回収課から応援要請が来た。
人手が足りないというのはいつものことだ。だがその日の要請は少し様子が違った。人手が足りないのではなく手に負えないという書き方だった。
「魂が離れないんだそうです」と電話に出た回収課の者は言った。
「もう三日離れないんです」
私は少し意外に思った。
我々の仕事に離れないという事態はあまりない。人間が死ねば魂は体から離れる。離れかけたところを我々が受け取る。触れれば済む。それだけの話だ。
だがまれに離れない魂がある。
いつか私はこう書いた。抵抗する魂としない魂があると。畳の上で死んだ女の魂は抵抗しなかった。誰にも看取られずに待っていた男の魂はむしろ急ぐようにこちらへ来た。
では抵抗する魂とは何か。
体はもう死んでいる。心臓が止まって息も止まって人間の言う意味では完全に死んでいる。だが魂が離れない。体にしがみついている。離れれば終わりだと、どこかでわかっているのだろう。だから離れない。
こういう魂は無理に引き剥がすこともできないではない。だが無理に剥がすと魂が傷む。傷んだ魂を穴に落とすとどうなるのか——それも誰も知らない。知らないからなるべく傷めないように扱う。それが我々の数少ない作法だった。
だから待つ。離れるまで待つ。
三日というのは長いほうだった。
行ってみると病院だった。白い部屋に老いた男が寝かされていた。
もう死んでいる。人間たちもそれはわかっている。医者が来て時刻を記録して家族が来て泣いて帰った。体はそのうち運ばれていくだろう。人間の側の手続きは進んでいる。
だが魂はまだそこにいた。
私にはそれが見えた。体の上にうっすらと離れかけたまま、しかし離れきらない魂が留まっていた。何かを待っているようにも、何かにしがみついているようにも見えた。
回収課の者が二人困った顔でそばに立っていた。
「三日ですか」と私は聞いた。
「三日です」と一人が言った。
「触れても受け取れないんです。こう、するりと逃げる。逃げてまた体に戻る」
「理由は」
「わかりません」とその者は言った。
「聞ければいいんですが。魂とは話せませんから」
そうだった。魂とは話せない。生きている人間とは話せる。死んだ人間の魂とは話せない。魂はもう言葉を持っていない。持っていたものは体と一緒に置いてきている。
だから我々にはなぜ離れないのかがわからない。わからないまま待つしかない。
私はその部屋でしばらく待った。
待つあいだすることがないので部屋を見ていた。
枕元にいろいろと物が置いてあった。眼鏡。水差し。花。それから写真が一枚。写真には若い頃のこの男らしい人間と女が写っていた。ずいぶん古い写真だった。
私はそれを見てあの男を思い出した。誰にも看取られず一人で枕元を几帳面に整えていた男だ。あの男の枕元にも湯呑みと眼鏡と読みかけの本が並んでいた。
人間は枕元に物を置く。
なぜ置くのかは我々にはよくわからない。手が届くところに大事なものを置いておきたいのだろうとは思う。だが死んでしまえば手は届かない。届かないのに置く。置いたまま死ぬ。
「この人の家族は」と私は回収課の者に聞いた。
「昨日来ました。泣いて帰りました」
「もう来ませんか」
「来るでしょう。体を引き取りに」
体を引き取りに。
人間は体を引き取る。どこかで古株が言っていた。人間は魂の抜けた体をずいぶん丁寧に扱う。洗って清めていちばん良い服を着せて花で囲む。あれは死んだ者のためというより残った者のためなのだろうと。
だがこの魂はまだ体にいる。
もし体が運ばれていったら、この魂はどうなるのだろう。体と一緒に行くのだろうか。それともそこで諦めて離れるのだろうか。
誰も知らない。こういう事態がそもそもめったに起きない。
その日、私はけっきょく何もできずに帰った。
翌日も行った。魂はまだいた。
翌々日も行った。まだいた。
五日目に私は回収課の者にこう聞いた。
「無理に剥がしますか」
「傷みます」とその者は言った。
「わかっています」
「傷んだ魂を穴に落とすとどうなるかはわかりません」
「それもわかっています」
私たちは少し黙った。
わからないことばかりだった。なぜ離れないのかもわからない。無理に剥がしたらどうなるかもわからない。穴の底がどうなっているのかもわからない。何一つわからないまま我々はこの仕事を何百年も続けている。
「もう少し待ちましょう」と私は言った。
待つことにした理由はたぶん待つ以外に思いつかなかったからだ。
七日目に女が来た。
人間の女だった。年寄りだった。看護の者に車椅子を押されて部屋に入ってきた。写真に写っていた女と同じ人間かどうかはわからない。人間の顔の見分けは我々にはあまり得意ではない。だがたぶん同じ人間だった。
女は体のそばに来た。
何も言わなかった。しばらく体を見ていた。それから手を伸ばした。
死んだ男の手を握った。
その瞬間魂が動いた。
