こちら死神局総務課   作:朝凪小夜

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第八話 穴

 

 先輩が消えてから、私は穴のことばかり考えるようになった。

 穴、というのは我々が回収した魂を最後に落とすところだ。ずっと出てきている。箱に入れて穴に落とす。それで一件が終わる。書類でいえば、決裁が下りて綴じて片づけるというのにあたるのだろう。落としてしまえば、あとはこちらの手を離れる。

 その離れた先がどこなのかを私は知らない。

 誰も知らない。ずっと私は同じことを書いた。穴の底がどこに通じているのかは誰も知らないと。ずっとそう書いてきてずっとそれでよかった。知らなくても仕事はできる。落とせば済むのだから。

 だが先輩が消えてからはそれでは済まなくなった。

   

 なぜかというと、あの人がどこへ行ったのかを知りたくなったからだ。

 これはたぶん我々らしくない考え方だ。消えた者は消えたのだ。どこへも行っていない。どこかへ行ったのなら、それはいなくなったことにならない。飽きたんだろうで済ませるというのは行き先を問わないということでもある。行き先を問わなければ寂しくならずに済む。

 私は問うてしまった。だから寂しくなった。

 回収課の古株にそのことを言うと、古株は少し困った顔をした。輪廻の話をしてくれたあの古株だ。先輩が消えてから私はこの人と話す時間が増えた。隣の席が空いたぶんどこかで誰かと話さないと間が持たなくなったのかもしれない。

 

「知りたいというのはな」と古株は言った。

 

「あんまり我々のする質問じゃないんだ」

 

「わかっています」

 

「わかっていて聞くのか」

 

「聞きます」と私は言った。

 

「あの穴の底に先輩がいるんでしょうか」

 古株はしばらく黙っていた。それからこう言った。

 

「見に行くか」

   

 穴は思っていたよりなんでもない場所にあった。

 我々が仕事のあとに立ち寄るいつものあの場所だ。何度も来ている。箱を持って来て傾けて中身を落として帰る。それだけの場所だ。あらためて見るとただそこに穴があった。

 深いのか浅いのかもわからない。底が見えない。暗いから見えないのではなく見るという行為がそこで成り立たなくなる。覗き込んでも目が何も受け取らない。人間の姿を借りているから目がある。目があるから覗き込む。だが覗き込んだところで何も映らない。

 

「落ちてみようと思ったやつは昔から何人もいた」と古株が言った。

 

「どうなりました」

 

「戻ってきたやつはいない」古株はあっさりと言った。

 

「戻ってこないからどうなったかもわからん。落ちて消えたのか。落ちてどこかへ行ったのか。落ちる前に気が変わってやめたやつは何人か知っているがあれは落ちてないからな。参考にならん」

 

 私は穴を覗き込んだ。やはり何も映らなかった。

 この底に私が今まで落としてきた魂が全部行っている。畳の上の女。誰にも看取られず遅かったじゃないかと言ったあの男。人違いで死んだ連れ。そして私が予定どおりにしたあの笑っていた男。全部ここへ落とした。落としてそれきりだ。

 彼らが今どこにいるのかを私は知らない。生まれ変わったのか解けてなくなったのか。褒美をもらったのかただ終わったのか。

 

「先輩もここへ来たんでしょうか」と私は聞いた。

 

「わからん」と古株は言った。

 

「そもそも、我々が消えるときにこの穴を通るのかどうかもわからん。誰も見たことがないんだ。消えるやつはいつのまにか消える。誰かが穴に落ちるところを見た者はいない。……ただ俺はなんとなく同じところへ行くんじゃないかと思っている」

 

「なぜ」

 

「他に行くところがないからだ」古株は穴を見ながら言った。

 

「この世界に行き先というのはここしかない。人間の魂もここへ来る。俺たちが消えるときも、どこかへは行くんだろう。行き先が二つも三つもあるとは思えん。だとしたら同じところだ。……ずいぶん雑な理屈だがな」

 

 雑な理屈だった。だが他に理屈がなかった。

   

 その帰り道に古株が人間の話をしてくれた。

 人間が死んだあとの行き先をどう考えてきたかという話だった。輪廻の話は聞いた。今度は行き先そのものの話だった。

 

「人間はな行き先に必ず地形をつける」と古株は言った。

 

「地形、というのは川だとか、門だとか山だとか、そういうものだ。あいつらは死んだあとの世界を地面のように想像する」

 

「地面のように」

 

「そうだ。まず川があると考える者たちがいた。死んだ者は川を渡る。渡し守がいて舟に乗せてくれる。ただし金を取る。……金だぞ。あの世へ渡るのに渡し賃が要ると考えたんだ。だから死人の口に金を含ませて埋めた。渡し賃を持たせてやるためにな」

 

 私は少し可笑しくなった。あの世に行くのに金が要る。人間は死んでもまだ金の心配をしている。

 

「別の者たちもやはり川を考えた」と古株は続けた。

 

「こちらは渡り方が三つあると考えた。生前の行いによって渡る場所が違う。良い行いをした者は浅いところを渡る。悪い行いをした者は深いところを流されながら渡る。……三つの瀬がある川だと。人間は離れた場所でまったく別に同じような川を思いついている。面白いだろう」

 

「なぜみんな川なんでしょうか」

 

「境目が要るんだろうな」と古株は言った。

 

