こちら死神局総務課   作:朝凪小夜

14 / 19
第十四話 聞こえる

 

 人間の言葉は聞こうと思えば聞こえる。

 我々は人間の街を歩く。仕事で歩くこともあれば、なんとなく歩くこともある。歩けば人間がしゃべっている。挨拶をしている。値段の交渉をしている。電話でどうでもいい話を延々としている。先輩が言っていたとおりだ。人間は便利になってから、どうでもいい話ばかりするようになった。

 二百年聞き流してきた。

 聞き流せるものだ。人間の言葉は多すぎる。一つ一つ聞いていたらきりがない。だから聞かない。聞こえているが聞いていない。そういう状態に我々は慣れる。

 だが一度聞いてしまうと聞き流せなくなる。

   

 その日私は外を歩いていた。

 用はなかった。総務課は現場に出ない。ただ机の上に出す先のない書類が一枚置いてあって、それを見ているのが少ししんどかった。殺せなくなった人間の書類だ。どこにも出せずどこにも片づかない。見ていると落ち着かない。

 だから外に出た。

 夕方の河沿いの道だった。人間が何人か歩いていた。仕事帰りらしい人間が多かった。みな疲れた顔をしていた。人間はたいてい夕方に疲れた顔をしている。

 その道の途中に一人座っている人間がいた。

 欄干のところに腰かけていた。若い人間だった。二十代の半ばかそのあたりだろう。人間の年格好の見分けは我々にはあまり得意ではないがそれくらいには見えた。

 その人間が何か言った。

 誰に言ったのでもない。近くには誰もいなかった。ただ水のほうを見てひとりで言った。

 ――もう死にたいな。

 そう言った。

   

 私は足を止めた。

 止めるつもりはなかった。ただ止まった。

 人間がそういうことを言うのはめずらしくない。むしろよく言う。仕事がうまくいかないとき、疲れたとき、誰かに嫌なことを言われたとき、あいつらはずいぶん軽々しく死にたいと言う。言うだけでたいてい死なない。翌日には忘れている。

 だから聞き流せばよかった。二百年そうしてきた。

 だがその日は止まった。

 なぜ止まったのかは自分でもよくわからない。ただその人間の言い方がいつも聞く「死にたい」とは少し違ったのだと思う。強く言ったのでも泣きながら言ったのでもない。ただ疲れた顔で水を見ながらぽつりと言った。

 もう死にたいな。

 ――独り言だった。誰かに聞かせるつもりのない言い方だった。

   

 私はその人間の帳簿を調べた。

 これは我々にはできる。人間の顔を見ればその人間がいつ死ぬかがわかる。正確な日付まではわからない。だがおおよそのところはわかる。近いか遠いか。予定どおりかそうでないか。

 その人間は遠かった。

 ずいぶん遠かった。四十年か五十年かそのくらい先だ。人間の寿命としてはまっとうに長い。病気の予定も事故の予定も当分なかった。

 つまりこの人間は死なない。

 死にたいと言ったばかりのこの人間はあと四十年か五十年死なない。それが帳簿に書いてある。

   

 総務課に戻って私は新しいのにそのことを話した。

 

「その人どうするんですか」とその子は聞いた。

 

「どうもしません」と私は言った。

 

「できません」

 

「でも死にたいって言ったんですよね」

 

「言いました」

 

「じゃあ」その子は少し口ごもった。

 

「その望みを叶えるということは」

 私はその子を見た。

 

 その子はすぐに自分の言ったことに気づいたようだった。顔が少し変わった。

 

「すみません」とその子は言った。

 

「今のなしです」

 

「なぜ」

 

「よくない気がします」とその子は言った。

 

「うまく言えないんですけどよくない気がします」

   

 我々の仕組みには依頼を受ける窓口がない。

 これははっきりしている。人間が死にたいと言ったところで、それを受理する部署がどこにもない。帳簿はあらかじめ書かれている。誰が書いたのかは知らない。上はいないのだから誰も書いていないのかもしれない。ただ書かれている。

 その帳簿を人間の希望で書き換える経路はどこにもない。

 だから聞き届けようがない。仕組みとしてできない。

 

「できないんです」と私はその子に言った。

 

「望みを叶えるという仕組みがそもそもうちにはありません」

 

「じゃああの人は」

 

「死にません」と私は言った。

 

「あと四十年か、五十年」

 

 その子はしばらく黙っていた。

 

「それって」とその子は言った。

 

「あの人にとってはいいことなんでしょうか。悪いことなんでしょうか」

 私は答えられなかった。

   

 答えられない理由ははっきりしていた。

 私は人間を知らない。荷役の男を見に行ったときにも同じことを書いた。我々が知っているのは帳簿だけだ。いつ死ぬかどこで死ぬか予定どおりかそうでないか。それだけを知っていてそれ以外は何も知らない。

 あの河沿いの人間がなぜ死にたいと言ったのか。私は知らない。仕事がうまくいかないのか。誰かにひどいことをされたのか。何か取り返しのつかないことがあったのか。それともただ、疲れているだけなのか。

 わからない。聞く仕組みがない。

 わからないまま、私はその人間があと四十年か五十年生きることだけを知っている。

 これはなんともいびつな知り方だった。

 いちばん知りたいであろうことは何も知らない。いちばん知りたくないかもしれないことだけを知っている。

   

