こちら死神局総務課   作:朝凪小夜

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第十七話 誰もやれとは

 

 その男の名前を私は知らない。

 これだけ書いてきてまだ知らない。知る仕組みが我々にはない。我々が知っているのは帳簿だけだ。いつ死ぬかどこで死ぬか予定どおりかそうでないか。

 だがこの一月ほどで私はいくつか知った。

 あの男はシャッターを途中で一度止める。重いのか腰が悪いのか癖なのかは知らない。錠をかけたあと腰のあたりを少し伸ばす。それから暖簾のかかった店へ行く。店の者が何か言うと何か答える。何を答えているのかは聞いていない。聞けば聞き流せなくなる。

 それだけを知っている。

 帳簿には書いていないことばかりだ。

   

 その朝私は机の上の四枚の紙を見ていた。

 四枚とも出す先がない。片づかない。

「どうするんですか」と隣で新しいのが聞いた。

 

 私は答えなかった。答えられなかった。

 その日私はもう一度神様局に電話をかけた。

   

「またあんたか」と案内役は言った。

 

「一つ聞かせてください」と私は言った。

 

「なんだ」

 

「あの男に触れるべきですか」

 

 案内役は少し黙った。

 

「知らん」と案内役は言った。

 

「知らないというのは」

 

「知らんのだ」と案内役は言った。

 

「触れればずれは止まる。たぶんな。触れなければずれは広がる。たぶん。……どちらがいいかは知らん。うちは因果を調整する部署だ。何がいいことかを決める部署ではない」

 

「では誰が決めるんですか」

 

「決める者はいない」と案内役は言った。

 

「上はいないからな。前にも言ったろう。誰の領分でもない仕事はやれる者がやる。やれる者がいなければ誰もやらない」

 

「やれる者は私です」

 

「そうだな」

 

「では私がやるべきですか」

 

「知らん」と案内役はもう一度言った。

 

「やれるというのと、やるべきだというのは別の話だ。うちはやれるしか知らん。やるべきかどうかは聞かれても答えられん。答える仕組みがない」

   

 私は電話を切った。

 切ってからしばらく動かなかった。

 やれるというのとやるべきだというのは別の話だ。

 案内役はそう言った。ずいぶんあっさりと言った。だがその言葉が私の中でなぜか止まらなかった。

 私はこの一月ずっとこう考えてきた。やれる者がやるしかない。私はやれる。触れられる。触れる場所も知っている。だから私がやるしかない。

 やれるからやるしかない。

 そう思ってきた。

 だがなぜそう思ってきたのだろう。

   

 誰もやれとは言っていない。

 これはこの一月ずっと私を苦しめてきたことだった。誰も決めない。誰も命じない。誰も責めない。だから宙に浮く。だからしんどい。

 誰かが「これはお前の仕事だ」と決めてくれれば私はそれに従っただろう。従って、たぶん触れに行った。

 誰も決めなかった。

 だから私は決めかねてきた。

 だが。

 誰もやれとは言っていない。

 同じことを逆から言うとそうなる。

   

 私は机の上の四枚の紙を見た。

 上はいない。

 いちばん初めからそうだった。先輩が言った。誰も始めた覚えのない仕組みをみんながなんとなく回している。増えるのも消えるのも勝手に。誰も決めていない。

 上がいないということは命じる者がいないということだ。

 命じる者がいないということは。

 命令がないということだ。

 私は誰にもこの男を殺せと命じられていない。

 誰にも命じられていないのに私はこの一月殺すべきかどうかを考えつづけてきた。

 なぜだ。

   

 答えはたぶん、単純だった。

 二百年そうしてきたからだ。

 狂った帳簿は直す。予定は合わせる。それがこの仕事だ。二百年それをやってきた。誰も命じなかったが私は行った。行って触れた。帳簿を合わせた。

 合わせるのが正しいと思っていた。

 なぜ正しいと思ったのか。

 誰かにそう言われたからだろうか。違う。誰も言っていない。上はいない。

 では帳簿にそう書いてあったからか。違う。帳簿にはいつ死ぬかしか書いていない。合わせろとは書いていない。

 私がそう思っていただけだ。

 二百年そう思ってきた。だから正しいことのように見えていた。

 だがそれはただの慣れではないのか。

   

 隣のこの子はこう言った。おかしくないですかと。

 あのとき私は驚いた。二百年やってきて私はこの仕組みをおかしいと思ったことがなかった。おかしいと思うには正しい形がどこかにあるはずだという前提が要る。

 我々には正しい形がない。上がいないからだ。誰も正しい形を決めていない。

 決めていないものについておかしいとは言えない。

 私はそう書いた。

 だが逆もそうだ。

 決めていないものについて正しいとも言えない。

 帳簿を合わせるのが正しいと誰が決めたのか。誰も決めていない。私が二百年そう思ってきただけだ。

 二百年思ってきたことは正しさになるのか。

 ならない。

 ただの癖だ。

   

 その日の夕方私は河岸へ行った。

 最後だと思っていた。決めるために行った。

 男はいた。シャッターを下ろしていた。重そうなシャッターを両手で引いて途中で一度止めてまた引いた。錠をかけて腰を少し伸ばした。

 いつもの手つきだった。

 私は通りを渡った。

 男が歩き出した。私はあとを追った。歩調を合わせた。距離が詰まった。

 人通りはそこそこあった。肩をぶつけるのは難しくない。

 あと数歩だった。

   

