朝の気配が森を満たし始めた頃、怜司は焚火の赤い光と熱で目が覚めた。
やや冷たい空気。湿った土の匂い。細い鳥の声。そして、何かの金属音。
地球の朝と似ているのに、どこか決定的に違う景色と音。
「起きたか、怜司」
ヴァルナが小鍋で何かを混ぜていた。金属音は重鎧の動作音と鍋をかき混ぜる音か。
少し離れた場所では、エリシエルは地面に突き刺した杖から水を出して顔を洗っていた。
水は彼女の形の良い細い指先から滴り落ち、朝日を受けて淡く光っている。
――異世界の朝だ。
夜が明けた事で怜司はようやく、その事実を実感する。
仰向けになって大きく伸びをしながら体中を延ばすと全身の骨が鳴った。
「水、要る?」
顔を洗う?と言われているのだろうと推測し、両手を差し出す。それが正解だったようでエリシエルの杖から水が手元へと流れてきた。
まるで透明な流しそうめん器のそうめん抜きだぁと寝ぼけ眼でぼんやりと見つめていれば、ちゃんと冷えた水が綺麗に手に収まり、お陰で徐々に眼が冴えてくる。
顔を洗い、ついでに口に含んでみるとミントのような香りが口の中に広がる。そこで瞳を強く瞑って刺激を与えて珈琲代わりとして水を吐き出した。いつものルーチンとは違うが、今後は慣れるしかないだろう。
顔から滴る水を手で拭ってみれば、目の前に布が緩やかに飛んできていた。
無言でそれを手に取ると、風が止んだ。エリシエルの杖から出ていたものだと推測し、
「ありがとう、水以外にも使えるものなんだな。あと昨日から思っていたんだが水に香りを付与しているのか? 魔法って便利だな」
「今朝はそんな面倒なことはしていないわ。此処にある薬草が丁度良かったから」
突き刺さっている杖の先にはめ込まれているエリシエルの唇と同じ淡い紫色の宝石は、今は薄い布で包まれていた。
薄っすらと見える緑色、それが薬草か。
つまりあの中で水を洗浄機や洗濯機よろしく混ぜ合わせ、外に出す際に濾過したということか。工夫次第で何でもできそうだ。
というかコレ、応用すれば洗濯も可能だ。となると、二人とも定期的に洗っているのではないかという仮説が思い浮かぶ。
「ほれ、こっちも出来たぞー」
ヴァルナの呼びかけで二人はそれぞれカップを手を取った。朝御飯は昨日の蛇肉の残りと野菜たっぷりのスープのようだ。この野菜、近くで取ったものなのだろうか。
解析して見れば、当たり前だが毒性は無かった。
いつものように軽く手を合わせてスプーンでモソモソと食べながら、今何時だとシステムに問い合わせてみる。
時間は地球換算で七時過ぎを指していた。健康的な起床時間と言えよう。
食べ終えるまで終始無言な時間が過ぎ、諸々の片づけと焚火の完全消火をし、ヴァルナがそれを土で覆う。
ヴァルナが鍋を布で覆い、一気に背負った。
まるで弓を使う事がないかのような背負い方をしているのが印象的だ。
まぁエリシエル居るしなぁ、という謎の納得感でうむ、と頷く。
そのエリシエルが杖の先に大型の鞄を括り付け、杖を肩に預けて歩き出したのを見て、怜司は頭の上にハテナマークを三個くらい飛ばすことになる。
「あー、何でそんなわざわざ重たくなるような持ち方を?」
「目立ちたくないから」
「いや……その方が目立つのでは?」
「女として目立ちたくないの」
確かに富士山クラスに鞄を肩掛けにしようものなら、より強調されるのは確実だ。
道中か、或いは街中か。いずれにせよそれで絡まれたのだろう。
それなら怪力と見える方がマシで変なトラブルにも巻き込まれない、という結論に至った可能性はありそうだ。
一体どれだけの回数を、と思って直ぐに気付く。
考えてみればエルヴァリエは不老でその美貌だ、そりゃあそうもなるなと妙な理解が生まれてしまった。
