結論から言おう。
怜司は銀級が泊まる宿に関して、完全に舐めていた。
ライブラリにあったファンタジー世界における宿のイメージは木製のベッドやテーブル一式等の狭い一人暮らし用のものが主で、それが土級だと想定している。恐らくそこまで間違っていないだろう。
銀級になれば流石にそういうものではなく、それでも精々広々とした部屋だろうという低い解像度しかなかった。
「ここよ」
陽も落ち切った時分、エリシエルに案内された宿は冒険者ギルドに近い一角にあった。
三階建ての大きな館だ、少なくとも部屋は外からみただけでも二十は下るまい。
まず白銀色に輝く外壁が眼を引く。雨や雪、或いは土埃などの汚れ一つなく、薄く静かに輝いている。
視界の端には離れがあり、より上客向けのしっかりとした設備が遠目からでも見て取れた。
次いで扉を見ると、銀色で描かれた二つの半月がズレて重なった紋章が刻まれており、その横手には「銀月館」と銘打たれた外壁と同じ素材で出来ている看板があった。
屋根の縁に等間隔で設置された魔導灯に照らされたエリシエルが扉を片手で開き、共に入る。
内部に入った瞬間、外の喧騒がまるで遠い波音のように一気に薄れた。同時に、柔らかな花の匂いが鼻孔を抜けていく。
思わず振り返ってみるが目に映るものは閉まりかけの扉を含めて何も変わっていない事で、反射的に解析の手を伸ばした。
(“音が薄れた理由は?”)
【音波射出……全層に遮音特化の魔導素材を検知】
(おっと、銀級ってそういうレベルか)
いや確かに自分が住んでいた研究所も遮音素材は当たり前のように使われているので、ある程度の文明なら付加価値としてその発想に至るハズ、そう納得して進む。
進みながら周囲を観察する事は絶対に忘れない。
天井をチラリと見れば高く、梁には魔導灯が吊るされている。その光は柔らかく、影を深く落とさない設計のようだ。
夜の月明かりをそのまま閉じ込めたような、目に優しく、落ち着いた銀色の光が周囲を照らしている。
床は大理石風の磨き上げたタイルで、歩くと想定よりも控えめな音が響く。先の解析した通り、吸音性もあるのだろう。
エリシエルの靴と杖音がいつもよりも小さく響いているのはそのせいかと納得した。
ロビー中央には低い円卓が複数置かれ、それぞれに一輪、黄色の六枚花が飾られていた。
何となしに一帯に解析を向ければ、魔力回復と鎮静の効果を持つ花だとわかる。
そこに座っていた冒険者の魔力を補填するように花粉が広がっているので間違いはないだろう。匂いの元はどうやらこれのようだ。
壁際には深い藍色のソファが並び、二人の冒険者が静かに腰掛けている。
そこで広がる会話は軽い談笑程度、まるでここでは静寂が礼儀かのような雰囲気だと怜司は感じた。
或いは荘厳と言い換えても良いかもしれない。
(この雰囲気で考えるに、前に所長に連れていってもらったホテルと同じ位、格式高いところだな……)
ロビーを歩み、エリシエルが受付に立つ直前に奥の部屋から老年の男が現れ、静かに一礼をした。
白髪は短く整えられ、背筋は凛として伸びている。深い皺の刻まれた顔に、鋭く深い茶色の眼。
黒色のジャケットに付けられたプレートを見れば支配人であることがわかるが、明らかにただの支配人ではない風貌をしていた。
「おかえりなさいませ、エリシエル様」
「彼の部屋を用意したいのだけれど、向かいの部屋が空いていたでしょう。まだ空いているのなら、そこをひと月借りれるかしら?」
支配人の眼が怜司に向けられる。
「あー、どうも。泊めて貰えると助かるんだけど」
支配人にとっては珍しく、茶色の眼の奥には極微量ながらも疑問が滲み出ていた。
右手を挙げながら皮肉気とも愛想とも取れる笑みを浮かべている怜司の立ち居振る舞いや装備は、少なくとも銀級ではない。
むしろ土級特有の慣れてなさ、それが雰囲気から読み取れた。
銀級の宿に泊まるには土級の十五倍もの費用が必要になる。相応の金を稼げる者か、貴族や商人の三男坊あたりの実家の財頼りの者、或いは一山当てた者でなければ早々に引き払う事になるだろう。
だが怜司にはいずれの気配も無く、また暴力の匂いもしない。
