その日の相談は、道具の話でも電話の話でもなかった。
「回収課の応援に、総務から一人出してほしいそうです」
先輩がそう言って回覧を寄こしたとき、私はほとんど反射で首を横に振りかけた。総務課は現場に出ない。それが建前だ。だが回覧の下のほうには、相変わらず人手が足りないという回収課の嘆きが、これも相変わらずの筆致で書き連ねてあって、その筆致にはどこか本当に困っている気配があった。人手が足りないのはお互いさまだが、たまにどちらかが本当に困る。今回は向こうの番らしかった。
「行ってくれるか」と先輩が言った。
行ってくれ、ではなく、行ってくれるか、という言い方をするときの先輩は、たいてい自分は行く気がない。
私が行くことにした。
回収課の仕事は、執行課とは違う。
執行課が触れて終わらせるのに対して、回収課は終わったあとに来る。寿命を全うして、しかるべき時が来て、静かに息を引き取る者。そういう者のところへ行って、迎える。触れて殺すのではなく、すでに離れかけている魂をそっと受け取る。同じ死を扱っても、こちらのほうがいくらか穏当な仕事だと、外からは見える。
実際に行ってみると、穏当かどうかは、場合による。
その日の一件目は古い家だった。人間の暦でいえばかなりの高齢の女が畳の上に寝かされていた。まわりには家族が幾人か座っていて誰も泣いていなかった。泣くには、少し早いのか、あるいは遅いのか。女の息はもう、ずいぶんと間遠になっていた。
「畳の上で死ぬ、というのは」と、案内役の回収課の古株が、小声で私に言った。
「人間にとって、悪くない死に方らしい。昔からそう言うそうだ」
「畳の上で、というのは」
「布団の上で、家族に囲まれて、静かに、ということだな。事故でも、戦でも、災いでもなく。順番どおりに、自分の家で。人間は、それを良い死に方だと考える。畳の上で死ねなかった者を、少し気の毒がる」
私は、女の顔を見た。特に良くも悪くも見えなかった。死ぬというのは、当人にとっては、たぶん、良いも悪いもない。良い死に方だの悪い死に方だのというのは、残る者が決めることだ。当人は、ただ離れていくだけだ。
息が、止まった。
家族の誰かが小さく息を呑んだ。それから、少しずつ、泣きはじめた者もいた。私は、離れかけていた魂に、そっと触れた。触れれば済むのはこういうときも同じだった。魂は、抵抗しなかった。抵抗する魂としない魂がある。この女のは、しなかった。もう、じゅうぶんだったのだろう。
私は、それを、持ってきた箱に入れた。
その日は、五件回った。
畳の上のが一件。病院の白い部屋のが二件。あとの二件は、あまり穏当ではなかった。人間の死はいつも順番どおりに来るわけではない。だが回収課の仕事は、来た順に受け取ることだ。良いも悪いも、選べない。
合間に、古株がいろいろと教えてくれた。人間が死者をどう扱うか、という話だった。
「人間はな、死んだあとの体を、ずいぶん丁寧に扱う」と古株は言った。
「もう魂の抜けた、ただの体をだ。洗って、清めて、いちばん良い服を着せて、花で囲む。火で焼く者もいれば、土に埋める者もいる。骨を拾って、壺に入れて、何年も手元に置く者もいる。……不思議なものだろう。中身は、もう我々が持っていったあとなのにな」
「なぜ、そんなことを」
「さあな。俺にもよくわからん。ただ、あれは、死んだ者のためというより、残った者のためなんだろう。いきなりいなくなられては、残ったほうが、収まりがつかん。だから、洗ったり、焼いたり、埋めたり、拝んだりして、少しずつ、いなくなったことに慣れていく。手間をかけるんだ。わざわざ、たっぷりと」
私は、それを聞いて、少し考えた。
我々には、そういう手間がない。魂を受け取ったら、箱に入れる。それで済む。清めもしないし、拝みもしない。同僚が消えたときも、同じだ。ある日いなくなって、誰かが、飽きたんだろう、と言ってそれで終わる。洗いも、焼きも、埋めもしない。慣れるための手間を、我々はかけない。かける必要を感じたことがなかった。
人間は、かける。わざわざ、たっぷりと。
「人間のほうが、丁寧なんですね」と私は言った。
「丁寧というか」古株は、少し言葉を探した。
「あいつらは、死ぬのが、よほど怖いんだろう。怖いから、丁寧になる。手間をかけて、儀式にして、なんとか、飲み込もうとする。……我々は、怖くないからな。怖くないから、雑なんだ」
怖くないから、雑。
その言い方は、なんとなく、私の中に残った。
最後の一件は、また、畳の上だった。
