その電話は回収課からだった。
古株からだ。
「一つ迎えた」と古株は言った。
「あんたに言っておいたほうがいいと思ってな」
「何をですか」
「あんたの例の件だ」と古株は言った。
「あの荷役の男の倉庫の話だ」
私は受話器を持ち直した。
古株の話はこうだった。
その倉庫で荷役の男が一人死んだ。
私が見に行ったあの男ではない。別の男だ。若い男だった。三十そこそこ。あの倉庫で数年働いていた。
荷が崩れた。積み上げた荷が崩れて下敷きになった。よくある事故だ。人間の仕事場ではそういうことが起きる。
「予定になかった」と古株は言った。
私はしばらく黙っていた。
「予定になかったというのは」
「予定になかった」と古株は繰り返した。
「あの男は本来、あと三十年ばかり生きるはずだった。帳簿にそう書いてあった。それが死んだ。荷の下敷きで」
「なぜ」
「知らん」と古株は言った。
「因果の話だ。俺の領分じゃない。……ただ神様局に聞いたらこう言われた。あの倉庫はいまずれの多い場所だとな」
ずれの多い場所。
「あんたの件だ」と古株は言った。
あっさりと言った。責める調子はなかった。ただ事実を述べていた。
「あの倉庫は本来焼かれるか、踏み込まれるかして一度終わっているはずだった。それが終わらなかった。終わらなかったからいまも動いている。動いているところにずれが溜まる」
「溜まると」
「事故が起きる」と古株は言った。
「予定になかった事故が起きる。……今回のはそれだと、神様局は言っている。断定はできんそうだ。因果はそういうものだからな。だがたぶんそうだと」
私は電話を切ってからしばらく動かなかった。
隣で新しいのがこちらを見ていた。何かを聞きたそうにしていたが聞かなかった。
机の上に三枚の紙がある。
三枚とも出す先がない。片づかない。
この子はこう言った。片づかないまま置いておくのってだめなんですかと。
私は置いておくことにした。わからないことはなるべくしないほうがいい。私が若い者に教えたことだ。教えたことを教えた相手から返された。だから置いた。
置いておいたら一人死んだ。
これは私のせいだろうか。
順を追って考えてみる。
まず執行課の新人が人違いで抗争の男の連れを殺した。これは私のせいではない。
次に神様局が半年待ちで因果調整を断った。これも私のせいではない。
次に私が生き延びた男に触れて予定どおりにした。これは私がやった。だが他にやる者がいなかった。
次に十年経って波及が出た。荷役の男が死ななくなった。これは誰のせいでもない。因果というのはそういうものだ。
そして私はその男に触れなかった。触れられたのに触れなかった。狂いを狂ったまま置いた。
置いておいたら倉庫にずれが溜まった。ずれが溜まった場所で荷が崩れた。予定になかった若い男が死んだ。
これは。
私はその晩河岸へ行った。
処理するつもりで行った。
これまではそうではなかった。何をするつもりもないままただ見に行った。今日は違う。
触れるつもりで行った。
夕方だった。男はいた。
シャッターを下ろしていた。重そうなシャッターを両手で引き下ろして、途中で一度止めてまた引いた。いつもの手つきだった。もう何度も見た。
私は通りを渡った。
男が錠をかけて、腰を伸ばして歩き出した。私は少し離れて同じ方向へ歩いた。
人通りはそこそこあった。仕事帰りの人間が何人か歩いていた。この程度の人通りなら肩をぶつけるのは難しくない。前もそうした。人混みのなかで肩がぶつかるほんの一瞬。誰にでも起きるなんでもない接触だ。
私は歩調を合わせた。
距離が詰まった。あと数歩だった。
その数歩のあいだに私は考えていた。
触れれば済む。
この男が死ねば倉庫のずれは止まる。あの若い男のような事故はもう起きない。神様局の列はそれ以上伸びない。帳簿は合う。机の上の紙は一枚減る。
二百年それをやってきた。触れて終わらせる。それだけの仕事だ。あの笑っていた男の背中に触れた。触れて帳簿を合わせた。あのときも後味は悪かった。悪かったがやった。やらなければ帳簿が合わなかったからだ。
今度も同じだ。
やらなければまた誰かが死ぬ。次は誰だろう。あの倉庫で働く別の誰かか。あるいはもっと遠いまったく関係のない誰かか。
私にはわからない。因果はそういうものだ。十年経って初めてわかる。あるいは十年経ってもわからない。
わからないまま待っていたら一人死んだ。
次は二人かもしれない。
あと二歩だった。
男の背中がすぐ前にあった。作業着の背中だった。少し汚れていた。荷の粉か何かだろう。二十年荷を運んできた背中だ。
