神様局からまた電話が来た。
あの案内役だ。この人から電話が来るときはたいてい良い話ではない。もうそれはわかっていた。
「例の件だが」と案内役は言った。
例の件。もうそれだけで通じるようになっていた。私が知らされたあの件だ。誤殺の波及で死ぬはずだった荷役の男が死んでいない。生きている。
「広がった」と案内役は言った。
広がるというのはこういうことだ。
あの男は本来倉庫で死ぬはずだった。死ななかった。だからその男はその後も荷を運びつづけている。
荷を運べば荷は届く。届いた荷がどこかで使われる。使われた先でまた何かが起きる。
本来あの男が死んでいればその荷は別の誰かが運んだ。あるいは運ばれなかった。運ばれなかった荷の先で何かが起きなかった。
起きなかったはずのことが起きている。
それが広がるということだった。
「具体的には」と私は聞いた。
「具体的には言えん」と案内役は言った。
「言えるほどはっきりしていない。ただ、こちらの列に来なくてもいいはずの案件がいくつか混じるようになった。どれがあんたの件から来たものかは正確には追えん。因果というのはそういうものだ。……ただ増えている」
「どのくらい」
「わからん」と案内役は言った。
「多くはない。だが増えている。それだけだ」
それだけだと案内役は言った。
私は少し待った。何か続きがあるかと思った。責める言葉かあるいはどうにかしろという言葉が来るかと思った。
来なかった。
「では」と案内役は言った。
「そういうことで」
電話は切れた。
誰も責めない。
これがこの一月いちばんこたえていることだった。
もし誰かが責めてくれればまだ楽だった。お前のせいだと言われればそうですと答えられる。どうにかしろと言われればどうにかした。あのときはそうだった。誰も命じなかったが少なくとも事態ははっきりしていた。狂った帳簿を直せばよかった。直せる方法もあった。
今は違う。
誰も責めない。神様局は増えているとだけ言って切る。執行課はうちの案件ではないと言う。回収課は死んでから来いと言う。誰も私を責めない。誰も私に何かを命じない。
ただ狂いだけが少しずつ広がっている。
そしてそれを私だけが知っている。
机の上の紙が三枚になった。
一枚目は殺せなくなった人間の書類だ。触れたのに死ななかった人間。もう我々には終わらせられない。どこにも出せない。
二枚目は河沿いの人間のことを書いた紙だ。書式もなく出す先もない。あと四十年か五十年死なない人間が毎週同じ欄干に座っている。それだけを書いた。
三枚目はその日私が書いた。
荷役の男のことを書いた。見に行ったあの男だ。名前は知らない。家族がいるかも知らない。二十年荷を運んできた。それだけの男だ。本来は死ぬはずだった。死ななかった。そのせいで因果が少しずつずれている。
書いて机の上に置いた。
三枚とも出す先がない。誰も読まない。読ませる相手がいない。
ただ書いた。聞こえたものをなかったことにはできませんと。書くのはなかったことにしないためのたぶん唯一のやり方だった。それ以外のやり方を我々は持っていない。
「それ増えていきますね」と隣で新しいのが言った。
もう電話にもだいぶ慣れてきた。大鎌は支給されませんと平気な顔で言えるようになっている。
「増えます」と私は言った。
「どこまで増えるんですか」
「わかりません」
「片づかないんですか」
「片づけ方がわかりません」と私は言った。
その子はその三枚をしばらく見ていた。
「あの」とその子は言った。「触れれば片づくんじゃないですか」
私はその子を見た。
その子は悪気なく言っていた。ただ事実を述べていた。
そのとおりだった。
あの荷役の男に触れれば片づく。一瞬で片づく。触れれば死ぬ。死ねば帳簿は合う。狂いはそこで止まる。神様局の列もそれ以上は伸びない。
私は二百年それをやってきた。触れて終わらせる。それだけの仕事だ。あの笑っていた男の背中に私は触れた。触れて帳簿を合わせた。
今度も同じことだ。
同じことのはずだった。
「触れれば片づきます」と私は言った。
「じゃあ」
「触れれば片づきます」と私はもう一度言った。
「片づけていいのかがわかりません」
「誰かに聞けばいいんじゃないですか」
「聞きました」と私は言った。
「神様局にも、執行課にも、回収課にも聞きました。誰も答えません。誰も決めません。……上がいないので」
その子は少し黙った。
「じゃあ」とその子は言った。
「誰が決めるんですか」
誰が決めるのか。
私はその問いをこの一月ずっと抱えていた。
答えははっきりしている。誰も決めない。上はいない。裁定する者も命じる者もいない。神様局の案内役が言ったとおりだ。誰の領分でもない仕事はやれる者がやる。やれる者がいなければ誰もやらない。誰もやらなければそのままだ。
やれる者は私だ。
私は触れられる。触れる場所も知っている。あの男がどこの倉庫にいて、いつシャッターを下ろすかも知っている。夕方、河岸のあの区画へ行けばあの男がいる。人混みに紛れて肩をぶつければ済む。二百年やってきたことだ。
