新しいのが来た。
異動できますかと聞いてきたあの子だ。いつかにこわいと言った子でもある。それでも人間と友達になりたいと言った子でもある。声だけはずいぶん聞いてきた。顔を合わせるのは初めてだった。
思っていたより若かった。四十そこそこ。まだ仕事を覚えている途中の世代だ。
「よろしくお願いします」とその子は言った。
「こちらこそ」と私は言った。
それから私は隣の席を指した。
畳んだ新聞のようなものがまだ置いてある席だ。私はそれを手に取った。少し迷ってから自分の机の引き出しにしまった。捨てはしなかった。
「そこに座ってください」と私は言った。
総務課の仕事を教えることになった。
教えることはそう多くない。電話に出る。相談を聞く。大鎌は支給されませんと言う。他部署が散らかしたものを片づける。それだけだ。
「片づけるというのは」とその子は聞いた。
「あとでわかります」と私は言った。
その日のうちにわかることになった。
昼過ぎに執行課から電話が来た。
「あの総務課さん」と執行課の者は言った。
声に聞き覚えがあった。揺らぎを持っていったあの三人のうちの一人だ。
「ちょっと困ったことになりまして」
「はい」
「うちの若いのが触れた相手がそのまだ死んでないんです」
私は少し黙った。
「触れたんですよね」
「触れました。確かに触れました」
「触れたら死にます」
「死ぬはずなんです」その者は少し慌てていた。
「でも二週間経つんですがまだぴんぴんしてまして」
ぴんぴんしている。また、その言葉だった。
順を追って聞くとこうだった。
執行課の若手がしかるべき相手にしかるべき瞬間に触れた。触れた感触もあった。だがその相手は死ななかった。二週間経っても生きている。
「触れ方が浅かったんじゃないですか」と私は言った。
「浅かったのかもしれません」とその者は言った。
「でも触れたことは触れたんです。触れたのに死なないというのは聞いたことがないんです」
聞いたことがなかった。私も二百年やっていて聞いたことがなかった。
触れれば死ぬ。ずっとそうだった。それがこの仕事のほとんど唯一にして最大の要点だった。触れれば死ぬ。死ななければ触れていない。それだけの話のはずだった。
だが触れたのに死なないという事態が起きた。
「もう一度触れればいいのでは」と私は言った。
「それが」とその者は言いにくそうにした。
「うちの若いのが怖がって行きたくないと」
私は受話器を持ち直した。
「怖がってというのは」
「触れたのに死ななかったというのがこう気味が悪いらしくて」とその者は言った。
「自分の触れ方がおかしいんじゃないかと。もう一度触れてまた死ななかったらどうしようと。……それで行きたくないと言っています」
「行かせてください」
「行かないんです」
「命じてください」
「命じる者がいないんです」とその者は言った。
そうだった。上はいない。
執行課には課長も局長もいない。この仕組みには上がいない。誰も命じない。誰も決めない。ただなんとなくみんながそれぞれの持ち場を回している。
持ち場を回さない者がいたときに回せと命じる者はどこにもいない。
「それで」と私は言った。
「どうしたいんですか」
「総務課さんにやってもらえないかと」
私はしばらく黙った。
隣の席で新しいのがこちらを見ていた。
「総務課は現場に出ません」と私は言った。
「知っています」と執行課の者は言った。
「知っていますが、前のときは出てくれたじゃないですか」
前、と。
あのときも執行課の新人が人違いで殺した。神様局は半年待ちで回収課は手いっぱいで、先輩は肩が凝ると言って背を向けてけっきょく私が出た。消去法の果てにいちばん現場から遠いはずの部署のいちばん暇そうに見えた私が残った。
あれを前例と呼ばれている。
「あれは」と私は言った。
「他にやる者がいなかったからです」
「今回もいないんです」とその者は言った。
私は神様局に電話をかけた。
あの案内役に繋がった。前もこの人から電話が来た。もう何度目かになる。
「触れたのに死なない人間がいるんですが」と私は言った。
「因果の話でしょうか」
「因果の話ではないな」と案内役は即座に言った。
「触れて死ぬのはそちらの仕組みだ。うちの因果調整とは別の話だ。触れたのに死なないというのはそちらの仕組みがうまく働いていないということだろう。……うちの領分ではない」
「ですが結果として死ぬはずの人間が生きています」と私は言った。
「予定がずれています。ずれた予定は因果の話では」
「原因がそちらだ」と案内役は言った。前も同じことを言われた。
「原因がそちらならそちらの話だ。うちが調整するのは自然に生じた乱れだけだ」
「ではどこの領分ですか」
「さあな」と案内役は言った。
さあな。
私は少し腹が立った。腹が立つという感情が我々にあるのかどうかはわからない。だがそのとき私の中に生じたものは、たぶん人間が腹を立てると呼ぶものに近かった。
「では誰がやるんですか」
「やれる者がやるんだろう」と案内役は言った。
「昔からそうだ。誰の領分でもない仕事はやれる者がやる。やれる者がいなければ誰もやらない。誰もやらなければそのままだ。……そういう仕組みだ。誰も決めていない」
電話を切ってから私はしばらく動かなかった。
隣で新しいのがこちらを見ていた。
