翌朝。
「――信じられない。ちゃんと眼が覚めてる」
とてつもなく快眠であった。
地球で暮らしていた時よりも遥かに快適――というよりも研究に打ち込み過ぎてそれ以外が疎かになっていただけで、実際は銀月館の寝具よりもケア機能を使えば遥かに上質な睡眠を手に入れる事が出来るのだが――とにかく快適だった。
ここに転移した後も野宿、或いは簡易宿に泊まっていた事と比較してみれば天地の差があると言えよう。
おなかいっぱい、おいしいごはんが食べれたこと。
リラクゼーション効果のある花やベッドの快適性等も含めれば、完璧に熟睡できたといっても過言ではない。
そして入眠時間はなんと二十一時だ。そりゃ朝の八時キッカリに目覚めもする。
怜司的には四時間の寝坊となるが、どうせ異世界での生活だ、そこまで自身を律する事は無いとして気を完全に抜いての睡眠。実に半年ぶりである。
疲労感なんて欠片もあったものじゃあない。
全身スッキリ。頭も冴え渡っている。
さっさとベッドから降り立った怜司は洗面所に移動し、備え付けの錠剤を口の中に入れて嚙み砕く。
すると、口の中に水が生まれた。
それが汚れを落とすということを銀月館の冊子に書いてあったのだ。試しにやってみれば成程、怪我をしない程度の水流が口の中で緩やかに回っていた。これ知らずに口に入れてたら吹き出していたなぁ。
二分ほど経って吐き出し、蛇口に手を伸ばす。
何も起きない事に疑問符を浮かべるが、直ぐに気づいて、脱衣篭へ向かい、パーカーからギルド証を取り出した。次いで、そのまま寝巻のポケットに放り込む。
すると、蛇口から水が出るようになったので顔をバシャバシャと洗う。
魔力が無いと不便だが、ギルド証に籠めた魔力のお陰で生活ができるという事は偉大だなと噛みしめる。
逆に言えばそういう事故で暮らせない人が減らないから、そういう福祉としてあるのかもしれない、そう閃く。
寝巻と脱衣篭に放り込んでいたパーカーとカーゴパンツ、靴下一式を取り出して着替えた。
流石に珈琲は無いが、先に思った通りルーチンを組まずとも眼も思考も冴え渡っている。
あの儀式じみた一連の所作がなくても、自分は問題なく動ける。
その事実は妙に落ち着かなくさせるが、まぁ一旦やらないでも良いだろう。
悪い事が起きるわけでもあるまいしと思い、冊子をパーカーのポケットに放り込んでそのままドアを開けた。
開けた瞬間、見覚えのあるローブが視界に入ると同時、胸に軽い衝撃が走った。
「おっと」
「あ、ごめんなさい。開くとは思わなかったわ」
「あー、いや大丈夫、これは事故って奴だ。俺は気にしない。しかし凄い偶然もあったものだ。まさかこんなコントみたいな事が起きるなんてな」
そう軽口を叩く怜司だが、同時にいつものルーチンをこなしていればこういう不運に巡り合うことが無かったのでは、という事実に思い当たる。
何となく幸先が悪いなぁと頭を掻いて、
「あー、俺、朝飯まだなんだけどそっちは?」
「私もよ。一階で食べようと思って」
そう話しをしながら自然と二人の足は階段へ向かう。
朝の銀月館は夜とはまた全く違う顔を見せている。
通路から漂う花の香りは肩の力を抜くような、何度でも深呼吸したくなるような効力があった。
魔導灯は微弱に設定されており、代わりに窓から優しい陽の光が差し込んでいる。
それは眩しさもなく、ただ穏やかで静かな雰囲気作りに一役買っていた。
静かで良い場所だ、と怜司が思わず呟くと、隣に在るフードが微かに上下に動いた。
表情は見えないが、互いに穏やかなものを映しているのだろう、怜司はそう推測していた。
まぁエリシエルなら無表情で頷いている可能性も無くはない。
根拠としてこの一週間以上の旅路で彼女の表情筋が働いたのは、主にヴァルナへの呆れが大多数だったからだ。真っ先に自分の事を棚に上げておくの事だけは忘れない。
世間話程度なら眉一つ動かさないかもなぁ、と思うが、流石にそれを口に出すことはしなかった。
食堂はロビーの奥。
そこに入れば木製のテーブルがゆったりとした間隔で並んでいるのが見て取れる。側面にあるのは新聞のようだ。
客は二名二組。怜司達の出現に視線を動かし、多少の驚きを伴いながら視線が外された。
怜司は知らないが、エリシエルは銀月館のみならず、様々な理由から帝国でも有数の名声を誇る有名人なのだ。
まさか同じ館に連れがいるとは思わなかったのだろう。
とはいえ、深入りせずに雑談に戻る辺り、彼らも歴戦の冒険者だ。もっとも、ゴシップめいた言葉が入り混じるのは致し方無い。
それらを一切無視してエリシエルは一番奥、左手の席に座った。どうやらそこがいつもの場所なのだろう。
怜司も対面で座る。
「怜司様、朝食はどれにいたしましょうか?」
静かに寄って来た給仕がメニューを差し出しながらそう声をかけてきた。
ざっと見てどれでも良さそうだと判断した怜司は、
「あー、特に気にしていないから任せるよ。エリシエルは?」
「いつもので問題ないわ」
「承知しました、では同じものをお持ちします」
しずしずと下がる給仕。出されるまで時間があると踏んだ怜司はテーブル側面に備え付けられていた新聞を取り出し、許可を得た上で改めて熟読する。
言語解析もだいぶ進んできたおかげで、ほとんどの文字が読めるようになってきたのはありがたい。
一面には大きく、こう書かれていた。
《帝都にて鋼一枚、土二枚の技術者が殺害される。貴族派と皇帝派の抗争か》
センセーショナルな見出しだと怜司は眉をひそめる。
(そういえば技術者が狙われるって話、ヴァルナ達が言ってたな。新聞に載るレベルってことは、相当な事件なんだろう……にしてもなんだこの、枚というのは。冒険者ギルドの等級とは違うって事か?)