うっすらと留まっていた魂が少し揺れた。それからゆっくりと体から離れた。
離れた魂は抵抗しなかった。私が触れるとするりとこちらへ来た。逃げなかった。七日間逃げつづけていたものがあっさりと来た。
私はそれを箱に入れた。
いつもより少しだけゆっくりと入れた。あの時も私は同じことをした。それが私にできる精一杯の手間だった。
部屋を出てから回収課の者が私に聞いた。
「あれは待っていたんでしょうか」
「たぶん」と私は言った。
「あの女の人を」
「たぶん」
「なぜわかったんでしょうか」その者は少し困惑していた。
「魂に目はないでしょう。耳もない。あの女の人が来たことがなぜわかったんでしょうか」
わからない。それもわからないことの一つだった。
我々は魂を扱う。毎日受け取って箱に入れて穴に落としている。二百年それをやってきた。だが魂が何を感じているのかは知らない。知る仕組みが我々にはない。
私は同じことを書いた。我々が知っているのは帳簿だけだと。いつ死ぬかどこで死ぬか予定どおりかそうでないか。それだけを知っていてそれ以外は何も知らない。
あの魂が七日間何を待っていたのか。手を握られたときに何を感じたのか。我々にはわからない。
わからないまま私はそれを穴に落とした。
総務課に戻って私はしばらく机の前に座っていた。
電話は鳴らなかった。たまにそういう日がある。
私はあの魂のことを考えていた。
あれは予定どおりに死ななかった魂だ。いや死んではいた。体は七日前に死んでいた。だが予定どおりには離れなかった。回収の予定が七日狂った。
狂った予定を我々は待つことで直した。無理に剥がすこともできたが剥がさなかった。待った。待っていたら女が来て手を握って魂が離れた。
帳簿は合った。七日遅れて合った。
ではと私は思った。
あの荷役の男は。
あの男は、倉庫のシャッターを下ろしていたあの男は。本来は死ぬはずだった。だが死ななかった。予定がずれた。
あれも待てば合うのだろうか。
いつかあの男も死ぬ。人間はいずれ死ぬ。回収課の古株もそう言っていた。二十年後か、三十年後か、あるいは明日か。そのときに回収課が行く。帳簿はいつかは合う。
待てば合う。
だがあの魂は七日で離れた。七日待てば済んだ。
あの男は何年待てばいいのだろう。二十年か。三十年か。そのあいだにずれは広がる。広がったずれがまた別の誰かの予定を狂わせる。神様局の列が伸びる。
七日と三十年は違う。
同じ「待つ」でも違う。
それでもと私は思った。
あの魂は離れる理由が来るまで離れなかった。無理に剥がせば剥がせた。剥がして、傷めて、穴に落とせば七日早く帳簿は合った。だがそうしなかった。
なぜか。
傷むからだ。傷んだ魂がどうなるかはわからない。わからないから傷めないようにした。わからないことについてはなるべく手を出さない。それが我々の数少ない作法だった。
あの荷役の男も同じではないのか。
私はあの男の何も知らない。二十年荷を運んできたそれだけの男だ。名前も知らない。家族がいるかも知らない。あの男に触れれば帳簿は合う。一瞬で合う。
だがそれで何が起きるのかはわからない。
わからないことについてはなるべく手を出さない。
そう考えればいいのだろうか。
いや、これはたぶん、都合のいい理屈だ。いつか私はあの男に触れた。あのときも何が起きるかはわからなかった。だが触れた。触れなければ帳簿が合わないからだ。
今度は触れない理由を探している。
なぜ探しているのか。それがわからなかった。
その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。私は受話器を取った。
「はい死神局総務課」
「あのう」若い声だった。いつかにこわいと言ったあの子だ。声でわかるようになってきた。
「魂が離れないときってどうすればいいんですか」
今日はそういう日らしかった。
「待ってください」と私は言った。
「どのくらい」
「離れるまで」
「それ答えになってますか」
「なってません」と私は言った。
「ですが他にやりようがないんです。無理に剥がすと傷みます。傷めるとどうなるかはわかりません。わからないことはなるべくしないほうがいいです」
「わからないことばっかりですね」とその子は言った。
「そうですね」と私は言った。
「二百年やっていますが増えるのはわからないことばかりです」
電話が切れたあと私はまた隣の空いた席を見た。
畳んだ新聞のようなものがまだ置いてある。
わからないことはなるべくしないほうがいい。それを私は若い者に教えた。教えておいて自分はどうするのだろう。
あの荷役の男を。
わからないまま放っておくのか。それともわからないまま触れるのか。
どちらもわからないままだ。わからないままやることに変わりはない。ただ片方は一人死ぬ。片方は死なない。
その違いだけがはっきりしていた。他は何もはっきりしていなかった。