ばしい香りが静かに広がっていた。
向かいに座る少女は、ティーカップを両手で丁寧に持ち上げると、一口含んでから小さく微笑んだ。
「今日はお招きいただいて、ありがとうございます」
「こちらこそ」
真我は穏やかな笑みを浮かべ、カップをソーサーに戻した。
「祥子さんと仲良くしてくださって、ありがとうございます」
「そんな……私の方こそ、お世話になっています」
長崎そよ。
祥子、睦、立希、燈。すでに面識を得た四人に続く、最後の一人。
物腰は柔らかく、受け答えも洗練されている。誰が見ても「優しくおっとりとしたお姉さん」という印象を抱くだろう。
しかし真我の視線は、テーブルの下で膝の上に置かれた彼女の指先が、わずかに、そして繊細に動き続けているのを見逃さなかった。
慎重に、言葉を選んでいる……何をどう切り出すべきか、探っている感じか。
呼吸を整えるような短い間の後、そよは静かに目線を上げた。
「……祥子ちゃんは、お元気ですか?」
真我は少しだけ目を細めた。嘘で誤魔化すような真似はしたくない。だが、踏み込ませるわけにもいかない。
「元気、とは言い難いですね」
その言葉に含まれた温度だけで、そよは何かを察したようだった。瞳の奥に影が落ちる。
「今は……どちらで暮らしているんでしょう?」
「それは」
真我は静かに首を横へ振った。
「僕からお話しすることではありません」
「……そうですか」
そよの笑みは崩れない。しかし、質問の手を止める気もないようだった。
「では、どうして学校を辞めてしまったんですか?」
「それも、祥子さん本人から聞いてあげてください」
短い沈黙が応接室を支配する。そよの指先が、ぎゅっと自らのスカートの布地を掴んだ。
「……でも祥子ちゃん、今とても困っていますよね?」
「そうですね」
「だったら」
そよは少しだけ身を乗り出した。テーブルの上に影が伸びる。
「事情くらい教えてくださっても……私達なら、力になれます」
「その気持ちは、とても嬉しいです。ですが事情は、本人の口から聞くべきだと思っています」
そよの笑みが、ほんの少しだけ固くなった。完璧だった優等生の面に、わずかな亀裂が入る。
「……私達に秘密にすることが、本当にさきちゃんのためなんでしょうか?」
さきちゃん、ね。
「場合によります。ですが今回は、本人が『話すかどうかを選ぶ権利』を守りたいんです」
そよは視線を落とし、冷めかけた紅茶の水面を見つめた。
「……待ちます」
ポツリと、小さく呟く。
「さきちゃんが、帰ってくるまで」
「家には戻ってきません」
真我の静かな一言に、そよは初めて大きく目を見開いた。
「……え?」
「祥子さんは、自分で選んだ道を歩いています。だから、この豊川家へ戻ることはありません」
応接室が静寂に包まれる。時間が止まったかのような感覚の中で、そよは焦りを覆い隠すように指先をきつく組んだ。
「……じゃあ、私が迎えに行けば。話を聞けば。支えれば……!」
その言葉には、隠しきれない切迫感が滲み出ていた。
真我は、諭すように優しく首を振る。
「迎えに行くこと自体を否定はしません。でもそよさん、答えを知るために会うのではなく、祥子さんと『対話』するために会ってください」
「……違いがあるんですか?」
「あります。情報を集めることが目的になると、人は相手自身を見なくなってしまう。自分の聞きたい答えだけを探し始めてしまうんです。でも、対話は違います。相手が何を話したいか、何を話したくないか……その両方を尊重することです」
そよは静かに息を吐いた。初めて、その胸の内に渦巻く感情の一部が口から漏れ出す。
「……そんな悠長なこと、言っていられません」
「困っているなら、すぐに助けないと」
「そうですね」
真我は彼女の言葉を否定しない。
「でも、助けることと、踏み込むことは違います」
そよは真っ直ぐに真我の瞳射抜いた。
「お兄さんなのに、ずいぶん冷たいんですね」
「そう見えるかもしれません」
「さきちゃんが苦しんでいても、待つんですか?」
「はい」
「どうして……!?」
信じられない、と言いたげな表情だ。真我は少しだけ視線を泳がせて思案したあと、静かに、だが確かな芯を持って答えた。
「祥子さんの人生だからです。僕が正しいと思う道を歩かせるより、祥子さん自身が選んだ道を歩くことの方がずっと大切です。そして僕は……本人が逃げ出したくなった時に、逃げ込める居場所を用意しておくだけです」
そよは小さく笑った。
優しく、けれどどこか胸を刺すような、寂しい笑顔だった。
「……私は、使えるものは全部使います。人も、情報も、全部。さきちゃんを取り戻すためなら……みんなの居場所を守るためなら、必ず」
「そうですか。それが、そよさんの選ぶ道なんですね。――応援します」
真我の拍子抜けするほどの言葉に、そよは呆気にとられたように目を見張った。
「……止めないんですか?」
「止める理由はありません。ただ」
真我は柔らかく微笑む。
