こちら死神局総務課   作:朝凪小夜

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第七話 飽きたんだろう

 

 先輩が消えた。

 順を追って書くとこうだ。その朝私が総務課に来ると隣の席が空いていた。それだけのことだった。椅子があって、机があって、机の上には畳んだままの新聞のようなものが置いてあった。読みかけのいつものやつだ。

 私はしばらくその席を見ていた。

 それからあたりを見回して誰にともなく聞いた。

 

「先輩は」

 

 向かいの席の者が顔を上げて空いた席を見てそれからこう言った。

 

「ああ。消えたんじゃないか」

 

 消えたんじゃないか。それだけだった。声の調子は雨が降りそうだと言うのとほとんど変わらなかった。

   

 我々は死なない。

 だが消える。だいたい七百年から八百年もするとある日いなくなる。前触れはない。挨拶もない。ただある朝その揺らぎがどこにも見当たらなくなる。探してもいない。呼んでも返らない。それきりだ。

 これを我々は死とは呼ばない。呼ぶ言葉がそもそもない。死んだと言うと、なんだか人間のような気がして据わりが悪い。だから消えたと言う。あるいはこう言う。

 飽きたんだろう。

 これが我々のあいだでいちばんよく使われる言い方だった。あいつは飽きたんだろう。長いことやって飽きたんだろう。もともと思念のようなものだったのだから、飽きれば続ける理由もない。理由がなくなれば続かない。続かなくなれば消える。それだけのことだと。

 誰も悼まない。悼むという習慣が我々にはない。回収課の古株が言っていた、怖くないから雑なんだと。同僚が消えることも我々にとっては怖くない。怖くないから雑に扱う。飽きたんだろうで済ませる。

 だが、その朝私はなぜか済ませられなかった。

   

「本当に消えたんですか」と私は向かいの者にもう一度聞いた。

 

「他に何がある」向かいの者は少し面倒そうだった。

 

「席が空いていて本人がいない。それなら消えたんだろう。何百年もやってたんだろう、あの人は。そろそろだったんじゃないか」

 

 そろそろだった。それもよく使われる言い方だった。あの人はそろそろだった。年季が入っていたからそろそろだった。まるで機械の部品が寿命で外れたような言い方だった。

 

「探さないんですか」

 

「探してどうする」

 

 私は返事に詰まった。探してどうするのだろう。見つかるものではない。消えた者はどこにもいない。どこかに隠れているのではなく、どこにもいないのだ。探すという行為がそもそも成り立たない。

 

「でも」と私は言った。

 

「昨日までいたんです」

 

「昨日まではいたな」向かいの者はうなずいた。

 

「今日はいない。そういうものだ」

 そういうものだ。それで話は終わりだった。

   

 その日私は仕事にならなかった。

 電話はいつもどおり鳴った。大鎌の相談も電話の相談もいつもどおり来た。私はいつもどおり支給されませんと答えて切った。だが受話器を置くたびに隣の席を見た。誰も座っていない席を。

 昼のあたりで回収課の古株が様子を見に来た。私と一緒に街を回ったあの古株だ。

 

「聞いたよ」と古株は言った。「消えたんだってな」

 

「消えました」

 

「そうか」古株は空いた席を少し見た。

それから私の顔を見た。

 

「あんたしんどそうだな」

 

 私は少し驚いた。しんどそうだと言われるとは思っていなかった。我々はこういうときしんどくならないことになっている。飽きたんだろうで済ませることになっている。

 

「しんどいというのが正しいのかわかりません」と私は正直に言った。

 

「ただ少し落ち着かないです」

 

「落ち着かないか」古株はうなずいた。

 

「それはあんたがあの人と長かったからだろう。長く隣にいると揺らぎが、こう、癖になる。隣にあるはずのものがない。それが落ち着かない。……あれはたぶん人間の言う寂しいというのに近いんだろうな」

 

 寂しい。

 

 我々にはあまり使わない言葉だった。使う機会がない。誰かが消えても、飽きたんだろうで済ませるのだから、寂しくなる暇がない。だが言われてみれば、その言葉はこの落ち着かない感じにいちばん近いようだった。

   

「人間はな」と古株は言った。

 

誰かが消えたときに、古株が語りはじめるのはたぶんこれが彼なりの弔いなのだろう。

 

「死んだあとどこへ行くかいろいろ考えてきた」

 

「行き先をですか」

 

「そうだ。あいつらは行き先を決めておきたがる。どこへも行かないというのがいちばん耐えられんらしい。だからいろいろ考えた。……ある者は生まれ変わると考えた。死んだらまた別のものに生まれてまた生きる。牛にも虫にも人にもなる。行いによって次が決まる。そういう仕組みだと」

 

「生まれ変わる」

 

「輪廻とあいつらは呼ぶ。輪のように廻る。何度でもな。……面白いのはあいつらにとってそれは必ずしも良いことではないらしいということだ」

 

「良いことではない」

 

「何度も生まれ変わるのは苦しいというんだ」古株は少し可笑しそうにした。

 

「生きるのは苦しい。だから何度も生きるのは何度も苦しい。輪から抜けて、二度と生まれ変わらないようにするのがいちばん良いとそう考える者たちもいる。……妙だろう。永遠に続くのが良いことではないというんだ。終われるのが褒美だというんだな」

 

 私は少し考えた。

 我々は七百年か八百年かすると消える。それを我々は飽きたんだろうと言う。だがその者たちの考え方でいけば、消えるというのは輪から抜けることに近いのかもしれない。褒美なのかもしれない。飽きたのではなく、じゅうぶんだったということなのかもしれない。

 