「はい、空いております。代金は彼から?」
「いえ、私が支払うわ。その後は協議次第ね」
「――承知しました、それではお二人とも、ギルド証の提示を。エリシエル様は宿泊費もお願いします」
そう言われることがわかっていたエリシエルは、話の途中から杖から鞄を開いて貨幣が入った袋とギルド証をカウンターへ置いた。
対照的に怜司はどこにしまったっけなと、ズボンとパーカーのポケットをポンポンと叩き、ようやく見つけてそっと置く。
支配人は慣れた手つきでまず袋から必要な貨幣を取り出して一つ頷き、エリシエルの手元へ返した。
その後、ギルド証を手元の端末に重ねて置き、情報を素早く確実に確認をする。
やはり土級、それも本日登録したばかりのヒューマだ。
また、魔力反応が無く、重度の記憶喪失者であるということも備考欄に記載されていた。
身元保証人はエリシエルの名前が記載されていること、ヴァルナ達とパーティを組んでいるという事まで開示されている。
あの二人の眼鏡に叶う新人という事は、何らかの大きな期待を寄せられている可能性が高いという事だ。或いは記憶喪失という点から見れば厄介事か。
支配人はそこまで考えて、打ち切った。
少なくともあの二人が保証しているという事、そして宿泊費はエリシエルが出すと言っている。
支配人としてはそれだけで十分だ。
怜司のギルド証と契約情報の紐づけをし終え、怜司へと返す。
ありがとうと返す怜司に物珍しさを瞳に閃かすが、目礼で鎮めた後、鍵を怜司に渡した。
「扉にギルド証を近づければ開きます。鍵は魔力が切れた、或いは認証が通らない場合にお使いください」
「ありがとう」
「案内は私が行うから後の事は気にしないで」
「承知しました」
本当に珍しい。ヴァルナ以外と積極的に関わりを持とうとしているエリシエルに対し、支配人は率直にそう思った。
エルヴァリエとしてみても異常とも取れる美貌に、種族特有の記録するのに最早必須と言える完全記憶能力、加えて不老故に強大化していく魔力と多数の魔法と杖を用いた洗練された戦闘技術。
それらが帝都で住まう冒険者や貴族、或いはそれ以上の者達の眼に止まるのは当然の事。
その全てに距離を置き、時には流血を以てヴァルナと共に孤高を維持していた彼女が、怜司を仲間として迎えている。
全く、年を取るのも面白い。
かつて仮がつくが彼女達のパーティメンバーの一人であった支配人は、心の中で笑みを零す。
「夕食は如何なさいますかな?」
「私も怜司もそれぞれの部屋で食べるわ」
「それではそのように手配しましょう。良い夜を」
「えぇ。良い夜を」
「あー、良い夜を?」
これって特有の挨拶なのかなぁと首を傾げて去る怜司と頓着しないエリシエルは階段で二階、つまり一階よりもグレードが高い上級冒険者が泊まる階へと上って行った。
(彼女が誰かを連れて帰るのは初めてだ。さて、あの若者は彼女にとって、どういう存在になるのだろうか)
過去の自分の時は、事件で一緒になってから一時期パーティメンバーとして参画していたが、一緒の宿に泊まる事もなければ、誘われることもなかった。
(或いは恋……ふん、ヴァルナでもあるまいし、彼女に使命がある以上、一番有り得ない事だった。やれやれ、年老いた故に噂好きになってしまったな)
かつての仲間に対する下世話な想像を首を振って叩き出した後、踵を返した。
一方で怜司達が階段を上りきると、廊下は一階よりさらに静かだった。
床は厚い絨毯が敷かれ、足音すら吸い込まれていく。
壁には銀糸で織られたタペストリーが等間隔で飾られ、魔導灯の柔らかな光がその紋様を淡く神秘的に浮かび上がらせている。
ちらっと見回してみたが隠れるスペースも無ければ死角も無い、正に完璧な配慮である。
エリシエルは迷いなく歩き、廊下の突き当たり近く、右手を向いて足を止めた。
「ここが貴方の部屋よ。向かいが私の部屋」
そう言われた怜司がギルド証を掲げてみれば、扉が奥へと静かに開いた。
自前の魔力でなくとも自動で開くこと自体に謎の感動を覚える怜司だったが、その先の光景で思考が止まった。
(いやいや、待て待て。これ、一人部屋じゃなくてスイートの一歩手前、じゃないか?)
