神様局から電話が来た。
電話が来ること自体はめずらしくない。だがその日の電話は私が会ったあの案内役からだった。名乗られて私は少し身構えた。あの人がわざわざこちらへかけてくるというのはたいてい良い話ではない。
「例の件で」と案内役は言った。
「あんたが十年ばかり前にこちらへ持ってきた件だ」
十年ばかり前。あの件。執行課の新人が人違いで抗争の男の連れを殺した。死ぬはずのなかった連れが死に死ぬはずだった男が生き延びた。私は神様局に因果の調整を頼んだが半年待ちだと断られけっきょく自分で男に触れて予定どおりにした。
帳尻は合った。合ったはずだった。
「あの件がどうかしましたか」
「波及が出た」と案内役は言った。
波及というのはこういうことだ。
私は神様局の窓口を見た。彼らの仕事はこれから起きることのランダムな部分を細かく突いて大きな流れを寄せていくことだった。石が数センチ逸れる。誰かが右ではなく左を向く。それだけの調整が積み重なって十年後に大きくなる。
逆も同じだ。
予定になかった死が一つ起きる。それだけでその周りの無数の分かれ道が狂う。石の逸れ方が変わる。誰かが向く方向が変わる。その狂いが伝わって広がって十年経って形になる。
「十年かかりました」と私は言った。
「そういうものだ」と案内役は言った。
「十年経って初めてわかる。あるいは十年経ってもわからない。前にも言ったろう。……今度のはわかったほうだ」
「何がわかったんですか」
案内役は少し間を置いた。
「一人死んでいない」
私は受話器を持ち直した。
「死んでいないというのは」
「本来死ぬはずだった人間が死んでいない」と案内役は言った。
「生きている。今も」
私は少し黙った。
私が処理したのは逆だった。死ぬはずだった男が生きていた。だから触れて予定どおりにした。帳簿の狂いを直した。直したつもりだった。
だが今度は別の一人が死んでいない。
「なぜ」
「あんたのところの新人が連れを誤って殺したろう」と案内役は言った。
「あれで抗争の流れがずれた。ほんの少しだ。だがずれた。そのずれが伝わった」
「伝わって」
「本来焼かれるはずだった倉庫が焼かれなかった。あるいは踏み込まれる日取りがずれた。細かいところはこちらでも追いきれん。ただ結果としてその倉庫にいるはずだった人間がその夜そこにいなかった。……それだけのことだ」
それだけのことだ。
だがそれだけのことで一人の人間が死ななかった。
「その人間は」と私は聞いた。
「誰ですか」
「荷役だ」と案内役は言った。
「その倉庫で荷を運んでいた男だ。抗争とは関係がない。裏の稼業とも関係がない。ただそこで二十年ばかり働いていた。それだけの男だ」
それだけの男。
「本来はどうなるはずだったんですか」
「巻き添えだ」と案内役はあっさりと言った。
「倉庫が焼かれるなり踏み込まれるなりしてそこに居合わせて死ぬ。抗争とは関係がないが近くにいた。近くにいれば死ぬ。……人間の死は順番どおりには来ない。あんたも知っているだろう」
知っていた、私はそれを見た。
「でどうすればいいんですか」と私は聞いた。
これがいちばん聞きたいことだった。帳簿が狂っている。狂いは直さなければならない。あのときもそうだった。狂ったから直した。私が触れて直した。
だから今度も同じことだと思っていた。
「わからん」と案内役は言った。
「わからない」
「うちの領分ではない」と案内役は言った。少し言いにくそうだった。
「これはあんたのところの帳簿の狂いだ。あんたのところの新人が人違いで殺した。その結果一人死んでいない。だからこれは死神局の話だ。うちの因果調整の話ではない」
私は少し言葉を失った。
「ですが波及そのものは因果の話でしょう」
「因果の話だが原因はそちらだ」と案内役は言った。
「うちが調整するのは自然に生じた因果の乱れだ。誰かがうっかり人違いで殺した結果の乱れをうちが後始末する筋合いはない。……そう言われた。上にではない。上はいないからな。ただうちの中でそういう話になった」
そういう話になった。
誰が決めたのでもない。ただなんとなくそういう話になった。上はいない。決める者はいない。だがなんとなくそういう話になる。先輩が言っていた、誰も始めた覚えのない仕組みをみんながなんとなく回している。
そのなんとなくの隙間に一人の人間が落ちていた。
私は死神局の中で聞いて回った。
執行課に聞いた。
「うちの案件じゃない」と言われた。
予定にない人間を殺すのは執行課の仕事ではない。執行課が扱うのは、しかるべき理由で、しかるべき時に終わらせるべき人間だけだ。この荷役の男は本来は死ぬはずだったが今はもうその予定がずれている。ずれた予定を追いかける仕組みが執行課にはない。
回収課に聞いた。いろいろ話したあの古株に。
「うちの仕事は死んだ者を迎えることだ」と古株は言った。
「死んでいない者は迎えられん。あの男が死ねばうちが行く。だが死ぬまではうちの話じゃない」
「死なないんです」と私は言った。
「予定がずれたので」
「じゃあいつか別の予定で死ぬだろう」と古株は言った。
「人間はいずれ死ぬ。今日でなくてもいつかは。そのときにうちが行く。それでいいじゃないか」
それでいいのかと私は思った。
だが反論する言葉が出てこなかった。人間はいずれ死ぬ。それはそのとおりだ。あの男もいつかは死ぬ。二十年後か、三十年後か、あるいは明日か。そのときに回収課が行く。帳簿はいつかは合う。
