今日から霊夢の残機   作:大体三恵

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第6話 山と水と時間の向こうの向こうの声

 神社へ戻って最初にしたことは、着替えでも、冷たい水を飲むことでもなかった。

 

 居間の机にスマートフォンを置き、覚えていることを時系列に書き出す。

 正確な数字が分からないところには、推測であることを示す印を付けた。見ていないものは書かない。分からないことを、分かったように埋めない。

 

 事故の瞬間を直接見ていなかった以上、私が記録できるのは前後の状況だけだった。

 

 私が道から抜けた直後に事故が起きた。

 道の異常と事故に関連があるのでは?

 

 頭では分けられている。それでも、事故現場で見たものを思い出すと、胸の奥に重たいものが沈んだ。

 偶然かもしれない。

 

 街中で見かけた人間が、少し後に事故現場にいた。それだけなら、人口が多くない地方都市では珍しくない。

 

 問題は、その前に私が同じ道を何度も歩かされていたことだった。

 

 スマートフォンで事故について検索すると、すでにいくつかの投稿が見つかった。地元の話題を扱うアカウント、道路情報を共有する利用者、現場の近くにいたらしい者の写真。救急車や消防車の灯りが、遠くから撮影されている。

 

 最初に目についたのは、事故の規模を心配する投稿だった。

 

 交差点付近で複数台が衝突。道路は通行止め。少なくとも数人が搬送されたらしい。投稿時点では死者の有無は確認されていない。

 その下には、無事を祈る言葉と、渋滞への不満と、現場写真を求める書き込みが並んでいた。

 そこまでは、よくある事故直後の反応だった。

 

 流れが変わったのは、事故車両の一台が映った写真が投稿されてからだった。

 

 前部が大きく潰れた乗用車。その車種と、かろうじて読めるナンバーの一部を見て、何人かが反応している。

 

 この車、前にも見たなど、駅前で煽られたことがあるなど、山道で無理な追い越しをしていた。

 

 最初は事故に便乗した憶測にも見えた。しかし検索範囲を広げると、数か月前の日付の投稿が見つかった。似た車が前方の軽自動車へ異常に接近し、左右へ車体を振っている短い映像だった。

 

 ナンバーは一部しか映っていない。運転手の顔も見えない。それだけなら、今回の事故車両と同じだとは言い切れない。

 

 さらに遡ってみる。

 

 別の利用者が、同じ車種の車に幅寄せされたと書いていた。投稿にはドライブレコーダーの静止画が添えられている。道路の形状から、この街の南側にある幹線道路だと分かった。

 その数週間前には、コンビニエンスストアの駐車場で、他の車の出入りを塞ぐように停車していたという写真がある。

 

 それぞれ単独なら、同じ車種の別人かもしれない。

 

 ただし、車体後部に貼られた小さなステッカー、ホイールの形、ナンバーの見える部分が一致していた。

 

 偶然で片づけるには、少し重なりすぎている。

 

 今回の事故についても、黒い車が速度を落とさず交差点へ進入した、直前まで前方の車へ接近していた、という目撃談が出始めていた。中には運転手の実名らしきものまで書き込まれていたが、それは記録しなかった。確認できない個人情報は、事実ではなく雑音として扱うべきだ。

 

 ただ、以前から危険な運転を繰り返していた可能性は高い。

 

 自業自得。いつかやると思っていた。巻き込まれた人だけが気の毒だ。

 そんな書き込みが目につき始める。

 言葉は次第に強くなり、事故の詳細が分からないうちから、運転手を加害者と決めつける空気ができていた。

 

 その中には、本当に以前被害を受けた人もいるのだろう。しかし、直接関係のない者まで、過去の映像を見つけては罵倒へ加わっている。

 

 それだけで、人はこんなに早く一つの方向へ揃うものだろうか。

 一時的に加熱しているだけか?

 

 SNSとはそういう場所だと、元の仕事でも何度か思い知らされた。企業の不祥事や事故が起きれば、事実関係が判明する前から評価は固定される。過去の投稿、本人の態度、関係者の証言らしきものが掘り起こされ、ひとつの人物像が作られる。

 

 今回も、それだけなのかもしれない。

 けれど、読んでいるうちに妙な感覚が残った。

 

 怒りそのものは理解できる。煽り運転を受けた人が腹を立てるのも当然だ。巻き込まれた被害者を思えば、運転手への批判も避けられない。

 

 それでも、言葉が少し強すぎる。

 

 怒るための理由を探しているというより、怒りが先にあり、それを向ける相手を見つけたように見えた。

 

 スマートフォンを伏せ、考えすぎかもしれないと頭を冷やす。

 

 私は今日、説明のつかない道へ迷い込み、その直後に大事故を見た。通常なら無関係として処理する出来事にも、関連を求めたくなっている可能性がある。

 危機管理では、異常を見落とすことと同じくらい、無関係な情報を結びつけることも危険だった。

 だが、放置もできない。

 

 紫へ連絡する必要がある。

 

 問題は、こちらから連絡する方法を教えられていないことだった。

 

 電話番号も、メールアドレスもない。幻想郷で会っていた頃から、紫は必要な時に現れ、必要がなくなれば消えるだけだった。

 連絡先を交換しようという発想そのものが、あの妖怪にはないのだろう。

 

 一応、スマートフォンの連絡先を開き、検索欄へ八雲紫と入力してみた。

 やはり何も出ない。

 思っていた通りだったが、残念だ。

 