私は手を上げかけた。
上げかけて止まった。
止まった理由ははっきりしていた。
――片づかないまま置いておくのってだめなんですか。
あの子の声だった。
――わからないなら置いておいてもいいんじゃないですか。
わからないなら。
私はいまわかっているのだろうか。
わかっていない。
この男に触れれば倉庫のずれが止まるというのはたぶんそうだ。神様局もそう言うだろう。だが断定はできない。因果はそういうものだ。断定できるなら、神様局はあんなに列を作っていない。
この男に触れれば次の事故が防げるというのもたぶんそうだ。だが防げるかもしれないというだけだ。
そしてこの男に触れればこの男が死ぬ。
これだけは確かだ。
確かなのはそれだけだった。
――わからないことはなるべくしないほうがいい。
私が若い者に教えたことだ。離れない魂を無理に剥がさなかったときに私はそう言った。剥がせば傷む。傷めたらどうなるかはわからない。だから待った。待っていたら女が来て手を握って魂が離れた。
あのときは七日で済んだ。
今度は何年かかるかもわからない。
男が立ち止まった。
私は少し離れた。
男は小さな店の前で立ち止まっていた。暖簾のかかった飲み屋のような店だ。この男がいつも行くところがあるのだろうと書いた。たぶんここだ。
男は暖簾をくぐった。
私は外に残った。
しばらくそこに立っていた。
中から少し声が聞こえた。店の者が何か言った。男が何か答えた。何を言ったのかはわからない。人間の言葉は聞こうと思えば聞こえる。だがその日は聞かなかった。
聞いてしまえば聞き流せなくなる。私はそれを学んだ。
私は帰った。
触れなかった。
触れられたのに触れなかった。今日も触れなかった。
これで何度目だろう。見に行った。見に行った。今日は触れるつもりで行った。あと二歩まで行った。手を上げかけた。
上げかけて止まった。
止めたのは私だ。誰にも止められていない。誰も止めろとは言っていない。誰もやれとも言っていない。
誰も何も言わない。
総務課に戻ると新しいのがまだいた。
もう遅い時間だった。この子はたいてい私より先に帰る。今日は残っていた。
「あの」とその子は言った。
「行ってたんですか」
私はうなずいた。
「触れたんですか」
私は首を横に振った。
その子は少しうなずいた。それから何も言わなかった。
私は席に座った。机の上に三枚の紙がある。
四枚目を書くべきだろうかと思った。あの荷が崩れて死んだ若い男のことを。予定になかった死を。私が置いておいたせいでたぶん起きた死を。
書けば四枚になる。
書かなければ三枚のままだ。
私はしばらく紙の前で手を止めていた。
書けばなかったことにはできなくなる。書くのはなかったことにしないための唯一のやり方だ。
だがそれは私が何もできない相手についての話だった。
この若い男は違う。私が触れていれば死ななかったかもしれない。私が置いておいたから死んだのかもしれない。
それを書くのか。
書いて机の上に置いておくのか。片づかないまま。ずっと。
「書かないんですか」と隣でその子が言った。
私は顔を上げた。
「書けば」と私は言った。
「私のせいだと認めることになります」
「書かなければ」とその子は言った。
「なかったことになりますか」
ならない。
なるはずがなかった。
私は紙を引き寄せた。
そして書いた。荷が崩れて若い男が一人死んだ。予定にはなかった。たぶん私が置いておいたせいだ。
それだけを書いた。
四枚目を机の上に置いた。
三枚が四枚になった。明日には四枚になるかもしれないと。なった。
その晩電話は鳴らなかった。
たまにそういう日がある。
私は机の上の四枚の紙を見ていた。
触れれば片づく。一枚減る。次に誰かが死ぬこともない。たぶん。
触れなければ片づかない。次に誰かが死ぬかもしれない。たぶん。
どちらもたぶんだ。
確かなのは触れればあの男が死ぬということだけだ。あのシャッターを途中で一度止めてまた引く男が。あの暖簾をくぐって店の者に何か答えた男が。
私はあの男の何も知らない。
名前も知らない。二十年何を考えて荷を運んできたのかも知らない。なぜシャッターを途中で止めるのかも知らない。あの店で何を飲むのかも知らない。
知らないまま触れられる。
触れれば済む。
済むのだが私は今日も触れなかった。
明日はどうするのか。
わからなかった。
わからないまま私は四枚の紙を机の上に置いたままにしてその日を終えた。