なんとかしますと私は言った。
新人が間違えて触れた。死ぬはずのなかった人間が死に、死ぬはずだった人間がぴんぴんしている。
こちらでなんとかします。
二百年私はそう言ってきた。そしてなんとかしてきた。なんとかするというのは触れることだった。狂った帳簿を合わせること。それ以外のなんとかを私は知らなかった。
だが私は触れないことを決めた。
では何をするのか。
三日考えた。
三日考えて何も思いつかなかった。
その間に電話は何度か鳴った。相談は来る。人手は足りない。新人は間違える。神様局は混んでいる。上はいない。何も変わらない。
私は電話に出た。出て聞いた。聞いて切った。
それだけだった。
「あの」と隣で新しいのが言った。
「あの件どうするんですか」
あの件。あの最後の電話だ。間違えて触れた新人の後始末。
「わかりません」と私は言った。
「触れないんですよね」
「触れません」と私は言った。
「もう決めました」
「じゃあ」
「わかりません」と私はもう一度言った。
その子は少し黙った。
「なんとかしますって言ってましたよね」
「言いました」
「なんとかしないんですか」
私は答えられなかった。
四日目に私は執行課へ行った。
電話ではなく直接行った。総務課は現場に出ない。だが他部署へ行くのは現場ではない。たぶん現場ではない。そういうことにして行った。
間違えた新人がいた。
若かった。三十年くらいだろう。まだ仕事を覚えている途中だ。あの新人もそのくらいだった。もう十年経っているから今は四十年くらいになっているはずだ。どこかで働いているのだろう。
その若い死神は私を見ると少し身を固くした。
「総務課の方ですか」
「そうです」
「あの、すみませんでした」とその子はすぐに言った。
「僕が間違えたので。……なんとかしてもらえると聞いたので」
なんとかしてもらえる。
そう聞いている。当たり前だ。二百年そうしてきた。総務課に電話をすればなんとかしてもらえる。誰かが片づけてくれる。それがこの局のなんとなくの了解だった。
私はその子の前に座った。
「聞かせてください」と私は言った。
「え」
「なぜ間違えたんですか」
その子は少し戸惑ったようだった。
「それはその」とその子は言った。
「似ていたんです。背格好が。同じような服を着ていて、同じところから出てきて」
「同じですね」と私は言った。
「え」
「いえ」と私は言った。
「こちらの話です。……それで」
「それで迷わずに触れました」とその子は言った。
「迷わなかったのがいちばん良くなかったです」
私は少し驚いた。
その言葉は私が言ったこととほとんど同じだった。迷わなかったのがいちばん良くない。私はあのときそういった。誰にも言っていない。書いただけだ。
この子は自分で同じところにたどりついている。
「そう思いますか」と私は聞いた。
「思います」とその子は言った。
「なんで迷わなかったのかわからないんです。ちゃんと見れば違ったはずなんです。でも見なかった。触れれば済むと思って触れました。……触れれば済むので」
触れれば済む。
我々が二百年言ってきた言葉だ。私が大鎌を欲しがる若い者にそう言った。触れれば済むので大鎌は要りませんと。
この子はそれを覚えている。
「そのあとどうしましたか」と私は聞いた。
「総務課に電話しました」
「その前です」
その子は少し黙った。
「その亡くなった人が」とその子は言った。
「倒れるのを見ました」
「見たんですか」
「見ました。触れたあとすぐに帰ればよかったんですけど、なんとなくその場にいて。……そしたら二日後に倒れて。救急車が来て、運ばれてそれで亡くなりました」
二日後まで見ていた。
「なぜ見ていたんですか」
「わかりません」とその子は言った。
「見ないほうがいいと思ったんですけど、見てしまいました」
私はしばらくその子を見ていた。
この子はこわがっている。あの子と同じだ。何があるかもわからない穴に魂を落としているのがこわいと言ったあの子と。
こわがっている死神がここにも一人いる。
「その人の名前は」と私は聞いた。
「名前ですか」その子は少し驚いたようだった。
「知りません。……名前は帳簿に載っていないので」
載っていない。
そのとおりだった。我々の帳簿には名前が載っていない。いつ死ぬかどこで死ぬかそれしか載っていない。荷役の男の名前を私は知らない。知る仕組みがない。
「その人は」と私は言った。
「どんな人でしたか」
その子は答えなかった。
答えられないのだと思った。知らないのだ。二日見ていたのに知らない。見ていたのは倒れるところと運ばれるところだけだ。それ以外のその人間の何かについては何も知らない。
私も同じだった。
「一つ聞いていいですか」とその子が言った。
「はい」
「なんとかするというのは」その子は言葉を探していた。
「その殺すんですか。本来の人を」
私は少し黙った。
「そうしてきました」と私は言った。
「二百年そうしてきました」
「今回もそうするんですか」
「しません」と私は言った。
その子は顔を上げた。
「しないというのは」
「触れません」と私は言った。
「本来の人には触れません。帳簿は合いません。合わないまま置いておきます」
「それでいいんですか」