まず目に飛び込んできたのは、広々としたリビングスペースだった。
壁は淡い銀灰色で統一され、天井に埋め込まれた魔導灯は星空のように散りばめられている。
床には深い青の絨毯が敷かれ、中央には大きなソファと低いテーブルがあり、一階の円卓にあった黄色の六枚花が一輪、花瓶に挿し込まれている。
成程、良い香りがするなと思ったらこれか。
また奥には寝室があり、ゆったりとした大きなベッドが置かれていた。その上には薄い魔導で構成された布がかけられ、触れずとも柔らかさが伝わってくるようだ。
さらに視線を壁際に移すと、大きなパネルが張り付いている。
なんだと思って解析に回してみれば、それは魔導式の暖房と冷房装置が一体化した物だとわかった。
その横には、シャワールームと浴槽が見える。浴槽は横幅が二メートルもあるようで、よくみれば腰かけができるタイプのようだった。ヴァルナのような長身でも十分入れるサイズ感だ。
(いやいやいやいや。俺、今日登録したばかりの土級なんだが? こんな部屋、絶対泊まっちゃいけない気がするんだが)
怜司が固まっていると、エリシエルが淡々と言った。
「銀級以上の宿は、魔力の回復効率と安全性が最優先よ。土級の宿とは比べ物にならないわ。防音設備も良く、部屋で話した言葉は一切外に漏れない」
「いや、比べ物にならないどころじゃないだろ……」
「貴方は私たちのパーティメンバーよ。早く慣れて頂戴」
怜司は思わず天井を見上げた。星空のような魔導灯が静かに瞬いている。慣れろってこれをか。いや絶対に慣れてはいけない気がする。
もしこの後、それ以下のグレードの宿に泊まったら確実に不満を抱くのは確実だ。
怜司の物言いたげな視線に対して、踵を返して切って捨てたエリシエルが思い出したように振り返る。
「明日の朝一にギルドへ行くわ。白紙領の報告が帝都中に広まっているはずだから、何かしら動きがあるでしょう。ヴァルナには私から連絡を取っておくから」
「了解。俺は何をすれば?」
「まずはきちんと休むこと。それと、渡された冊子もきちんと読んでおいて。冒険者としての常識は早めに覚えておくべきよ」
「あー、まぁ、そりゃそうか。了解」
エリシエルは軽く頷き、扉に手をかけた。
「夕食はすぐに運ばれてくるわ。ここにある設備は自由に使っていい。もし使えなかったら私を呼ぶこと――良い夜を」
そう言って、静かに扉が閉まった。
怜司は深く、深く息を吐いた。
(俺、今日からこんなところで暮らすのか……豪華すぎて暫くは慣れないな、コレは)
ちょうどその時、入れ違いのようなタイミングでノック音が響いた。
どうぞと答えてみれば、静かにドアが開き、
「失礼します。夕食をお持ちしました」
給仕が押してきたワゴンに乗せられた料理は、香りだけで高級とわかるほどだった。
一口サイズに切り分けられた肉のロースト、複数の香草が入った香り高いスープ、焼きたてのパン、それぞれグラスに入った果実酒と水。
それらを一つ一つ説明しながら綺麗な所作で低いテーブルへと配膳し終えると、一礼してすぐに出て行った。
座ってそれらを一口食べた瞬間、怜司は目を見開いた。
(旨っ。いや、これ普通に研究所の食堂より全然良いぞ。いや比べるのが流石に失礼か)
あっという間に平らげれば丁度良い満腹感と幸福感で満たされ、暫くぼんやりとソファーに腰かけて天井を見上げる。
やはり食事。食事が旨ければストレスは軽減されるのだ。地球に戻ったら意見具申してみよう。
いやそれは戻ってから考えればよいと首を振り、冊子を持って浴室へと歩む。
脱衣篭もあり、そこで衣服を脱いで丁寧に置く。
そのすぐ脇には男性向けの下着類が新品で置かれている事にも気づき、暫し迷った挙句、後でそれを使う事にする。
シャワーはどうやら現代と同じ構造のようだ。ただスイッチが無い。
疑問符を浮かべてノズル部分まで歩いてみれば、途端に湯が吹き出した。
「うおっと、そういう仕組みかコレ」
床か、或いはノズルの下に移動すると自動的に出る仕組みのようだ。楽で良いがどういう理屈でこれを作り上げたのかは興味がある。とは言え、冊子が濡れたので急ぎその場を離れて浴槽の隅に置き、改めてシャワーを浴びる。