「こちらと、あちら、の境目が。人間にとっていちばん身近な境目が川なんだ。向こう岸は見えるが行けない。渡らなければ行けない。渡ってしまえば戻れない。……死ぬというのはそういうものだとあいつらは思っている。だから川にする」

 

 境目。

 我々の穴には境目がない。渡し守もいない。渡し賃も要らない。三つの瀬もない。ただ落とすだけだ。落ちたらそれきりで、こちらとあちらの区別すらはっきりしない。区別があるということは、あちら側があるということだ。我々の穴にはあちら側があるのかどうかもわからない。

 

「門を考えた者たちもいる」と古株は言った。

 

「門があって、番人がいて、生前の行いを量る。秤に心臓を載せて、羽根と釣り合うかどうかを見る。軽ければ通す。重ければ通さない。……あいつらは行いが重さになると考えたんだな。悪いことをした者の心臓は重いと」

 

「先輩の心臓はどうだったでしょうか」と私はつい言った。

 

 古株は少し笑った。

 

「あの人には心臓がなかったからな」

 

 そうだった。我々には心臓がない。人間の姿を借りているから、あるように見えるだけだ。量られる心臓がそもそもない。だから我々は量られない。裁かれない。罰も褒美もない。ただ消える。

 人間は行き先に地形をつけ、番人を置き、秤を用意した。そこまでしてなんとか、死のあとに筋を通そうとした。良い者は良いところへ、悪い者は悪いところへ。そういう筋がないとたぶん耐えられなかったのだろう。

 我々には筋がない。誰も裁かず誰も量らずただ穴がある。落ちればそれきりだ。

 どちらがましなのかはわからなかった。この仕事はいつもそればかりだった。

   

 総務課に戻ると電話が鳴っていた。三回一拍三回。相談だ。

 

「はい死神局総務課」

 

「あのう」若い声だった。

 

「穴の底って何があるんですか」

 

 今日はそういう日らしかった。私は少し黙ってから答えた。

 

「わかりません」

 

「え、わからないんですか」

 

「わかりません。誰も知りません。見た者がいないので」

 

「でも、僕たち、毎日あそこに落としてるじゃないですか」電話の向こうは少し慌てていた。

 

「何があるかもわからないところに、人の魂を落としてるんですか」

 

 落としている。まさにそのとおりだった。

 私はこの仕事を二百年以上やってきた。その二百年のあいだ、何があるかも知らない穴に数え切れないほどの魂を落としつづけてきた。生まれ変わるかもしれないし、解けてなくなるかもしれない。褒美かもしれないし、ただの終わりかもしれない。何もわからないまま落としてきた。

 わからないままでも仕事はできた。落とせば済んだからだ。だがこうして、若い者にまっすぐ聞かれると、これはずいぶん無責任な仕事のようにも思えた。

 

「はい」と私は言った。

 

「落としています」

 

「それでいいんですか」

 

「よくはないです」と私は言った。どこかでも私は同じことを言った。よくはないがそういうものだと。今日も同じことを言うしかなかった。

 

「でもそうするしかありません。上がいないので正しいやり方を教えてくれる者もいません。我々は、始めた覚えのない仕組みをなんとなく回しているだけです」

 

 電話の向こうはしばらく黙っていた。

「……こわいです」とその子は言った。

 

「こわい」

 

「はい。何があるかもわからないところに落としてるのが。そのうち自分も落ちるかもしれないのが」

 

 こわいとその子は言った。

 

 私は少し驚いた。我々はこわがらない。怖くないから雑なんだと。人間は死ぬのが怖いから丁寧になる。我々は怖くないから雑になる。ずっとそうだと思っていた。

 だがこの子はこわがっている。

 こわがっている死神がここに一人いる。

 それは我々が少しずつ、人間じみてきているということなのかもしれない。人間の姿を借り、人間の道具を借り、人間の弔いを見よう見まねで真似はじめた。そしてとうとう人間のようにこわがりはじめた。

 これは堕落なのだろうか。

 わからない。だが私はこのこわがっている若い死神のことを悪くは思わなかった。こわがるということは雑にならないということだ。雑にならなければ落とすときに少しは丁寧になる。丁寧になったところで穴の底は変わらない。何も変わらない。それでも丁寧なほうがたぶんいくらかましだ。

 

「こわがってください」と私は言った。

 

「え」

 

「こわがったまま落としてください。慣れないほうがいいです」

 

 私はそう言った。それが正しいことなのかはわからなかった。ただ先輩が消えて、机の上に読みかけの新聞のようなものが残っていたあの朝から、私は慣れることの良さが少しわからなくなっていた。

 慣れれば楽になる。楽になれば続けられる。続けられれば飽きるまでこの仕事をやっていける。

 だが慣れてしまえば、先輩が消えた朝にあの席をずっと見つめていた自分もいなくなる。

 電話が切れたあと私は隣の空いた席をまた見た。畳んだ新聞のようなものがまだ置いてある。捨てる気にはならない。

 この席にいずれ誰かが座る。その誰かも七百年もすれば消えてあの穴かどこか誰も知らないところへ行くのだろう。私も行くのだろう。

 行き先には川もなく門もなく秤もない。渡し賃も要らない。ただ穴がある。

 それだけだと思うことにした。そう思わないと明日もあそこへ箱を運ぶ気になれなかった。

 

 

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