その日私は受話器を取り損ねた。
電話は鳴っていた。三回一拍三回。相談だ。私は手を伸ばした。伸ばして受話器を掴んだ。掴んだつもりだった。
手がすり抜けた。
私は自分の手を見た。
手はそこにあった。人間の姿を借りているから手がある。二百年この手で受話器を取ってきた。何万回も取ってきた。
その手が受話器をすり抜けた。
もう一度伸ばした。今度は掴めた。
「はい死神局総務課」
いつもの相談だった。大鎌の話だった。私はいつものように支給されませんと言った。それから少し考えて済まないこともありますと付け足した。そう言うようにしている。
電話を切った。
切ってから私はまた自分の手を見た。
なんでもない手だった。
それから何度か同じことが起きた。
書類を掴み損ねた。机に手をついたら少し沈んだ。歩いていて壁に肩がぶつかりかけてぶつからなかった。ぶつからずに少しめり込んだ。
どれも一瞬だった。すぐに元に戻った。
だが起きていた。
「あの」と隣で新しいのが言った。
「今手が」
「見えましたか」
「見えました」とその子は言った。
「机にめり込んで」
私はうなずいた。
「そうですね」と私は言った。
我々には本来姿がない。
私はそう書いた。あるのは空間のかすかな揺らぎのようなものだけだ。輪郭もなければ手も口もない。それが本来の姿——というより本来は姿がないのが正しい。
ではなぜこうして手で受話器を取っているのか。そのほうが落ち着くからだ。人間のかたちを一つ借りて、そのなかに収まっているとなんとなく据わりがいい。輪郭があったほうが自分がここにいる気がする。
そう書いた。
私はそれを堕落だと思っていた。
いまは少し違うことを思う。
輪郭を保つにはたぶん力が要る。ずっとそうしていようと思う何かが。それがなくなると輪郭が薄くなる。
回収課の古株に聞きに行った。
「手がすり抜けます」と私は言った。
古株は私をしばらく見ていた。
それからこう言った。
「そうか」
それだけだった。
「何か言うことはないんですか」
「ないな」と古株は言った。
「そういうものだ」
そういうものだ。先輩が消えたときもみんなそう言った。飽きたんだろう。そろそろだった。そういうものだ。
「私は」と私は言った。
「まだ二百年です」
「早いな」と古株は言った。
「たいてい七百年か八百年だ。二百は聞いたことがない。……いや、ないこともない。まれにいる」
「まれにいるんですか」
「いる」と古株はあっさり言った。
「若いうちに消えるやつがたまにいる。……理由は知らん。誰も知らん」
私は少し黙ってから聞いた。
「私は消えるんでしょうか」
「知らん」と古株は言った。
「消えるかもしれん。消えんかもしれん。手がすり抜けたやつが必ず消えるというわけでもない。持ち直すやつもいる」
「持ち直すというのは」
「輪郭が戻る」と古株は言った。
「元どおりになってまた何百年かやる。……なぜ戻るのかは知らん。誰も知らん。俺たちは何も知らんのだ」
何も知らない。
二百年それをいやというほど思い知ってきた。穴の底も知らない。魂の行き先も知らない。上がいるかも知らない。自分がなぜ生まれたかも知らない。
自分がなぜ消えるかも知らない。
「一つ聞いてもいいですか」と私は言った。
「なんだ」
「飽きるというのは」と私は言った。
「どういう感じなんでしょうか」
古株は少し考えるような顔をした。
「俺はまだ飽きていないからな」と古株は言った。
「わからん。……ただ消えたやつを何人も見てきた。あいつらは消える前にたいてい静かになった」
「静かに」
「口数が減る。仕事はするんだ。ちゃんとする。ただ、なんというか、こう、続ける理由みたいなものを探さなくなる」
続ける理由を探さなくなる。
「先輩は」と私は聞いた。
「そうでしたか」
古株は少し黙った。
「あの人は」と古株は言った。
「最後の頃、新聞を読まなくなっていた」
私は総務課に戻った。
机の引き出しを開けた。
畳んだ新聞のようなものが入っている。新しいのが来たときに席から片づけてここにしまった。捨てられなかった。
私はそれを取り出した。
私とこの新しいのはこれを最後まで読んだ。声に出して読んだ。先輩が止めたところから続きを。それが我々にできる唯一の弔いだった。
私はそれをまた開いた。
どうでもいい記事が書いてあった。人間の世界のどうでもいい出来事がいくつか。先輩が言っていた、遠くの相手とどうでもいい話をするようになった、あのどうでもいい話のなれの果てのようなものだ。
私はそれを読んだ。
読んで何も思わなかった。
それがこわかった。
二百年私はいろいろなことを思ってきた。面倒だと思った。理不尽だと思った。しんどいと思った。いつかにこの仕組みをおかしいと思った。どこかで癖でやってきたことを癖だと認めた。