「先輩は」と私は言った。

 

「褒美をもらったんでしょうか」

 

「さあな」古株は肩をすくめた。

 

「それは誰にもわからん。俺たちは消えた者に聞けない。聞けたためしがない。……ただこれだけは言える。俺たちが魂を落としているあの穴な。あそこの底がどこに通じているかは誰も知らない。もしかしたら消えた俺たちも同じところへ行くのかもしれん。人間と同じ穴に。生まれ変わるのかもしれん。……全部、かもしれんだ。誰も知らん」

   

 誰も知らない。

 その日の午後私は先輩の机を片づけることになった。片づける者が他にいなかったからだ。総務課はこういう誰もやりたがらない役目だけはなぜか必ず回ってくる。今回は私に回ってきた。

 机の上には畳んだままの新聞のようなものがあった。読みかけのいつものやつだ。開いてみると途中まで読んでそこで止まっていた。続きは読まれていなかった。読むつもりだったのかそうでなかったのかはわからない。たぶん読むつもりだったのだろう。消える者は自分が消えることを知らないのだから。

 私は少し手を止めた。

 私が回収したあの男のことを思い出した。誰にも看取られず一人で枕元を整えて待っていた男だ。湯呑みと眼鏡と読みかけの本を几帳面に並べて。あの男は自分が終わることを知っていた。知っていたから整えられた。

 先輩は知らなかった。だから整えられなかった。読みかけの新聞が開いたまま置いてある。それだけだ。

 あのとき先輩はこう言った。あの男みたいに枕元を整えてから消えられるかどうかはわからんな。俺たちはいつ消えるか自分でもわからんからな。整える暇もたぶんないんだろう。

 整える暇はなかった。

 私はその新聞のようなものを畳んだ。畳んで机の上に置いた。捨てる気にはならなかった。

   

 夕方若い死神が私のところへ来た。電話をくれたあの若手だった。初めて一人で仕事に行ってなんにも格好よくなかったと言ったあの子だ。

 

「あの」とその子は言った。

 

「隣の席の方消えたって聞きました」

 

「消えました」

 

「……そのなんて言えばいいのかわからないんですけど」その子は言葉を探していた。

 

「みんな飽きたんだろうって言ってて。それで済ませてて。でも僕なんかそれだけじゃいけない気がして。それで来ました」

 

 私はその子を少し見た。

 この子はまだ雑になっていなかった。慣れていなかった。慣れていないから、飽きたんだろうで済ませることに収まりの悪さを感じている。我々はたいていそのうち慣れる。慣れて雑になる。そのほうが楽だからだ。だがこの子はまだ慣れていない。

 私も今日は慣れられなかった。

 

「何かしたいですか」と私は聞いた。

 

「したいというか」その子は口ごもった。

 

「人間はなんかするじゃないですか。死んだ人に。洗ったり拝んだり。……僕たち何もしないんですか」

 

 何もしない。それが答えだった。我々にはする習慣がない。清め方も拝み方も知らない。私が魂を箱に入れるときいつもより少しだけゆっくりと入れた。それが私にできる精一杯の手間だった。それ以上のやり方を我々は持っていない。

 私は少し考えた。それから言った。

 

「新聞を読みますか」

 

「え」

 

「先輩が読みかけていたやつです」私は机の上の畳んだ新聞のようなものを指した。

 

「途中で止まってます。続きを読む者がいません」

 

 その子は少しのあいだそれを見ていた。それからうなずいた。

 私たちはその新聞のようなものを開いて、先輩が止めたところから続きを読んだ。声に出して読んだ。たいした内容ではなかった。人間の世界のどうでもいい出来事がいくつか書いてあるだけだった。先輩が言っていた、遠くの相手とどうでもいい話をするようになったあのどうでもいい話のなれの果てのようなものだった。

 だが私たちは最後まで読んだ。

 読み終えてまた畳んだ。

 

「これでいいんでしょうか」とその子が聞いた。

 

「わかりません」と私は言った。「初めてやったので」

   

 その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。私は受話器を取った。

 

「はい死神局総務課」

 

「あのう」若い声だった。

 

「総務課って人足りてますか」

 

「足りてません」と私は言った。

 

今日一人減った。もともと足りていなかったところがさらに足りなくなった。

 

「なぜ」

 

「いえ、その、この前発生したやつを見つけて、自分の部署に入れようっていうのが流行ってるらしくて。総務課さんは参加しないのかなって」

 

 私は隣の空いた席を見た。

 誰も座っていない席だった。片づけたばかりで机の上には畳んだ新聞のようなものが一つ置いてあるだけだった。あの席にいずれ誰かが座るのだろう。気づいたら、どこかで生まれたまだ言葉も知らない揺らぎが、十年かけて言葉を覚え、三十年かけて仕事を覚えて、あの席に座る。そして七百年もすればまた消える。誰かが飽きたんだろうと言ってそれで終わる。

 その繰り返しを誰も決めていない。上はいない。始めた者もいない。ただなんとなくそういうふうになっている。

 

「参加します」と私は言った。自分でも少し意外だった。

 

「え、ほんとですか」

 

「席が一つ空いたので」

 

 空いた席は埋めなければならない。埋めなければ、この誰も始めた覚えのない仕組みが少しずつ回らなくなる。回らなくなったところで誰も困らないのかもしれない。だが私はたぶんまだ飽きていなかった。

 飽きていないうちは続けるしかない。先輩もそうだったのだろう。飽きるまでは続けていた。飽きたから消えた。それだけの話だ。

 それだけの話だと思うことにした。そう思わないと明日この席の隣でまた電話を取る気になれなかった。

 

 

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