 私は翌週またその道を歩いた。

 用はなかった。ただ歩いた。

 その人間はいた。同じ欄干のところに腰かけていた。同じように水を見ていた。

 生きていた。当たり前だ。帳簿にそう書いてある。

 その人間はその日は何も言わなかった。ただしばらく座って、それから立ち上がって帰っていった。歩き方は少し遅かった。だが帰っていった。

 その次の週も行った。

 いた。生きていた。

 その次の週もいた。

 特に何かが良くなったようには見えなかった。相変わらず疲れた顔をしていた。相変わらず水を見ていた。ただ生きていた。生きて毎週同じ場所に来て座ってそれから帰っていた。

 私は通りの向こうからそれを見ていた。

 私は同じことをした。荷役の男を通りの向こうから見ていた。何もできないままただ見ていた。

 今度も同じだった。

   

 我々の帳簿は誰の望みも聞いていない。

 これはこの仕事をしているといやでもわかることだ。

 死にたい人間が死なない。殺せなくなった人間はたぶん死にたいとも思っていないのに、我々にはもう終わらせられない。荷役の男は死にたいとも死にたくないとも思わないうちに死ぬはずだったのが死ななくなった。

 誰の望みも聞いていない。

 私はこう書いた。人間は死のあとに筋を通そうとする。良い者は良いところへ悪い者は悪いところへ。川を渡らせ門を作り心臓を秤にかける。そこまでして筋を通そうとする。

 我々には筋がない。

 誰も裁かず、誰も量らず、ただ帳簿がある。帳簿に書いてあるとおりに人間は死ぬ。あるいは死なない。書いた者はいない。上はいないからだ。

 筋のない帳簿があの河沿いの人間を生かしている。

 これは慰めではない。ずいぶん冷たい話だ。あの人間の望みは聞かれていない。聞く者がいない。聞かれないまま、あと四十年か、五十年生きることになっている。

 だが聞かれないから生きている。

 もし帳簿が望みを聞く仕組みだったら。もし死にたいと言えば死ねる仕組みだったら。あの人間はあの晩に死んでいた。

 私はたぶんその魂を箱に入れて穴に落としていた。

   

「その人どうなるんでしょうか」と隣で新しいのが聞いた。

 

 あの子は私が毎週同じ道を歩いていることに気づいているらしかった。

 

「わかりません」と私は言った。

 

「四十年後に死にます。それだけがわかっています」

 

「四十年あるんですね」

 

「あります」

 

「長いですね」とその子は言った。

 

「長いです」と私は言った。

 

「人間にとってはたぶん長いです。……我々には短いですが」

 

 その子は少し考えるような顔をした。

 

「その四十年で何か変わるんでしょうか」

 

「わかりません」と私は言った。

 

「変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。変わらないまま四十年あの欄干に座り続けるのかもしれません。それは帳簿には書いてありません」

 

 帳簿にはいつ死ぬかしか書いていない。

 どう生きるかは書いていない。書く仕組みがそもそもない。

   

 その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。

 新しいのが受話器を取った。だいぶ慣れてきた。

 

「はい、死神局総務課。……はい。……はい。少々お待ちください」

 

 その子は送話口を手で押さえてこちらを見た。

 

「人間が死にたいと言っているんですがどうすればいいですかって」

 

 私は受話器を代わった。

 

「総務課です」

 

「あの」若い死神の声だった。

 

「担当している人間が死にたいって言ってて。でもその人まだ予定がずっと先で。……どうすればいいんでしょうか」

 

 私は少し黙った。

 

 同じことを聞かれている。私がこの一月答えられずにいることを。

 

「どうもできません」と私は言った。

 

「我々にはそういう仕組みがありません」

 

「じゃあ放っておくんですか」

 

「放っておきます」と私は言った。

 

「ただ」

 

「ただ」

 

「聞こえてしまったなら」と私は言った。

 

「覚えておいてください」

 

 電話の向こうは黙っていた。

 

「何もできません」と私は言った。

 

「触れれば死にます。触れなければ何もできません。話しかけることもできますが、話しかけたところで我々には人間の言うことがよくわかりません。二百年やっていますがわかりません」

 

「じゃあ覚えていて何になるんですか」

 

 何になるのか。

 私にもわからなかった。

 

「何にもなりません」と私は言った。

 

「ただ聞こえたものをなかったことにはできません。それだけです」

   

 電話を切ってから私はしばらく机の前に座っていた。

 机の上には出す先のない書類がまだ一枚置いてある。殺せなくなった人間の書類だ。

 その隣に私はもう一枚置いた。

 河沿いのあの人間のことを書いた紙だった。書類ではない。書式もない。出す先もない。ただ書いた。

 あと四十年死なない人間が毎週同じ欄干に座っている。それだけのことを書いた。

 誰が読むのでもない。読ませる相手もいない。

 ただなかったことにはできなかった。

 隣で新しいのがその紙を少し見た。何も言わなかった。

 その日はそれきりだった。

 次の週も私は同じ道を歩くつもりだった。あの人間はたぶんいるだろう。座って水を見てそれから帰るだろう。何も変わらないだろう。

 変わらないまま四十年生きるのかもしれない。

 帳簿にはそこまでは書いていない。

 

 

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。