「あの」とその子は言った。
「今のなんですか」
私は少し考えてから言った。
「押しつけ合いです」
「押しつけ合い」
「執行課は若手が怖がって行かないからうちにやってくれと言います」と私は言った。
「神様局は原因がこちらだからうちの領分ではないと言います。回収課はたぶん死んでから来いと言うでしょう。……誰もやらないんです」
「じゃあ誰がやるんですか」
「やれる者がやるそうです」と私は言った。
「それ誰ですか」
「たぶん私です」と私は言った。
その子はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「おかしくないですか」
おかしいとその子は言った。
私はその言葉を少し噛んだ。二百年やってきて私はこの仕組みをおかしいと思ったことがあっただろうか。
たぶんなかった。
不便だとは思った。面倒だとも思った。人手が足りないとも思った。だがおかしいとは思わなかった。おかしいと思うには正しい形がどこかにあるはずだという前提が要る。正しい形を知らなければ何がおかしいかもわからない。
我々には正しい形がない。上がいないからだ。誰も正しい形を決めていない。決めていないものについておかしいとは言えない。
そう思って二百年やってきた。
だがこの子は四十年しか生きていない。四十年でおかしいと言った。
「おかしいです」と私は言った。
言ってから少し驚いた。自分の口からその言葉が出るとは思っていなかった。
「おかしいんですけど」と私は続けた。
「おかしいと言っても誰も聞きません。聞く者がいないので。……だからけっきょくやれる者がやるんです」
私は行った。
二週間前に触れられて死ななかった人間のところへ行った。
人間は生きていた。ぴんぴんしていた。あの男もそうだった。荷役の男もそうだった。この仕事はいつもぴんぴんしている人間のところへ行くことになっている。
私は触れた。
触れてすぐにわかった。
この人間にはもう触れる場所がなかった。
うまく説明できない。だが我々にはわかる。人間には触れれば死ぬという場所がある。それは体のどこかという話ではなくもっと別の何かだ。その場所に触れれば死ぬ。
この人間のその場所がなくなっていた。
二週間前に執行課の若手が触れた。触れてたぶんその場所を使い切った。だが死ななかった。何かが途中で止まった。止まったままその場所だけが消えた。
つまりこの人間はもう死なない。
我々には殺せない。
総務課に戻って私はその顛末を書類に書いた。
書きながらこれをどこに出せばいいのかがわからなかった。
執行課の案件ではない。触れたのに死ななかったのだから、執行課の仕組みがうまく働かなかったということになる。だが執行課にはそういう不具合を扱う部署がない。
神様局の案件でもない。因果の話ではないと言われた。
回収課の案件でもない。死んでいないのだから回収のしようがない。
総務課の案件でもない。総務課は他部署の後始末をする部署であって後始末そのものを引き受ける部署ではない。引き受けたらそれは後始末ではなく本来の仕事になってしまう。
どこにも出せなかった。
私は書類を机の上に置いた。
置いたまましばらく見ていた。
「その人どうなるんですか」と隣で新しいのが聞いた。
「死にません」と私は言った。
「たぶんもう死ねません」
「ずっとですか」
「わかりません」と私は言った。
「そういう例がないので。……たぶん、体が勝手に老いていつか止まるんだと思います。人間は放っておいてもいずれ死にますから。ただ、我々が終わらせることはできません」
「じゃあその人は」その子は言葉を探していた。
「その人はいまどういう状態なんですか」
どういう状態か。
私には答えられなかった。
その人間は生きている。ぴんぴんしている。自分が二週間前に一度死にかけたことも、その死にかけが途中で止まったことも、もう我々には殺せない体になったことも何一つ知らない。
知らないまま明日も生きるのだろう。
我々の帳簿の上ではその人間は宙に浮いている。死ぬはずだったのに死んでいない。かといって生きる予定があるわけでもない。予定が消えた。
荷役の男と同じだった。
あの男も宙に浮いている。誰の領分でもない。誰も決めない。
宙に浮いた人間が二人になった。
その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。
新しいのがこちらを見た。
「出てみますか」と私は言った。
その子は少し緊張した顔で受話器を取った。
「は、はい。死神局総務課」
電話の向こうで何か話しているのが聞こえた。その子はうなずきながら聞いていた。それからこちらを見た。
「あの」とその子は言った。
「大鎌の支給はどこですかって」
「支給されませんと」と私は言った。
「支給されません」とその子は電話に言った。
「……触れれば済むので」
その子はそう言った。
そう言ってから少し口ごもった。触れれば済むと言ってしまってから今日触れても済まなかった人間がいたことを思い出したのだろう。
電話を切ってからその子は私に聞いた。
「触れれば済むんですよね」
「済むはずです」と私は言った。
「今日まではそう思っていました」
机の上に出す先のない書類が一枚置いてある。
その隣で電話がまた鳴りはじめた。