頭を振って切り替える。ここから十キロかぁと靴を見る。
転移当日にショートブーツを履いていてよかったと喜ぶべきではある。上司と同じ裸足やスリッパだったら目も当てられないところだった。
シミュレーターで登山もこなしたことがあるし、歩き方等の技術も脳にインストール済みだ。
これのお陰でフィールドワークもお手の物だったので大丈夫だろう。これは経験則に基づく絶対的な自信だ。
間違いない、ハズ。
「――もう少しゆっくり歩いた方が良い?」
「……助かるよ」
結論として、旅慣れた二人に追い付くのは割と無理だった。なんだあの速さ。いや足のコンパスの差かもと思ったがエリシエルは自分よりも身長が低い。
単純に旅人と研究者の違い、或いは種族差ということにしておこう。これ以上は悲しくなる。
結局予定よりも二時間遅れで到着した怜司達は、丁度乗合馬車が到着していたのもあり、そのまま乗ることになった。
見た目は何の変哲もない、ライブラリで見た形式の馬車だ。馬も大柄な点以外はシステム越しで見ても違いが無さそうだ。
まぁそういうものかと納得しつつ、システムに片っ端から知識として保存させる。
勿論、ドアの開け方くらいは流石に形状で予測はできるが、念の為ヴァルナに開けて貰ってもいる。これで二回目以降は自信をもってドアを開けられるだろう。
馬車の中に入って誰もいないのは田舎や白紙領外縁部の近くという事もあるのだろうなぁ、と推察する。
少なくとも村は結構寂れていたのもあるので、この根拠として恐らくは正しいと怜司は踏んでいた。
「さて、と。帝都につくまで何本か乗り継ぐことになる。この馬車に限っては途中乗車は殆ど居ねぇだろう。それまでテメェに常識ってのを叩き込まなきゃならねぇが……任せて良いか?」
「えぇ。そもそもの話として種族や大陸についてはギルドの本を読ませた方が効率的だから、私達の事とギルドについてだけで十分でしょう。――怜司、貴方これを解読できる?」
ゴソゴソと鞄から結構な量の紙束を取り出して渡される。
ラテン文字にも似ている気がするが別系統のそれを見てもさっぱりわからない。
(“文字解析を常時有効に”)
「……いや、現時点では全くわからない。言葉には音っていう取っ掛かりがあるし身振りもあるが、本にはそういう情報がないからなぁ。せめて読み聞かせてくれればいける、と思う」
確かにそうね、と頷いて対面に座っていたエリシエルが静かな動作で怜司の隣へと座った。
フードから少し覗いている一房の銀髪か、或いはそのローブ自体に仕掛けをしているのか。ふわっと柔らかな匂いが怜司の鼻孔に入る。
顔が見えずとも立ち居振る舞いや匂いからして、美人だと感じ取れるのは反則だなぁ……とズレた感想を抱きながらエリシエルの言葉に耳を傾け、眼でエリシエルが指す文字と単語について理解をしていく。
「これは私から見た白紙領外縁部の調査内容を、共通語で書き留めたものよ」
「――共通語ね。成程、良い教材になりそうだ……まぁちょっと分厚すぎる気がしないでもないが」
そう零して、ただ目の前の文字とエリシエルの言葉に集中する。システムの解析が音を経由して目の前の文字を読めるように変換していく。
途中で意味がおかしくなるところについては質問をし、同音異義語であったり、言葉にある法則によって意味が変わるものがあると返答が来る度、修正されていき、解析率が目に見えて上がっていく。
【暫定解析率87.9%、共通語における一般レベルの解読、及び言語による意思疎通可能】
システムが網膜に投影する情報に合わせる形でなんとかわかった気がすると一息ついてふと、顔を見上げてみれば。
対面にいたヴァルナがいつの間にか腕組みをして静かで深い眠りについていた。これには流石の怜司も半眼になるのも致し方ない。
