こちら死神局総務課   作:朝凪小夜

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第九話 触れない

 

 その相談は執行課の中堅からだった。

 

「人間の女に惚れられまして」

 

 私は受話器を持ち直した。総務課には変な相談が来る。だがこの種の相談は変というより面倒だった。

 

「触れましたか」

 

「触れてません」相手は慌てて言った。

 

「触れてないです。触れたら死にますから。ただその話をしていただけで」

 

「話を」

 

「毎日同じ喫茶店で。向かいの席で。……気づいたら二年ほど」

 

 二年。人間の二年は我々にとってはほんの少しの時間だ。だが人間にとっては二年だった。毎日同じ店で向かいの席で二年。それは人間の言葉でいえばたぶん何かになっていた。

 

「でどうしたいんですか」

 

「どうすればいいのかわからないので聞いています」

 

 もっともな話だった。私にもわからなかった。

   

 我々は人間に触れられない。

 正確には触れられる。物理的には可能だ。ただ触れれば相手は死ぬ。それが我々の仕組みだ。指先が一瞬肌をかすめればそれでいい。あとは勝手に死ぬ。ずっとそうだ。

 この仕組みには当然副作用がある。

 我々は人間と握手ができない。肩を叩けない。手を引けない。抱きしめられない。人間が親しみを示すためにする動作のほとんど全部が我々にとっては殺害の手順と一致している。

 だから人間と親しくなった死神はたいてい困る。

 親しくなるだけならできるのだ。話はできる。同じ店に座れる。冗談を言い合える。相手を笑わせることも、慰めることもたぶんできる。人間が親しさを深めていく道のりを途中まで一緒に歩ける。

 ただ最後の一歩だけが踏めない。

 人間は親しさが深まるといずれ触れようとする。それがあいつらの親しさの形なのだ。古株が言っていた。人間は死者の体を洗って清めて花で囲む。触れることでしか飲み込めないものがあいつらにはある。生きているうちも同じだ。触れることでしか確かめられない親しさがある。

 我々はそこで止まる。止まるしかない。

   

「それでその女の人は」と私は聞いた。

 

「先週手を握ろうとしました」

 

 私は少し息を呑んだ。息を呑む必要など本来ないのだが、人間の姿を借りているとこういうときに息を呑みたくなる。

 

「避けました」

 

「よかった」

 

「よかったんでしょうか」相手の声は少し沈んでいた。

 

「避けたらその変な顔をされました。当たり前ですけど。二年も向かいに座っていて、手を握ろうとしたら、さっと避けられたらそれは変な顔もします」

 

「それはそうでしょうね」

 

「あの人は僕が嫌がったと思ったはずです」相手は言った。

 

「本当は殺したくなかっただけなんですけど。……でもそれは言えないので」

 

 言えない。当たり前だ。あなたに触れるとあなたは死ぬので避けましたとは言えない。言ったところで信じないだろうし、信じたらそれはそれで面倒だ。

 だからその死神はただ手を避けた変な男になった。

   

 私はこの種の相談をこれまでにも何度か受けてきた。

 答えはいつも同じだった。離れなさいと言う。人間と親しくなってもその先はない。触れられないのだから、いずれ相手が離れていく。あるいは相手が老いて死ぬ。どちらにしても終わる。だったら深くなる前に離れたほうがいい。

 我々は人間よりずっと長い。人間の一生は我々にとってほんの何十年かだ。七百年生きる者にとって八十年は短い。親しくなった人間は必ず先に消える。しかもたいていこちらが回収する側になる。自分が親しくした人間の魂を自分で箱に入れて穴に落とす。そういうことになりかねない。

 だから離れなさいと言う。それがいつもの答えだった。

 だがその日私は少し言いよどんだ。

 なぜか。先輩が消えたからだ。

 先輩は私にとって、たぶんいちばん親しい存在だった。隣の席で二百年新聞のようなものを読んでいた。そしてある朝消えた。読みかけの新聞を残して。

 あれで私はどうなったか。

 寂しくなった。落ち着かなくなった。穴を覗きに行った。慣れることの良さがわからなくなった。

 だがあの二百年をなかったことにしたいとは思わなかった。

 もし二百年前に、誰かが私にあの人と親しくなるのはやめておけ、いずれ消えるのだからと言ったとして、私はその忠告を聞いただろうか。聞いて隣の席で二百年口をきかずにいただろうか。

 たぶんそれはしなかった。

   

「離れたほうがいいんでしょうか」とその死神は聞いた。

 

 私は少し黙った。

 

「離れたほうが楽です」と私は言った。

 

「その人はいずれ老いて死にます。あなたは、たぶん、その魂を回収することになります。自分で箱に入れて、自分で穴に落とすことになります。それはなかなかしんどいと思います」

 

「はい」

 

「離れればそれは避けられます」

 

「はい」

 

「ただ」と私は言った。

 言いながら、これはたぶん総務課の答えとしては間違っているのだろうなと思った。総務課は面倒を減らすところだ。面倒を増やすことを勧める部署ではない。

 

「二年向かいに座っていたんですよね」

 

「座っていました」

 

「その二年はなかったことにはならないです」と私は言った。

 