新聞で記述されるくらいには大事件なのは何となく把握できたが、中身を検めてみれば大して記載されていない事に気づく。
これは沈黙は金なりということだなと悟り、思わず首を竦めてページを捲る。
《スイッチ式街灯に新たな革命。魔力ではなく日の光を増幅・蓄積するランタンが発明される》
(ソーラー式ってことか? 意外だ、魔導文明でこれは普通じゃないってことか?)
読み進めると、さらに興味深い一文があった。
《蓄光式ランタン発明者を抱え込んでいた男爵、功績により子爵へ》
怜司は思わず息を呑む。
(発明で爵位が上がる? 技術者の価値が高い社会ってことか。となると競争も激しそうだが、それにしては殺害云々があるのは気になるな……どういう社会構造なんだ、一体)
更にページを捲ると、隅に活字を詰めただけの欄が出てきた。
《ドルヴァ火山王国との緩衝地帯にて隊商が襲撃を受ける。冒険者ギルドは野盗の犯行と発表》
《神骸鉱の入荷が滞る。第二環の工房より苦情相次ぐ》
《ヴェルノクタ南東国境にて軽微な武力衝突。神聖国側は関与を否定》
《エルヴァリエ樹盟産の織物、取引価格が上昇》
見出しはともかくとして、中身は三行程度で収まっている。
一面にあった事柄は詳細を書けないから薄かったのだろうが、こちらは端から書く気が無いらしい。
絵もなければ地図も無い。昨日システムと一緒に暗記した内容を引っ張り出して、ようやく方角や国名に合点がいった。まぁいっただけなんだがね。
(白紙領から見て北にエルヴァリエ樹盟、南西にドルヴァ火山王国、南にヴェルノクタ……場所はまぁ、わかるんだけどなぁ……)
文字はわかるが実感はさっぱりだ。
更に言えば遠くで起きた大事なのか、毎月転がっている程度の話なのか、そこを判断できる材料や知識を怜司は持っていなかった。
この国の人間なら一目でわかるのだろう。
とはいえ、大見出しとまではいかないならそこまで大した情報で無いのだろうとアタリをつけて、新聞を畳みながら視線をあげれば、エリシエルは杖から水を出してまた執筆活動に励んでいた。
それを見て、そういえばと怜司は声をかけた。ちょっとした疑問の解消だ。
「あー、エリシエル。何でフード被ったままなんだ?」
「……言わなくてもわかるでしょう?」
「いやまぁ、それはそうかもしれないんだけどさ。流石にずっと被るのは辛くないか?」
「いいえ、むしろ私にとってはこれが一番楽なの」
そんなに眼を隠すのが楽になるのか。
エルヴァリエは良く分からないと思っていた怜司だが、俯いていたエリシエルが顔を上げて視線を合わせて来たことで、この話が思った以上に地雷だという事に気づく。
蒼色の瞳は無感情ではなく、鋭さを伴って視線で切りつけてきていた。
不理解への落胆と不信、いずれも含まれたものだ。
「あーすまない、別に疑問に思っただけさ。以後気を付けるよ」
「――待って。もしかして貴方、種族表を読んでいない?」
「種族、表?」
困惑した様子の怜司にようやく合点がいったと視線を和らげるエリシエル。
吐息を一つ、テーブルへ零して、
「ギルドにあるからついでに貰いましょう。七種族について貴方は一度知るべきね」
「七種族っていうと、エルヴァリエとノクタリエ、ヒューマ以外にいるって事か? 確かに国っぽい名前は出てきていたけどさ」
「渡された冊子の通り、シェオル大陸には六つの国があるわ。そこに
「……数、合わなくない?」
「それも含めてよ」
給仕がしずしずと食事をテーブルへと乗せに来た事で会話が打ち切られた。
並べられる皿の数が思った以上に多い。それもあってか、二人席のテーブルにしては広い事に気づく怜司。
解析越しに見て取れた暫定情報として、手元に置かれたのは根菜と鳥肉のスープだった。
香草の爽やかな香りが湯気を介して鼻をくすぐるようにして抜けていく。
いただきますと呟いて試しにスプーンを入れると、柔らかく煮込まれた根菜と肉がほろりと崩れた。