「わかりません」と私は言った。
その子はしばらく黙っていた。
「じゃあ」とその子は言った。
「僕はどうすればいいんですか」
どうすればいいのか。
二百年私はこの問いにこう答えてきた。何もしなくていい。こちらでなんとかします。忘れてください。
そう答えればこの子は楽になる。楽になってまた仕事に戻る。そのうち慣れる。慣れて雑になる。怖くないから雑なんだと。慣れれば怖くなくなる。怖くなくなれば雑になる。
そうやって我々は二百年、七百年とやってきた。
私は口を開いた。
「覚えておいてください」と私は言った。
「覚えておく」
「あなたが間違えて一人亡くなりました」と私は言った。
「それはなかったことにはなりません。私が触れてもなりません。私が触れなくても、なりません。何をしてもなりません」
「はい」
「だから覚えておいてください」と私は言った。
「名前はわからないでしょう。どんな人だったかもわかりません。それでも覚えておいてください。あなたが間違えたことを」
「それで」とその子は言った。
「何かが変わるんですか」
変わらない。
私は同じことを言った。何にもなりません。ただ聞こえたものをなかったことにはできません。それだけです。
「変わりません」と私は言った。
「何も変わりません。あなたが覚えていてもその人は生き返りません。……ただ」
「ただ」
「次は迷ってください」と私は言った。
その子は少し目を上げた。
「迷わなかったのがいちばん良くなかったと、あなたは言いました」と私は言った。
「そのとおりです。次は迷ってください。ちゃんと見てください。時間がかかってもいいです。急いで間違えるくらいなら遅れたほうがましです」
「遅れると帳簿がずれませんか」
「ずれます」と私は言った。
「ずれてもいいです」
言ってから私は少し驚いた。
ずれてもいい。
二百年私はそんなことを言ったことがなかった。ずれは直すものだった。狂った帳簿は合わせるものだった。それがこの仕事だと思っていた。
だが私は触れないことを決めた。ずれをずれたまま置くことを決めた。
決めたのならそう言うしかない。
「ずれてもいいです」と私はもう一度言った。
「ずれたものは置いておきます。私が置いておきます。……総務課はそういう部署です」
総務課はそういう部署だ。
言ってから私はそれがたぶん答えなのだと思った。
総務課は現場に出ない。大鎌もない。格好よくもない。電話番だと言われている。どこかで若い者にそう言われた。
だが総務課には電話がかかってくる。
二百年私は電話を取ってきた。大鎌はどこで支給されますか。人間に惚れられました。魂が離れません。人間が死にたいと言っています。間違えて触れてしまいました。
全部聞いた。
そしてそのほとんどを解決できなかった。大鎌は支給されない。人間には触れられない。魂は待つしかない。死にたい人間には何もできない。間違えたものはなかったことにならない。
解決できないまま聞いてきた。
それが総務課の仕事だった。
私はそれを電話番だと思っていた。格好の悪い片づけ仕事だと思っていた。
だが違うのかもしれない。
総務課に戻ると新しいのが電話に出ていた。
「はい死神局総務課。……はい。……支給されません」
その子はこちらを見て少し笑った。それから続けた。
「触れれば済むので。……ええはい。でも」
その子は少し口ごもった。
「でも済まないこともあります」とその子は電話に言った。
私はその子を見た。
その子は私を見なかった。ただ電話に話していた。
「済まないことはこちらで聞きます。……はい。解決はしません。ただ聞きます」
電話が切れた。
その子は受話器を置いた。
「すみません」とその子は言った。
「勝手なこと言いました」
「いえ」と私は言った。
私は席に座った。机の上に四枚の紙がある。
五枚目を書いた。
執行課の若い死神が間違えて一人殺した。名前はわからない。どんな人だったかもわからない。その子は二日後に倒れるのを見た。見ないほうがいいと思ったのに見てしまった。
それだけを書いた。
五枚目を机の上に置いた。
その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。
私は受話器を取った。
「はい、死神局総務課」
「あのう」若い声だった。
「大鎌ってどこで支給されるんでしょうか」
同じだった。二百年同じ相談が来る。何も変わらない。
「支給されません」と私は言った。
「触れれば済むので」
言ってから少し考えて私は続けた。
「ただ、済まないこともあります」
「え」
「済まなかったらまた電話してください」と私は言った。
「解決はしません。ですが聞きます」
電話の向こうは少し黙った。
「それ意味ありますか」とその子は言った。
意味はない。
二百年意味のないことをしてきた。聞いて切ってそれだけだった。何も解決しなかった。何も変わらなかった。
だが聞いたものはなかったことにはならなかった。
「ありません」と私は言った。
「ですがこちらは聞きます。それが総務課です」
電話を切った。
机の上に五枚の紙がある。明日には六枚になるかもしれない。
片づかないまま置いておく。
それが私の、なんとかする、だった。