 その数歩のあいだに私はこう思った。

 私はこの男を殺せる。

 誰にも止められない。上はいないからだ。止める者はどこにもいない。触れれば済む。この男は数日のうちに死ぬ。書類には心筋梗塞とでも書かれるだろう。誰も私を責めない。責める者もいないからだ。

 私はこの男を殺せる。

 殺せるが。

 誰も殺せとは言っていない。

 上がいないというのはそういうことだ。

 命じる者がいない。だから私は命じられていない。命じられていないのに殺すのならそれは私が決めたことになる。

 私が決める。

 誰にも命じられず、誰にも責められず、誰にも止められないまま、私が一人でこの男を終わらせる。

 そしてその理由はたぶんずれが止まるからだ。

 たぶん。

   

 あと二歩だった。

 私は手を上げなかった。

 上げなかった理由ははっきりしていた。

 この男を殺す理由は全部たぶんだ。たぶんずれが止まる。たぶん次の事故が防げる。たぶん帳簿が合う。

 この男が死ぬということだけがたぶんではない。

 確かなのはそれだけだ。

 二百年、私は確かなことのためにたぶんを切り捨ててきた。触れれば死ぬ。それは確かだ。だから触れた。帳簿が合うかどうかは二の次だった。合わせろと帳簿に書いてあったからではない。ただそうするものだと思っていたからだ。

 今日は逆だ。

 たぶんのために確かな一つを切り捨てようとしている。

 それはしない。

   

 私は足を止めた。

 男はそのまま歩いていった。私に気づかなかった。気づくはずがなかった。

 男は暖簾をくぐった。中から少し声が聞こえた。店の者が何か言った。男が何か答えた。

 私は聞かなかった。

 聞かないままそこに立っていた。

 しばらく立っていた。

 それから帰った。

   

 総務課に戻ると新しいのがいた。

 もう遅い時間だった。この子は今日も残っていた。

 

「触れたんですか」とその子は聞いた。

 

「触れませんでした」と私は言った。

 

「今日もですか」

 

「今日で最後です」と私は言った。

 

 その子は少し顔を上げた。

 

「最後というのは」

 

「もう行きません」と私は言った。

 

「触れません。決めました」

 

 私は席に座った。机の上に四枚の紙がある。

 

「片づけないんですか」とその子は聞いた。

 

「片づけません」と私は言った。

   

 言ってから私は少し待った。

 何か来るかと思った。誰かがそれは間違っていると言いに来るか。誰かがやれと命じに来るか。あるいは誰かがよくやったと言いに来るか。

 何も来なかった。

 当たり前だった。上はいない。誰も何も言わない。

 私が決めた。それだけだ。

 それだけのことがこんなに重いとは思わなかった。二百年私は決めたことがなかった。命じられたわけでもないのに、ただそうするものだと思って触れてきた。それは決めたことにはならない。癖でやったことは決めたことにならない。

 今日初めて決めた。

 決めたのは何もしないということだった。

   

「あの」とその子が言った。

 

「はい」

 

「それって」その子は言葉を探していた。

 

「怖くないですか」

 

 怖い。

 あのときもこの子はこわいと言った。何があるかもわからない穴に魂を落としているのがこわい。そのうち自分も落ちるかもしれないのがこわい。

 あのとき私はこう言った。こわがってください。こわがったまま落としてください。慣れないほうがいいです。

 

「怖いです」と私は言った。

 

「そうですか」

 

「あの男はたぶんいつか死にます」と私は言った。

 

「人間はいずれ死にますから。そのときに回収課が行きます。それでいいと回収課の古株は言っていました。そう言われました」

 

 

「それでいいんですか」

 

「わかりません」と私は言った。

 

「ただ私はそれ以上のことをしません。しないことを決めました。……間違っているかもしれません。間違っていても誰も教えてくれません。上がいないので」

 

 その子はうなずいた。

 

「怖いですね」とその子は言った。

 

「怖いです」と私は言った。

   

 その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。

 私は受話器を取った。

 

「はい死神局総務課」

 

「あのう」若い声だった。知らない声だった。

 

「間違って触ってしまいまして」

 

 またそれだった。二百年同じ相談が来る。

 

「亡くなりましたか」と私は聞いた。

 

「はい」

 

「本来の相手は」

 

「生きてます。ぴんぴんしてます」

 

 同じだった。何も変わっていない。何百年経っても同じことが起きる。人手は足りない。新人は間違える。神様局は混んでいる。上はいない。

 

「わかりました」と私は言った。

 

「こちらでなんとかします」

 

 言ってから私は少し考えた。

 なんとかするというのはどういうことだろう。

 二百年それは触れることだった。狂った帳簿を合わせること。それ以外のなんとかを私は知らなかった。

 だが今日私は触れないことを決めた。

 ではこれから私は何をするのだろう。

 わからなかった。

 わからないまま受話器を置いた。

 机の上に四枚の紙がある。明日もそこにあるだろう。片づかないまま。ずっと。

 それでいいと私は決めた。

 決めたのは私だ。誰にも命じられていない。

 

 

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