すくって飲めば、味わった事が無い美味しさと香り高さが際立ち、後引くことのないさっぱりとしたスープだ。
何となく、コンソメベースに近いなという雑な感想が出た。
次いで目に入ったのは白身魚のソテーに黒いパンだ。
薄い塩味に白身魚のさっぱりとした味わい。パンを齧ってみれば外はサックサク、中はフワッとしている。
思い付きで黒パンをスープに少しだけ付けると、両方の素材の旨味が引き立った。これは良いアイディアだと自画自賛しながら食べ続ける。
視線を奥へと向ければ白い器がある。
覗き込んでみれば入っているものは卵だ。何の卵かはわからないが茶碗蒸しに似ている。より固めではあるがそれに近い。
ハクリ、と食べてみれば成程、ウズラのような味わいだ。それぞれが重くならず、朝食として考えれば丁度良い塩梅だ。
と。
何やら視線を感じて顔をあげてみれば、どこか感心したような、呆れたような雰囲気を発しているエリシエルと眼がバッチリあった。
「あー、何か粗相でもしたかな?」
「いえ……その、味の品評をしながら食べる人、初めて見たから」
「え」
久しぶりのまともな外食……外食でいいのか?
とにかくそう、お出しされた食事が美味しかったので、つい独り言が転がり落ちていたのだろう。
素早く周囲を見渡してみれば、興味を引いてしまっていたようで、この食堂にいる者達から生温かい視線がジンワリと向けられていた。
急に恥ずかしくなってきた怜司は、十分に留意しながら並べられた食事を静かに平らげていく。
最後に、ハーブティを口に含んで驚いた。
珈琲とは全然違うのに、コレは何となく自分に合うと直感が訴えかけてきていた。
怜司が初めて珈琲を呑んだ時に感じたものと全く同じパターンだ。
もしや早速代替物が見つかったのかもしれない。後でこれの入手方法を聞いてみるか。
色々な意味でさっぱりとした気持ちになった怜司は、ごちそうさまと呟いて顔を上げる。
エリシエルの皿は既に空っぽでこちらを待っているようだった。意外と健啖家なのかもしれないなと思うに留め、立ち上がる。
銀月館から出て冒険者ギルドへ歩むがてら、今度はエリシエルが話しかけてきた。
「昨日はよく眠れた?」
「勿論さ、あんなベッドで眠るなんて久しぶりだ。普段はカプセ……ほぼ床のようなところで寝てたからな」
返された言葉にエリシエルは小さく瞬きをした。
人通りが少ない朝故、声量を抑えた声が怜司の耳朶を優しく叩く。
「貴方、本当に技術者ね」
「いや待ってくれよ、技術者が何でも床で寝ると思うのは間違いだぞ。ちゃんと帰ればあれ位のベッドはある」
「つまり普段から家に帰っていないということね」
ぐうの音も出ない怜司は、曖昧な笑みを零して視線を逸らした。
今日も青天だ、間違いなく洗濯日和だろう。
そういえば洗濯物って脱衣篭に収めてれば勝手に洗濯してくれるって書いていたが、それって魔導なのか人力で回収するのかは気になるところだ。
益体もない事を考えても、当たり前だがエリシエルの考察という名の追及は止まらなかった。
「――久しぶりに帰ると掃除から始める人?」
「あー、なんだ。ほら、気になったら仕方ないってやつ? あ、研究は冒険と同じじゃないか? ながーく帰らないって意味で。そうすると埃とか気になっちゃってさぁ」
「貴方……」
そこまで技術者然としているとは思わなかったと言わんばかりの呆れ顔に、頭を掻いて誤魔化す怜司。
食事の際にあった剣呑な雰囲気は皆無で、互いに作り上げた雰囲気の中で軽口を叩き合う。
元々怜司も空気はちゃんと読めるタイプだ、地雷がどこにあるのかがわかってさえいれば避けようとはする。
エリシエルも怜司の事はある程度の情報を拾った後だ、世間話位はしてある程度の距離感を近づけるように努力するタイプでもある。
そうなれば話は多少なりとも弾み、エリシエルが持つ完全記憶力のお陰で窃盗事件を解決した小話を披露するくらいには距離が縮まったあたりでギルドが見えてきた。