ただ本来の予定より遅れる。遅れたぶんその男は生きる。生きるあいだにまたいろいろなことが起きる。起きたことがまた因果をずらす。
「ずれは広がりませんか」と私は聞いた。
「広がるだろうな」と古株はあっさり言った。
「だがそれを気にしていたらきりがない。世界はずれだらけだ。神様局があれだけ列を作ってずっと直しつづけているのにそれでも追いつかない。あんたの一件くらいで世界はどうにもならん」
誰も決めなかった。
神様局はこちらの帳簿だと言い、執行課はうちの案件ではないと言い、回収課は死んでから来いと言った。どこにもこの件を引き受ける部署がなかった。
上はいない。だから裁定する者もいない。誰かが「これはお前の仕事だ」と決めてくれれば私はそれに従っただろう。従って、たぶん触れに行った。あのときと同じように。
だが誰も決めなかった。
狂った帳簿だけが宙に浮いたまま残った。
そしてその狂いをいま私だけが知っている。
その週の終わりに、私は一度だけその男を見に行った。
なぜ行ったのかは自分でもうまく説明できない。処理するつもりではなかった。処理する権限が私にはない。かといって放っておく許可も誰もくれていない。何をするつもりもないままただ見に行った。
河岸の古い倉庫が並ぶ区画だった。
夕方だった。荷を運ぶ音がしばらく続いて、それから静かになった。人間が何人か倉庫から出てきた。作業着のまま煙草を吸っている者もいた。
そのなかにその男がいた。
どうしてその男だとわかったのか。神様局から聞いたいくつかの目印があった。それだけだ。人間の顔の見分けは我々にはあまり得意ではない。同じような背格好の人間が並んでいると見分けがつかない。あの新人が人違いをしたのもたぶんそのせいだ。
男はシャッターを下ろしていた。
重そうなシャッターを両手で引き下ろしていた。途中で一度止めてまた引いた。錠をかけた。それから腰のあたりを少し伸ばした。
それだけだった。
私は通りの向こうからそれを見ていた。
男はこちらに気づかなかった。気づくはずがなかった。人間は我々に気づかない。あの死にかけた男のようにまれに気づく者もいるがあれは死にかけていたからだ。この男は死にかけていない。ぴんぴんしている。
ぴんぴんしているというのは新人が生き延びた男について言った言葉だった。
男はシャッターの錠を確かめてそれから歩き出した。どこかへ向かっていた。たぶんいつも行くところがあるのだろう。人間にはそういうものがある。決まった店だとか決まった道だとか。
私は追わなかった。
追ってどうするというのだ。私はこの男の何も知らない。名前も聞いていない。家族がいるのかも知らない。この二十年何を考えて荷を運んできたのかも知らない。知りようがない。
我々は人間を扱う。寿命を管理し、魂を回収し、必要なら触れて終わらせる。二百年それをやってきた。
だが人間を知っているかと言われれば知らない。
我々が知っているのは帳簿だけだ。いつ死ぬか。どこで死ぬか。予定どおりかそうでないか。それだけを知っている。それ以外のあの男の二十年ぶんの何かについては何ひとつ知らない。知る仕組みが我々にはない。
だから追えなかった。
追ったところで何も見えない。あの男がどこかの店に入って何かを飲んで帰る。それを見たところで私にはそれが何なのかわからない。人間がなぜ決まった店に行くのか。なぜ決まった道を通るのか。わからない。
私は帳簿の狂いを見に来た。
見たものはシャッターを下ろす一人の男だった。
総務課に戻ると隣の席が空いていた。
当たり前だ。先輩は消えた。もういない。だが私はその日なんとなくその席のほうを向いた。向いて言いかけてやめた。
言いたかったことはたぶんこうだ。
――先輩。一人死んでいないんです。私のせいで。いや正確には新人のせいなんですが後始末をしたのは私で。誰もどうすればいいか教えてくれません。神様局も執行課も回収課もうちの案件じゃないと言います。上はいません。だから誰も決めません。
――私だけが知っています。
先輩ならなんと言っただろう。
たぶん飽きるまで続けるしかないなとでも言ったのではないか。あるいは、放っておけ、世界はずれだらけだと。あるいは新聞のようなものから目も上げずにそうかとだけ言ったかもしれない。
わからない。聞けないからだ。消えた者には聞けない。聞けたためしがない。
その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。私は受話器を取った。
「はい死神局総務課」
「あのう」若い声だった。
「間違えて触れちゃったらどうなるんですか」
私は少し黙った。
「どうもなりません」と私は言った。
「その人は死にます。それだけです」
「それだけですか」
「あとは」と私は言った。
「十年くらい経って、たぶんどこかで何かがずれます。ずれた先で誰かが死ななかったり、死んだりします。それはあなたには見えません」
電話の向こうは黙っていた。
「見えないので気にしなくていいです」と私は言った。
「気にしてもどうにもなりません」
そう言って切った。
嘘ではなかった。気にしてもどうにもならない。誰も決めてくれない。決める者がいない。
ただ私は気にしていた。
狂った帳簿が宙に浮いたままそこにある。それを私だけが知っている。知っていて何もできない。何もしなくていいのかもわからない。
あのシャッターを下ろす手つきだけがなぜか頭に残っていた。重そうなシャッターを途中で一度止めてまた引いたあの手つきだけが。
あれが何なのかはわからない。わからないまま残っていた。