アリサ・バニングスは憤慨していた。
癇癪を起こした子供のように、誰彼構わず今すぐにでも怒鳴り散らしたい気分だった。
走る車の中、腕を組み、イライラと貧乏ゆすりを繰り返す。
緊迫した空気が漂う。運転手は静かにハンドルを握り締め、アリサには声一つかけない。触らぬ神に祟りなしなどと言うが、十三歳の思春期の女子中学生だ。触らぬ方がいいのははっきりしている。
赤信号で停車した車内でアリサは思い浮かべる。
月村すずかとユウのことを。
共に小学一年生の頃からの付き合いである。
片や親友で、片やちょっと気になっている男子である。その両方がここ数日間登校して来ていない。
真っ当な理由ならアリサもここまで怒りを溜め込んでいなかった。病欠なら心配しただろうし、見舞いに行くことに躊躇いはなかった。
問題なのは、ユウがすずかの家に泊まり込んでいることだった。
どちらか片方が登校しているならまだ良かった。登校している方に話を聞けば済む。それが二人とも登校していないとなると話は変わる。連絡しようにも電話にすら出ないのだから、アリサにとっては不安でしかない。
すでに4月は終わろうとしていて、明日からゴールデンウィークが始まる。今日を逃しては取り返しのつかないことになりかねない。だからアリサは運転手に指示を出し、すずかの家に向かわせていた。
込みあげる不安を怒りで覆い隠し、様々な状況を考える。浮かぶのは最悪の想像だけだ。
やがて40分も走った頃、車は月村邸へと到着する。何も言わずに扉を開けた運転手に待っているようにとだけ告げ、アリサは単身で乗り込んでいく。
インターフォンを鳴らし、顔なじみのメイドが姿を現す。そのメイドは一瞬だけ驚いた表情を浮かべ、すぐに愛想笑いを作った。
「いらっしゃいませ。すずか様に御用でしょうか」
「ユウもいるんでしょ? 呼んでくれる?」
「はい。いらっしゃいますが、少々立て込んでおりまして」
アリサは眉をひそめる。立て込んでいるとはどういう意味なのか。考えたところで分かるはずもないのに、嫌な方向にばかり考えてしまって、感情が表に出てきてしまう。
「用があるの。急用なの。今すぐ呼んできて!」
「……それでしたら、ご案内いたします」
「どうぞこちらへ」と中へ通されたアリサは、先導するメイドの背中を睨みつける。
大股で歩くアリサの胸の中で、心臓が早鐘を打ち始めていた。見たくないものをみるかもしれない。そう思うと緊張感が滲んでしまう。
案内されたのはダイニングで、僅かに話し声が聞こえている。そこへ通じる扉の前で、メイドはにこやかに告げる。
「少々お見苦しいかもしれませんが、ご容赦を」
「……どういう意味?」
メイドは答えず、扉を開ける。小さく聞こえていた声が鮮明になった。
「アルハラ反対! 理不尽反対! 他人の性癖を弄ぶな! 人の心がないのか!」
「なによ。別にいいじゃない。Mで脚フェチの変態だって自覚するのがそんなに嫌なの?」
「嫌だ!」
まず聞こえてきたのはユウの叫び声。心からの叫びだった。
それほどに必死な姿を見せるのは闇の書事件以来で、最早なりふりかまわないと言う内心が如実に表れていた。
「お酒は全部没収だからね! 飲みすぎだから! やりすぎだよ!」
「また買ってくるからいいわよ。なんだったらすずかが飲みなさい。そうしたらまた色々素直になって面白いでしょうし」
「お姉ちゃんっ!!」
余計なこと言わないでとすずかは語気を強める。
そんな二人を肴に酒を呷る月村忍。
アリサが目にしたのはそんな光景だった。
状況が掴めず狼狽えるアリサに、メイドが耳打ちする。
「お二人とも今日一日あんな調子でして」
アリサの目の前で、ユウが相も変わらず感情をむき出しに叫んでいる。
「脚フェチは認めるけど、Mじゃない! 多分違う! そんなことないと思う! そう言うならそうだって言う証拠出せよ!」
「すずかに力いっぱい抱きしめられて喜んでなかった?」
その指摘にユウは口ごもる。すずかとアリサの視線が集まった。
「……違う」
「私の目は誤魔化せないわよ。白状しなさい」