「君はもしや、あーいうのを許せるタイプ?」
「休める時に休むのも戦士の仕事よ。気にしたらきりが無いし」
「いや本音……まぁ良いけどさ。取り合えず二つ、質問がある。まずこの本は冒険者ギルドへ提出する報告書だと思うが、俺の事は概ね省くのか?」
これがギルドに対する自身と白紙領でのイベント報告書である事が途中から解っていた怜司が、確認をする。
内容を完全に要約すると、白紙領外縁部に到着した際に野盗と接敵し、討伐した事。
野盗の死体が結晶化、結晶体となって襲い掛かってきた事。
その結晶体の強度は内縁部の同じものであり、四節以上の魔術や魔法でなければ殲滅できない事。
討伐直後に光る柱が中枢部から天へ昇った事。
危険と判断して退避した為、それ以上のことはわからない事。
これは怜司の事だけ嘘は言っていないレベルで変更が加えられている。主に時間軸を記載していないのだ。
「これで十分過ぎる内容よ」
「つまり、結晶とあの柱だけで良いってことか?」
その通りと小さく頷いたエリシエルは、嗜めるように言葉を紡ぐ。
「三百年前から何もなかった白紙領が何らかの動きを見せただけで十分な報告対象よ。それだけで別の調査隊が派遣される程の、ね。それに何の常識も知らない貴方を素直に渡したら、結果として私の身にも危険が迫るのは眼に見えている。それだけは避けたいの」
常識を知ったら別に保護対象から外れるのでは、と一瞬思った怜司だが、昨日の会話で技術者であることが致命的だという事を思い出す。
次いで身分を偽れる程、知識が無い……ということは結局怪しまれる事がほぼ確定しているという事実にたどり着いた。
これは詰んでいると確信した怜司は、話題を変えた。
「あと気になったのは記載内容そのものについてだ。絵心があるってことかな?」
「――どうしてそう思ったのかしら?」
微かに、本当に微かに面白がる響きで返すエリシエル。対する怜司は眉根を寄せ、ページを捲って指をさした。
それは白紙領の中枢から立ち昇った光の柱を模写したもの。怜司が問題としたのはその描写そのものだ。
全て自分が覚えていたもの、言い換えればシステムが保存している記録内容そのものからエリシエルの視界の高さと位置を差し引けば完全に一致している。
それも、光が昇り切った直後を、
事実ベースで考えれば報告書の内容自体は薄いが、それに対して記述量の多さも大きな違和感を招いた。
何が、いつ、どうなったかを完全に記載しているので、報告書の厚さが尋常ではない。
辞書といかないまでも、相当に厚い。
どちらかといえば怜司のシステムの記録構造に近いものを感じていた。
システムをぼかして指摘してみれば、僅かに感心したような吐息がエリシエルから漏れていた。
「そうね、
「――なんだって?」
そんな馬鹿な。
彼女が言う忘れない、という意味が人類のそれではなく真の意味で完全記憶能力としたら二十日持つかどうかだ。
人間の脳は生身の場合、多くても四ペタバイトしか保存できない。
怜司のシステムでさえあらゆる事象を記録した後、怜司が必要と認識した情報以外を四十八時間後に自動消去するように設定している為、容量不足になることを免れている。
しかし、言い方からしてそういう事ではないのだろう。
仮に自分たちと同じで記憶に圧縮や抽象化を行うという意味だとしても、そもそも不老と完全記憶能力は相性が決定的に悪い。
無限に生き続けられるとしたらどこかで破綻が来る。その結果は想像せずともわかる。ロクな事にならないだろう。
不老であるが不死でないとしたら、もしかしたらエルヴァリエにとっての寿命死の意味そのものが人類と違うのかもしれない。
そう考えて、言葉を選びながら伝えると、とうとうエリシエルは感嘆という感情を示した。