思ってきた。
いまはこの新聞を読んで何も思わない。
どうでもいい記事だなとも思わない。ただ字が並んでいる。
これが飽きるということなのかもしれない。
「あの」と新しいのが言った。
私は顔を上げた。
その子は私の机の上を見ていた。
五枚の紙がある。殺せなくなった人間。河沿いの人間。荷役の男。荷が崩れて死んだ若い男。執行課の新人が殺した名前のわからない人間。
五枚とも出す先がない。片づかない。
「これ僕が引き継ぎますか」とその子は言った。
私は少し黙った。
「なぜ」
「その」その子は言いにくそうにした。
「手がすり抜けてるので」
この子はわかっている。
四十年しか生きていない。だがわかっている。私が薄くなっていることを。消えるかもしれないことを。
「引き継がなくていいです」と私は言った。
「でも」
「これは私が置いておくと決めたものです」と私は言った。
「私が決めました。片づけないと。私が決めたんです」
「じゃああなたが消えたら」
消えたら。
この五枚はどうなるのか。
誰も読まない。読ませる相手もいない。出す先もない。私が消えればこの紙は机の上に残る。誰かが片づけるだろう。捨てるだろう。それだけだ。
なかったことになる。
書くのはなかったことにしないためのたぶん唯一のやり方だった。
だが書いた者が消えればそれもなかったことになる。
紙は残る。だが紙が何であるかを知っている者がいなくなる。
先輩の新聞と同じだ。あの新聞はまだここにある。だがあれが先輩の読みかけだったことを知っているのは私とこの子だけだ。私が消えればこの子だけになる。この子も消えれば誰も知らない。
ただの古い新聞になる。
「一つ頼んでもいいですか」と私は言った。
「はい」
「私が消えたら」と私は言った。
「この五枚を読んでください」
「読む」
「声に出して読んでください」と私は言った。
「先輩の新聞を読んだときみたいに。……いつかやりましたね」
「やりました」
「あれをしてください」と私は言った。
「意味はありません。何も変わりません。ただ読んでください」
その子は少し黙った。
「それから捨ててください」と私は言った。
「読んだら捨てていいです。置いておく必要はありません。……置いておくと決めたのは私です。あなたが引き継ぐ必要はありません」
「でも」
「あなたはあなたの分を書いてください」と私は言った。
「あなたが聞いたものを。あなたがなかったことにできないと思ったものを。……それだけでいいです」
その子はしばらく黙っていた。
それからこう言った。
「消えないでください」
私はその子を見た。
我々はこういうことを言わない。先輩が消えたときも誰もそんなことは言わなかった。飽きたんだろう。そろそろだった。そういうものだ。それで終わりだった。
誰も消えないでくれとは言わなかった。
言う習慣がない。言ったところでどうにもならない。消えるものは消える。止める方法を誰も知らない。
「わかりません」と私は言った。
「消えるかどうかは私にもわかりません」
「わからないなら」とその子は言った。
「消えないでください」
その晩電話が鳴った。
三回一拍三回。相談だ。
私は手を伸ばした。
伸ばして受話器を掴んだ。
掴めた。
すり抜けなかった。
「はい死神局総務課」
「あのう」若い声だった。
「大鎌ってどこで支給されるんでしょうか」
二百年同じ相談が来る。
私はいつものように答えた。
「支給されません。触れれば済むので。……ただ済まないこともあります。済まなかったらまた電話してください。解決はしませんが聞きます」
電話が切れた。
私は受話器を置いた。
置いた手を少し見た。
まだある。
なぜ掴めたのかはわからない。
古株は持ち直すやつもいると言った。なぜ戻るのかは知らんとも言った。俺たちは何も知らんのだと。
わからない。
ただ私は今日電話を取った。取って聞いて答えた。明日もたぶん鳴る。同じ相談が来る。大鎌はどこで支給されますか。私は支給されませんと答えるだろう。
それだけのことだ。
それだけのことを私はまだ続けている。
続けている理由はわからない。私は二百年信じてきた理由を自分で手放した。帳簿を合わせるのが正しいというのはただの癖だった。癖をやめた。
やめたあとに何が残ったのか。
電話が残った。
鳴れば取る。
それだけが残った。
それが続ける理由になるのかはわからない。ならないかもしれない。ならなければ私はそのうち静かになって、口数が減って、続ける理由を探さなくなって、ある朝消えるのだろう。
誰かが飽きたんだろうと言うだろう。
それでいいと思う。
ただ消える前にあと何回か電話を取りたかった。
意味はない。何も変わらない。ただ鳴っているものを取りたかった。
それだけの理由で私はまだここにいる。