「その道を歩く中で、本当に困った時は相談してください。僕も、あなたが傷を負うなら浅いものであってほしい」
「なら、さきちゃんのことを教えてください」
「祥子さんの秘密は話せません。ですが、そよさん自身の悩みなら、いくらでも聞きます。個人のプライバシーではなく、金銭や権力が必要な時はいつでも頼ってください」
その言葉に、そよの指先の動きが完全に止まった。
目の前の青年は、自分を利用しようとも、説得して思い通りに動かそうともしていない。ただ純粋に、自分という人間そのものを気遣っている。
そんな存在に出会ったことが、彼女にはあまりにも珍しかった。
そよは再びティーカップに口をつける。
洗練された、優雅な仕草。誰が見ても完璧な少女。けれど、カップを持つ指先だけが、落ち着き無くかすかに震えていた。
「……真我さん」
「はい」
「さきちゃん……今、笑えていますか?」
真我は少し考えてから、あえて静かに答えた。
「それも、僕からお答えすることではありません」
そよは小さく苦笑した。
「そう、ですよね……」
無理に作った笑顔が痛々しい。
「私、さきちゃんの力になれたらと思っているんです。みんなが困らないように……みんなが集まれるように、居場所を守らないと」
「ふむ……『みんな』の居場所、ですか」
真我はその言葉にだけ静かに反応したが、そこへ強く踏み込むことはしなかった。ただ、確認するように優しい声で問いかける。
「そよさんは祥子さんがいなくなって、それによって連鎖的に大切な居場所が壊れてしまうのを、恐れている?」
その一言が、彼女の核心を突いた。そよの動きが完全に固まる。
「……そう、かもしれません」
消え入りそうな声で、真実を認める。
「いなく、ならないでほしい。終わってしまうのは……少し、嫌なんです」
その声は、迷子になった幼子のように震えていた。
真我は深く、静かに頷いた。
「それでいいんですよ」
「え……?」
「そう思うことは、少しもおかしくありません。大切な人を失いたくない。安心できる居場所を守りたい。誰だってそう願います」
真我は柔らかく微笑んだ。
「だから、その気持ちまで隠さなくていいんです」
そよの瞳に、薄っすらと涙が滲んだ。
「でも、私は……きっと、少し欲張りなんです。祥子ちゃんのことも、みんなのことも失いたくなくて。たぶん……自分のためでもあるんだと思います」
「人の善意なんて、案外みんな自分のためでもあるんですよ」
真我はあっさりと、だが包み込むように言った。
「安心したい。失いたくない。笑っていてほしい。全部、自分の願いです。だから、それを恥じる必要はありません。自分の感情は、あなただけのものです。そこに優劣も、善悪も、正誤も存在しません」
そよは静かに、指先で涙を拭った。
「……それでも。私はできることを全部やります。祥子ちゃんを取り戻せるなら、何でも」
「それが、そよさんの選んだ道なんですね」
「はい」
「なら僕は、その道を祝福します」
「……どこまでも止めないんですね」
「ええ。ただ」
真我は真っ直ぐに彼女を見つめた。
「誰かを繋ぎ止めるために、そよさん自身が壊れそうになったら……その時は僕を頼ってください。祥子さんを守ろうとするあなたもまた、守られるべき人なんですから」
そよは言葉を失った。自分が「助ける側」ではなく「助けられる側」になるなんて、これまで考えたこともなかったからだ。しばらくの絶句の後、彼女は小さく、本日初めての人間味あふれる笑みを漏らした。
「……ずるいですね」
「どうしてです?」
「そういうことを言われると……少しだけ、頼ってみたくなるじゃないですか」
「それなら、いつでも歓迎ですよ」
その穏やかな笑顔を見つめながら、そよは胸の奥で静かに確信していた。
(この人は、誰かを繋ぎ止める人じゃない……去った人も、迷っている人も、そして私みたいな人間も、静かに迎え入れてくれる『場所』そのものなんだ)
そよはゆっくりと立ち上がり、綺麗なお辞儀をした。
「……ありがとうございます」
静かに応接室を後にしようとする彼女の背中に、扉が閉まる直前、真我はそっと声をかけた。
「そよさん」
振り返る彼女に、真我は最後に言葉を贈る。
「一人で抱え込む人ほど、『誰かを助けたい』と言うんです。だから、そよさんも助けが必要になった時は遠慮しないでください。自分を救えない人が、他人を救うことは難しい気がするんです。……他人を助けるのと同じくらい、ご自身も労わってあげてくださいね」
「……ふふ、お母さんみたいですね」
一瞬だけ、“優等生のお姉さん”の仮面が完全に剥がれ落ち、年相応の少女の顔が覗いた。そよは小さく微笑み直し、丁寧に部屋を後にした。
◼️ 真我のノート
そよさんは、とても優しい人だった。けれど、ただの「優しさ」という言葉だけでは説明がつかない。
彼女は「失うこと」を極端に恐れている。だからこそ、すべてを繋ぎ止めようとするのだ。人も、関係も、居場所も、全部。