「離れてもならないです。離れたところで、あなたはその二年を覚えています。覚えたまま離れることになります。……それならまあ、どちらでも同じかもしれません」

 

「同じですか」

 

「どちらにしてもいつかしんどくなります」と私は言った。

 

「早くしんどくなるか、遅くしんどくなるかそれだけの違いです。……好きなほうを選んでください」

 

 電話の向こうはしばらく黙っていた。

 

「ひどい相談窓口ですね」とその死神は言った。

 

「そうですね」と私は言った。

 

「すみません」

   

 その死神は離れなかった。

 あとで聞いた話だ。彼は今も同じ喫茶店に通っているらしい。向かいの席に座って話をしてそして手を避けている。避けつづけている。

 女のほうはどう思っているのだろう。二年、いやもう三年近く毎日向かいに座っているのに決して手を握らせない男を。触れさせない男を。

 人間はこういうときいろいろと理由を考えるらしい。潔癖なのだろうかとか、他に相手がいるのだろうかとか、あるいは自分に何か問題があるのだろうかとか。本当の理由——触れると死ぬから——には絶対にたどりつかない。たどりつけるはずがない。

 そうやってその女はたぶん少しずつ傷ついている。

 傷つけているのは殺さないためだ。殺さないために傷つけている。触れれば一瞬で終わる。触れないから少しずつ削れていく。どちらがましなのかはわからない。

 この仕事はいつもそればかりだった。

   

 その日の夕方私は久しぶりに外に出た。

 用があったわけではない。総務課は現場に出ない。ただなんとなく人間の街を歩いてみたくなった。先輩が消えてからそういうことが増えた。

 夕方の街は混んでいた。人間がたくさん歩いていた。肩が何度もぶつかりそうになった。

 私はそのたびに避けた。

 これは癖だ。我々のいちばん深いところに染みついた癖だった。人間の街を歩くとき我々は常に避けている。避けなければ殺してしまう。誰かの肩にうっかり触れればその誰かは数日のうちに死ぬ。予定にもない死が一つ増える。神様局の列がまた一つ伸びる。

 だから避ける。避けつづける。

 人混みのなかで、誰にも触れずに歩くというのは慣れればそう難しいことではない。二百年もやっていれば体が勝手に避ける。人間のほうもなぜか我々をうまく避けてくれる。あちらもなんとなく近づかないほうがいい何かを感じるのかもしれない。

 私はその日駅の近くで一人の老人が転びかけるのを見た。

 人間の老人だった。段差につまずいて体が前に傾いた。手が宙を探した。

 私はその手を取らなかった。

 取れば支えられた。転ばずに済んだ。だが取ればその老人は死ぬ。数日のうちに心臓か肺か何かが止まる。転んで腕を折るほうがまだましだ。

 老人は転んだ。

 近くにいた若い人間が駆け寄って助け起こした。老人は痛そうにしていたが大事はなさそうだった。腕を少し擦りむいたくらいだ。若い人間が大丈夫ですかと聞いて老人がありがとうと言った。

 私は少し離れたところでそれを見ていた。

 手を取れる者が手を取ればいい。私は取れない。取らない。それでいい。それが正しい。転んだ老人は擦り傷で済んだ。私が手を取っていたら死んでいた。

 正しい。

 正しいのだが、私はその場からしばらく動けなかった。あの男に触れたあとも私は同じように動けなかった。あのときは触れたから動けなかった。今日は触れなかったから動けなかった。

 触れても、触れなくても、動けなくなる。この仕事はどちらに転んでもそういうふうにできている。

   

 その晩電話が鳴った。三回一拍三回。相談だ。私は受話器を取った。

 

「はい死神局総務課」

 

「あのう」若い声だった。こわいと言ったあの子かもしれなかった。

 

「人間と友達になれますか」

 

 私は少し考えた。

 

「なれます」と私は言った。

 

「触れなければ」

 

「触れないで友達になれますか」

 

「なれると思います」と私は言った。

 

「ただ、向こうはたぶんいつか触れようとします。人間はそういう生き物なので。そのときに避けなければなりません。避けたら変な顔をされます」

 

「避けたらどうなるんですか」

 

「傷つけます」と私は言った。

 

「殺さないために傷つけます。そういう仕組みになっています」

 

 電話の向こうは黙っていた。

 

「それでも友達になりたいですか」と私は聞いた。

 

 少しの間があってその子は、はいと言った。

 

「じゃあなってください」と私は言った。

 

「しんどくなったらまた電話してください。総務課はしんどい話を聞く部署です。解決はしませんが」

 

 電話が切れたあと私は隣の空いた席を見た。畳んだ新聞のようなものがまだ置いてある。

 二百年隣にいて私はあの人に一度も触れなかった。触れる必要がなかったからだ。我々は触れなくても隣にいられる。触れなくても二百年同じ部屋にいられる。

 人間にはそれができない。触れないと確かめられない。だからあいつらは握手をして肩を叩いて抱きしめる。触れることでそこにいると確かめ合っている。

 我々は確かめない。確かめないまま隣にいてある朝片方が消える。

 消えたあとで初めて隣にいたのだなと気づく。

 触れなくても隣にはいられる。だが、触れなかったから確かめそこねたものがないとは言えない。あの新聞のようなものを私はまだ捨てられずにいる。

 

 

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