だが、一件目とは違って、まわりに誰もいなかった。古い、小さな家に、老いた男が一人、布団に寝ていた。家族はいないのか、いても遠いのか、それはわからなかった。ただ、部屋はきちんと片づいていて、枕元には、湯呑みと、眼鏡と、読みかけの本のようなものが、几帳面に並べてあった。誰にも看取られないと知っていて、それでも、自分で自分の枕元を整えたのだろう。
男の息も、もう、間遠だった。
私が近づくと、男は薄く目を開けた。
これは、まれにある。死にかけの人間が、我々に気づくことが、ごくまれにある。たいていは気づかない。気づいても、こちらの姿は、人間のかたちに見えるので、家族の誰かか、あるいは、迎えに来た何かだと思う。この男もそう思ったのかもしれない。
男は、私を見て、少しだけ、口を動かした。
声は、ほとんど出ていなかった。だが、言おうとしたことはなんとなく伝わった。テレパシーではない。ただ、口の動きと目の色で、伝わった。
――遅かったじゃないか。
そう言ったように見えた。
待っていた、という顔だった。誰にも看取られず、一人で、枕元を整えて、それでも、何かが迎えに来るのを待っていた。そして、来たものを見て、遅かったじゃないか、と。責めるのではなく、どこか、ほっとしたような顔で。
私は、少し、返事に困った。我々は、こういうとき、何も言わないことになっている。言葉をかけたところで、どうにもならない。ただ触れて、受け取って、箱に入れる。それが仕事だ。
だが、その日は少しだけ、口を動かした。声は出さなかった。ただ、男に見えるように、口だけ動かした。
――お待たせしました。
男は、ほんの少し、笑ったように見えた。それから、目を閉じた。息が、止まった。
私は、離れかけた魂に触れた。この魂は、抵抗しなかった。それどころか、少し、急ぐように、こちらへ来た。長く待っていた者の魂は、たまに、こういうふうに来る。
私は、それを箱に入れた。
入れる前に、ほんの少しだけ、手が止まった。古株の言った慣れるための手間、というのが、頭をよぎった。だが私には、かける手間の持ち合わせがなかった。清め方も、拝み方も、知らない。ただ、いつもより少しだけ、ゆっくりと入れた。それが私にできる精一杯の手間だった。
総務課に戻ると、先輩が「どうだった」と聞いた。
「疲れました」
「回収は疲れるだろう。執行と違って、待つ仕事だからな。待つのは、疲れる」
私は、自分の席についた。今日一日で受け取った魂は、すべて、しかるべき箱に入れて、しかるべき穴に落としてきた。穴の底がどこに通じているのかは、今日も、わからなかった。あの、遅かったじゃないかと言った男の魂が、今ごろどこへ行ったのかも、わからない。どこかへ生まれ変わったのか、解けてなくなったのか。誰も知らない。
「先輩」と私は言った。
「人間は、死ぬのが怖いから、いろいろ手間をかけるそうです。洗ったり、焼いたり、拝んだり」
「そうらしいな」
「我々は、怖くないから、雑なんだそうです」
先輩は、新聞のようなものから、少しだけ目を上げた。
「誰が言った」
「回収課の、古株の人が」
「……まあ、当たってはいるな」先輩は、また目を戻した。
「怖くないからな。俺たちは、死なない。消えるが、死なない。死なない者に、死ぬ者の気持ちは、わからん。わからんから、雑になる。仕方のないことだ」
「消えるのは、怖くないんですか」
先輩は、少しのあいだ、黙った。それから、めくりかけた新聞のようなものを、めくらずに、言った。
「怖くはない。ただ――」
「ただ」
「あの男みたいに、枕元を整えてから、消えられるかどうかは、わからんな。俺たちは、いつ消えるか、自分でもわからんからな。整える暇も、たぶん、ないんだろう」
私は、返事をしなかった。
その晩、電話が鳴った。三回、一拍、三回。相談だ。私は受話器を取った。
「はい、死神局総務課」
「あのう、良い死に方って、あるんでしょうか。人間の言う、畳の上、みたいな」
若い声だった。今日、回収に出た若手の誰かかもしれなかった。
「僕たちにも、良い消え方って、あるんでしょうか」
私は、少し黙ってから、言った。
「わかりません。まだ、消えたことがないので」
誰も、消えたことがないから、誰にもわからない。死を毎日運んでいる我々が、自分の消え方だけは、何ひとつ知らない。人間はそれを怖がってたっぷり手間をかける。我々は、怖がりもせず手間もかけず、ただ、いつか、飽きたように消えていく。
どちらが良いのかは、これも、わからなかった。