湯に魔力が入っているお陰か、疲労感ともども洗い流される感覚と皮膚に若干の違和感を覚える。
自身の体を解析をしてみれば、どうやら皮膚に付着した汚れを魔力で洗い流している事がわかった。これなら石鹸要らずだな、と感心するほかない。
無論、近くには石鹸があるので使っても良いのだろう。せっかくだからと石鹸を手に取り、泡立ててみると思った以上に泡が膨れ上がる。
何となく。本当に何となく泡立てまくり、頭を含めた全身を泡で覆ってみることにすると、シュワシュワと汚れが落ちるような感覚がする。
微細な泡が毛穴の隙間に入り込むような錯覚を覚える程だ。
「うわーーーーーこれやっばいな、持って帰りたい」
ずっとそうしていたい気持ちもあったが、いつまでもこうしては居られないと考え直し、シャワーを起動させて泡を全て落とし切る。
次いで浴槽に沈み込み、隅に置いていた冊子を読むと、いつも以上に意識が研ぎ澄まされ、記憶力が上がっている気がする。
いや、気のせいではないと感じた怜司は浴槽の湯を解析してみれば、それ自体が調子を上げる効能を持っているようだ。
時折、水流が発生してまるでマッサージされているように感じるのも怜司が好むポイントになった。
(文明レベル、思った以上に高いなぁ)
ふと興味を覚えて、エリシエルから渡されたガイドブックを広げる。見るべき箇所は風呂、その文化と発祥の部分だ。
まず発祥についてはドルヴァ火山王国。
地下で籠った体臭や労働による汚れを落とす目的として火山地帯の源泉を、温度、鉱物含有量、湯の循環等を制御して温水場を設立した事が始まりだったという。
帝国はそこに着目し、上記に加えて寒夜でも暖かく過ごす為、地熱の代わりに魔導炉で調整した大浴場が作られた。
また、各国が密に連携していた自由都市時代に帝国の魔導工学者が主軸となった検証で、疫病防止としても十分であるという発表が為された事、これが大きかったようだ。
当時の皇帝が全世帯への普及を確定させ、時間が無い場合は雨から着想を得た魔導によるシャワーシステムが考案され、更に浴槽内にシャワーを設置する事で水流によるマッサージ機能が追加されるに至った。ただし後者は高級宿の設備であるとの注記がある――つまり銀月館のような。
これらが他国へも文化輸出されているという点から、他種族も公衆衛生は十分にあると結論がつけられよう。
(――自由都市時代、か……確か三百年前だったか)
思い出すのはエリシエルの言葉だ。
恐らく白紙領の内部がそこに当たるのだろう。
各国が連携して何かをするには大陸中心部の白紙領が一番楽だったのだろう、政治的にも。
だがそれだけではない筈だ。あんな異常事態を引き起こす何かがあり、それを利用しようとして失敗したと考える方が自然だ。
現に怜司側の人類でも惑星規模の事故が発生した時期が何度も有ったのだから。
(一体どういう所だったのかは、まぁ追々調べて、対策を講じてからだな)
そろそろのぼせることも考えて名残惜しそうに壁側にひっかけてあったタオルを掴み、あがった。
タオルで全身をふき取り、髪を良く乾かした後。
全身に心地よい疲労感と眠気が満ちて来る。
「いやぁ、これは見事なリゾート気分だ。明日から気を引き締めて調査しないとなぁ」
でっかい独り言である。しかもダラランっとした口調で何も説得力が無い。それで良いのだ別に、独りで此処に居るのだから。
だが、湯上がりの静けさの中で気づくものもある。
当たり前だが誰の声も聞こえない。システムのログだけが視界の隅で明滅している状態だ。
地球の研究室でもこんなものだった。
ただあの時は……朝になれば所長の怒鳴り声や同僚と部下や笑い声が聞こえたものだ。
それは、もう無い。無いのだ。
居た堪れなさと、懐かしさが奇妙に同居した感覚に襲われる。
どことなく気まずげにベッドにもぞもぞと入り込むと、天井の明かりが緩やかに消えていく。
ベッド自体と魔導布の柔らかさが身体を包み込み、その感触に驚きは一瞬。
それ自体がもたらす催眠効果で、怜司はあっという間に眠りへ落ちていった。
野郎のシャワーシーンを書く事になるとは……