やれる。
やれるからやるべきなのか。
それがわからなかった。
その日私はまた河岸へ行った。
用はなかった。処理するつもりもなかった。ただ行った。何をするつもりもないままただ見に行った。
夕方だった。男はいた。
シャッターを下ろしていた。重そうなシャッターを両手で引き下ろして、途中で一度止めてまた引いた。あの手つきだった。あれから何度か見に来ているがいつも同じだった。同じところで一度止める。
なぜ止めるのかはわからない。重いのかもしれない。腰が悪いのかもしれない。あるいは何か癖なのかもしれない。
わからない。聞く仕組みがない。
男は錠をかけて腰のあたりを少し伸ばした。それから歩き出した。
私は追わなかった。
追えば追える。人混みに紛れて肩をぶつければ済む。今日でも、明日でも、いつでもできる。だが追わなかった。
なぜ追わないのかもわからなかった。
総務課に戻ると電話が鳴っていた。
新しいのが出た。
「はい死神局総務課。……はい。……はい少々お待ちください」
その子は送話口を押さえた。
「執行課からです」とその子は言った。
「また後始末を頼みたいそうです」
私は受話器を受け取った。
執行課の者が何か言っていた。若手がまたやらかした。触れる相手を間違えかけた。間違えかけただけで実際には間違えていない。だが危なかった。危なかったのでどうすればいいか相談したい。
そういう話だった。
「間違えていないんですね」と私は聞いた。
「間違えていません」
「では問題はありません」と私は言った。
「ですが危なかったんです」
「危なかったが間違えていない。それなら何も起きていません」と私は言った。
「何も起きていないことについては何もできません」
電話の向こうは少し黙った。
「総務課さん」とその者は言った。
「今日なんか冷たくないですか」
私は少し黙った。
「すみません」と私は言った。
「冷たかったです」
電話を切ってから私はしばらく動かなかった。
冷たかった。そのとおりだった。
なぜ冷たくなったのか。理由はたぶんはっきりしている。危なかったとあの者は言った。危なかったが間違えなかった。何も起きなかった。それは良かったことだ。
だが私はその「危なかった」の先を知っている。
間違えたらどうなるか。実際に間違えた。人違いで一人殺した。そして十年経って別の一人が死ななくなった。誰も責めない。誰も片づけない。ただ狂いだけが少しずつ広がっていく。机の上に出す先のない紙が増えていく。
それを私は知っている。
知っているから、危なかったで済ませられなかった。済ませられずに冷たくなった。
これは私が疲れているということなのかもしれない。
「あの」と隣で新しいのが言った。
私は顔を上げた。
「大丈夫ですか」とその子は言った。
私は少し驚いた。
我々はこういうことをあまり言わない。大丈夫かと互いに聞くことがない。聞く習慣がない。先輩が消えたときも誰も私に大丈夫かとは聞かなかった。回収課の古株だけがしんどそうだなと言った。それが例外だった。
「大丈夫です」と私は言った。
「そうですか」
「大丈夫ではないかもしれません」と私は言い直した。
その子はうなずいた。何も言わなかった。ただうなずいた。
それからしばらくしてその子はこう言った。
「僕まだ四十年しかやってないので」
「はい」
「わからないことが多いんですけど」その子は言葉を探していた。
「その机の上の三枚片づかないんですよね」
「片づきません」
「片づかないまま置いておくのって」その子は言った。
「だめなんですか」
私はその子を見た。
片づかないまま置いておく。
そんなことは考えたことがなかった。片づかないものは片づけなければならない。狂った帳簿は直さなければならない。二百年そう思ってやってきた。
だがこの子は四十年しかやっていない。
四十年しかやっていないから片づけないという選択肢があることに気づいている。
「わかりません」と私は言った。
「わからないなら」とその子は言った。
「置いておいてもいいんじゃないですか」
わからないことはなるべくしないほうがいい。魂が離れないときは無理に剥がすと傷む。傷めるとどうなるかはわからない。だから待つ。
あれを私は若い者に教えた。
教えておいて自分は忘れていた。
その晩私は三枚の紙をそのまま机の上に置いておいた。
片づけなかった。片づけ方がわからなかったからだ。
わからないことはなるべくしないほうがいい。
それが正しいのかはわからない。ただ私は今日あの男に触れなかった。触れられたのに触れなかった。明日もたぶん触れない。
いつまで触れずにいられるのかはわからない。
電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。
私は受話器を取った。
「はい死神局総務課」
いつもの声がいつもの相談を言った。私はいつものように答えた。答えながら机の上の三枚の紙を見ていた。
三枚ともまだそこにある。
明日には四枚になるかもしれない。