「そこまで思考を巡らせられるのは私が知っているヒューマ達の中でも稀少よ。しかもこれだけ少ない情報でそこに辿り着くなら、貴方がいた所は相当の知恵者が多く、教育水準も遥かに高いのね」
「あぁまぁ……確かに
「さぁ。先も言った通り、エルヴァリエの特性としか言えないわ。今までに記憶で困った事が無いし、寿命死という概念が無いのは確かよ」
「一番長く生きている人は? 千年とか?」
「五千年以上生きている人は知っているわ」
もうここら辺、種族が違うから、で済ませた方が良いなぁと真剣に検討し始める怜司。
科学の敗北で良いや、という投げやりな気持ちも溢れ出てくる。
進化論とかは流石に深掘りしていないし、脳にインストールしていないのだ。そういうのは所長にでも任せたい。
「あー分かった。それで結局、どういう立ち位置でいれば良いんだ?」
「記載している通り、貴方は記憶喪失で外縁部から離れた林で保護された。これだけ覚えてくれれば十分よ」
「いや流石にもうちょっと覚えられると思うが」
俺じゃなくてシステムが、というのは心の中でだけ付け加えておく。
ハッキリ言えば、この程度なら何十万冊あっても特に問題ない。
知識的な記憶としてバンバカ放り込んで思い出す事を指示すれば良いだけだ。
カンニングと言い換えても良い。もっとも指示内容が雑だったら思い出せない場合も無くは無いレベルではある。
どちらかというと思い出すのに時間がかかる、といった方が正しい。
ただ、それを迂闊にしゃべることはしない。互いにまだ初日といっても良い時間しか接触していないのだ。
いくらパーティに入ったといってもあくまで仮に過ぎないと考えた方が良いだろう。
いつまで続くかもわからない関係で、全てを話すのは早計だ。
「秘密は単純にするべきね。貴方は一切何も覚えておらず、けれど複数の言語が話せて読み書きもできる。腕っぷしには特筆すべき事は無いけれど、知恵に長ける。これ位で十分成り立つものよ」
「聞いてる限り、俺は技術者って職業に近いと思うが、それはどうなんだ?」
「貴方が帝国の技術者でない事はすぐにわかる事。貴方が自称さえしなければ気にする必要はないわ」
淡々と断言する彼女。
つまり社会制度か何かで判断できるものがあるということか。
「大体納得はできた。じゃあ他に何を覚えれば良いんだ?」
「そうね……貴方読書は好き?」
「え? あぁ、まぁ好きな方だと思う」
怜司はライブラリから脳にインストールするだけでは味気ないと考え、わざわざ紙媒体を使って読破する事を好む、かなりレアな懐古主義者だ。
それならとエリシエルは鞄から別の本を出した。きちんと製本されている事からどうやら報告書の
「ええと何々、アレクサンドリアーク帝国の歩き方……えっ、つまりガイドブック?」
「手持ちにはこれ位しか無いわ。他にあるのは魔導工学書と魔術書に魔法書位ね」
「そっちもどういう違いかからして興味はあるが……なんでこんなもんを?」
「新刊で読んでいないものはそれだけだったから」
「新刊て」
パラパラとページを軽く捲り、本当に観光用であることを確認して小さく息を吐いた。
つまりこの美女、重度の本の虫なのか。
完全記憶能力で本の虫とはまた何というか、趣味としては相性が良いなぁ、と感心したが故の吐息だ。
「凄いな、全部の本を読もうとしているのか」
「えぇ。必要だから」
その言葉に捲る指を止め、エリシエルに視線を送る。
しかし、冷たい美の象徴でもある横顔はフードで覆われており、怜司はそこから何となく拒絶の意を感じた。
これ以上は喋る気が無いという推測は当たっており、鞄から魔導書らしき本を取り出し、形の良い指先がページを捲る音が微かに響く。
肩を竦め、怜司も渡されたガイドブックを改めて読みだした。