最初は、純粋に祥子さんを助けたいのだと思っていた。だが会話を重ねて分かった。助けたい気持ちに嘘はない。けれど、その奥底にある本当の願いはもっと切実で、個人的なものだった。
『終わってほしくない』
それが、彼女の真実だ。
『みんなも困らないように』という言葉。
一見すると献身的で立派に見える。だが、その「誰もが困らないための居場所」の中に、彼女自身が含まれていないことが気になった。
彼女は他人を守り、支えることには慣れている。けれど、自分が誰かに守られることには酷く生真面目で、慣れていないのだ。
今日、一番意見がぶつかったのは「秘密」についての考え方だった。
彼女は『事情を知ること』が救いにつながると信じている。
僕は『話すかどうかを選ぶ本人の権利』を守りたいと考えている。
どちらも「相手を救いたい」という善意から始まっている。けれど、救いのアプローチが根本的に違うのだ。
正直に言えば、少し恐ろしかった。
彼女は目的のためなら、情報も、人も、すべてを利用すると言った。あれは脅しでもハラフカシでもない。退路を断った人間の「覚悟」だった。だから僕は彼女を止めなかった。止めたところで意味がないし、何より彼女は自分で自分の道を選ぶ強さを持っているからだ。けれど、一つだけは伝えておきたかった。
『困ったら頼ってください』
あれは決して、場を収めるための社交辞令ではない。
そよさんは人を支え続ける。だからこそ、いつか限界が来て、誰にも支えられないまま倒れてしまう日が来るかもしれない。
その時に「私は大丈夫ですから」と虚勢を張って笑ってしまいそうな危うさがある。それが心配だったのだ。
別れ際、『ずるいですね』と笑った時の顔。
あれが今日、初めて見せてくれた本当の素顔だった気がする。作られた完璧な優等生ではなく、一人の等身大の少女としての笑顔。
少しだけ安心した。すべてを肩代わりすることはできなくても、彼女にも寄りかかれる場所が一つくらいあっていいはずだ。
……と、ここまで書いてペンを置くと、内なる自分が呆れたように語りかけてくる。
『今回は、君もかなり頑固だったね』
「……そうかな」
『そうだよ。彼女は「助けるためなら秘密も知るべきだ」と主張した。けれど君は、最後まで祥子の情報を開示しなかった』
「教えられるはずがないよ。あれは僕の情報じゃない。祥子さんの人生であり、彼女自身のプライバシーだ」
『なるほどね。つまり今回の対立は、けっして「善と悪」の戦いではなかったわけだ』
「うん。お互いの善意と譲れない美学の衝突だった。だからこそ難しい」
『整理してみようか。そよは「結果」を守ろうとしている。 CRYCHICという形や居場所を残すという結果をね。対して君は「過程」を守ろうとしている。祥子が自分自身で悩み、選択するという過程を』
「結果と過程……」
『そう。そよにとって最優先事項は「居場所が壊れないこと」だ。そのためなら多少強引な踏み込みも必要悪だと考える。一方、君にとっての最優先は「本人が意志を持って選択すること」。たとえそれが遠回りや破滅に見えたとしても、選択権そのものを尊重したい。――だから最後まで、二人はお互いを否定しなかったんだ』
「……価値観が違うことと、相手が間違っていることは別だからね。僕は、長崎そよという人間の覚悟と優しさを、とても高く評価しているよ」
『もちろんさ。あそこまで不器用に誰かを思える人間は珍しい。ただ、その強すぎる愛情は時として他人の境界線を踏み越えてしまう。だから君は釘を刺し、同時に手を差し伸べた』
『そして彼女も悟ったはずだ。君は人を強引に引き止める鎖じゃない。迷い疲れて帰ってきた時に、静かに扉を開けて待っている「家」なんだと』
「……それでいいさ。無理に誰かの生き方を変えたいとは思わない。傷ついて帰ってきた人に『おかえり』と言える存在でいたい。それが、僕の選んだ在り方なのだから」
サブストーリーとして一番交流してほしいキャラは?(メインは祥子と初音
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若葉睦
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椎名立希
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長崎そよ
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高松燈
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野良猫
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祐天寺にゃむ
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八幡海鈴
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モーティス