「……喜んでない。……ちょっと安心しただけ」
「母性を感じたのね。すずかは成長が速いから」
さもありなんと頷く忍。すずかは頬を染め、ユウは気まずそうに視線を逸らす。
「そこから始めるM道もあると思うわ。胸を張って生きなさい」
「M、なのか。俺は……」
「君はMよ。認めなさい。楽になるから」
項垂れるユウのことを、すずかが慰めている。
……なんだこれは。アリサの内心はその一言で表され、状況の不可解さに困惑が募る。
にやにやと二人を見ていた忍の元にメイドが歩み寄り、アリサの来訪を告げた。
「アリサちゃん。久しぶりね。どうかしたの?」
「は、いえ、あの……」
何をどう言えばいいのか。想定していた状況と隔たりがありすぎて、用意していた言葉は役に立たない。
考えたところで言葉は見つからず、言い淀むアリサを見て、忍は席を勧めた。
「丁度面白いところよ。あなたも座りなさい」
アリサは拒むことが出来ず、メイドに促されるまま席に座る。
「アリサちゃん、君はどう思う?」
「……何がですか」
「すずかはSで彼はMなんだけど、その他諸々の性癖から言って、相性はいいと思うのよ」
「は?」
問われたことの意味が分からず、アリサは呆ける。
「アリサちゃんはどうなの? S? M? 正直に話してみて。ちなみに私はどっちもいけるわ」
アリサは呆然と忍の顔を見つめる。
「何で来ちゃったの……」と言いたげなすずかが、アリサに同情の視線を向けていた。
◇ ◇ ◇
「つまり、こういうことですか」
性癖を聞き出そうとする忍と辛抱強く言葉を交わしたアリサは、おおよその状況を理解した後、その聡明な頭脳を、恐らくは人生で最も活用しながら、会話の主導権を手放さないことに努めていた。
「他人をどうこうするよりも、まずは自分自身を知ることが重要だから、そこの馬鹿の性癖を分析したと。それで、Mで脚フェチだったと……そういうことですか?」
「その通り」
アリサの言葉に、忍は満足げに微笑む。
余裕綽々な態度でグラスを傾ける姿は大人の色香を漂わせているものの、話の内容は下品な下ネタである。
こういう人間であることをアリサは知ってはいたものの、被害者の視点から見れば、これほど癪に障る光景もない。
「それで、すずかはS……」
「溜まっているものが多かったんでしょうね。あの時のすずかは本当に可愛かった……」
どこかうっとりとした表情を受け、アリサは横に座るすずかを見る。何らかの反論を期待していたが、当の本人は俯くばかりで何も言わない。その横顔は耳まで赤く染まっているのが見て取れて、間接的に事実であることが証明された。
「……なにしたの?」
「聞かないで……」
すずかは答えられない。アルコールに脳が侵されていようとも記憶だけははっきり残っていた。酒の恐ろしさをこれでもかと知ってしまった十三歳である。
後悔と羞恥心の入り混じった親友の顔に何も言えなくなるアリサ。
そこに放たれる愉快犯の虚言。
「すずかはそこの彼と一夜を共にしたからねー。今時の若者は早いわー」
「は?」
アリサの視線がすずかを飛び越えた先にいたユウに向けられる。
人を殺しているとしか思えないその視線を受け、ユウはすずかの影に隠れる素振りを見せた。
アリサは立ち上がり、ユウに掴みかかろうとする。
「待って。違うの。お姉ちゃんの話を信じないで! そもそも私のせいだから! 私がユウ君を抱きしめたまま寝ちゃったの! それ以外は何もないから!」
「……信じるわ。でもね、何も言わずに隠れようとしてるそこの馬鹿は一回殴っておくべきだと思うのよ!」
ユウを一発殴ろうとするアリサを、すずかは必死に押し留める。
修羅場を迎えた三人のことを、忍は腹を抱えて笑って見ていた。
「いいわねー。こんなに面白いのは久しぶりよ。……決めた。アリサちゃんもうちに泊まりなさい」
ユウにのしかかり、拳を振り上げていたアリサの動きがピタリと止まる。
「二人のことが気になるんでしょ? それなら泊まっていきなさい」
アリサとすずかは顔を見合わせる。
その隙を突き、ユウが這々の体で脱出していた。