 次に、紫が最初に現れた部屋へ向かった。

 襖を開ける。押し入れを見る。天井裏へ通じる場所がないか確かめる。壁を軽く叩き、音の違いを探す。

 馬鹿なことをしている自覚はあった。しかし、相手が隙間から現れる妖怪である以上、通常の連絡方法だけを考えても意味がない。

 

 部屋の中央に立ち、名前を呼ぶ。

 

「八雲紫」

 

 返事はない。

 

「紫さん」

 

 蝉の声だけが聞こえた。

 

「聞こえているなら出てきてください」

 

 畳の上に、細い光の筋さえ現れない。

 次は拝殿へ移った。

 神社にいるなら、神社らしい方法を試すべきかもしれない。

 

 問題は、正式な作法を私が十分に知らないことだった。

 

 幻想郷にいた頃、霊夢の仕事を手伝ったことはある。掃除、供物の準備、参拝者への対応。祝詞らしいものを聞いたこともある。

 

 しかし、聞いたことがあるのと、正しく奏上できるのは別だった。

 

 覚えている範囲で姿勢を整え、神前へ向かう。

 

 誰へ呼びかけるべきなのか分からない。

 

 この神社の祭神か、この土地の神?

 あるいは、神社を通路として利用している紫か?

 

 私はできるだけ簡潔に、起きたことを口にした。

 

「本日、市街地で異常な現象を確認しました。同一地点へ繰り返し戻される、空間または認識への干渉と思われます。その直後、近隣で複数車両が関係する事故が発生しました。両者の関連は不明です」

 

 返事はない。

 

「八雲紫に連絡を取りたいのですが、方法がありません。聞こえているなら、取り次いでください」

 

 風が拝殿を抜け、紙垂を揺らす。

 それだけだった。

 どうやら、神様へ業務連絡を取り次いでもらうという発想は間違っていたらしい。

 

 私は息を吐き、神前を離れかけた。

 

 その時、最後に一つだけ思いついた。

 

「霊夢に関係することです」

 

 空気が裂けた。

 

 拝殿の隅に、目のようなものがいくつも浮かぶ。紫色の布地にも似た隙間が開き、その向こうから八雲紫が顔だけを覗かせていた。

 

「呼んだかしら」

 

「聞こえていたんですね」

 

「今、聞こえたのよ」

 

「嘘でしょう」

 

「疑い深い人ね」

 

 紫は扇子で口元を隠しながら、拝殿の中を見回した。身体の半分も隙間から出ていない。こちらへ来るつもりではなく、用件だけ聞いて帰る姿勢だった。

 

「街で異常が起きました。同じ道を何度も歩かされ、その直後に交通事故が発生しています」

 

「そう」

 

「そう、で終わらせないでください」

 

「外の世界では、交通事故は珍しくないでしょう」

 

「それはそうですが、迷わせる道の方は珍しいです」

 

「あなたが迷っただけではなくて?」

 

「私は普段、あの程度の道では迷いません」

 

「身体が変わって、感覚も変わったのかもしれないわね」

 

 取り合う気がない。

 紫は私が見たものを否定しているのではなく、自分が関与する理由を探していないのだ。

 

「事故の前に、異常な場所から抜けました。関連している可能性があります」

 

「可能性でしょう?」

 

「確認が必要です」

 

「なら、確認すればいいじゃない」

 

「私にやらせるんですか」

 

「あなたは外の世界の人間でしょう。しかも、そういうことを調べる仕事をしていた」

 

「企業の危機管理です。怪異調査ではありません」

 

「似たようなものよ。原因が分からない危険を見つけて、被害が広がる前に対処するのでしょう?」

 

 雑な分類だった。

 しかし、完全に間違っているとも言えないのが腹立たしい。

 

「あなたは原因を知っているんですか」

 

「知らないわ」

 

「本当に?」

 

「私が外の世界のすべてを知っていると思わないことね」

 

 紫は珍しく、少しだけ真面目な口調になった。

 

「それに、ここは博麗神社よ。幻想郷の博麗神社ではないけれど、何もない土地に形だけ置いたわけでもない。この山にはこの山のものがいて、この土地にはこの土地の理がある」

 

「土地神ですか」

 

「そう呼んでも構わないでしょうね」

 

「会ったことは?」

 

「ないわ」

 

 意外な回答だった。

 

「え? ないんですか」

 

「眠っているものを、わざわざ起こす趣味はないもの」

 

 紫なら当然知っていると思っていた。

 

 だが、よく考えれば、彼女は境界を操る妖怪であって、日本中の神を管理しているわけではない。

 

「どうすれば接触できますか」

 

「神社のことは、巫女に聞けばいいでしょう」

 

「その巫女の身体にはなりましたけど、説明書は付いていません」

 

「便利な身体なのだから、自分で試してみなさい。なにごとも挑戦よ」

 

「挑戦を無条件に良いことをするのは危険です。危険性の評価もできていません」

 

「だから面白いのでしょう?」

 

「私の信条とは添いません」

 

「そう……」

 

 紫は少しも悪びれなかった。

 

「待ってください。少なくとも、霊夢に影響がないか確認してください」

 

「今のところ、残機は三つとも無事よ」

 

「そうではなく、この街の異常が幻想郷側へ影響する可能性です」

 

「今すぐ問題になるほどではないわ」

 

「今すぐ、ということは、将来的にはあるんですか」

 

「何でも可能性だけならあるでしょう」

 

 隙間が閉じ始めた。

 

「紫さん」

 

「外の世界のことは、まず外の世界で片づけなさい。こちらへ漏れてきたら、その時は考えるわ」

 

「連絡手段くらい置いていってください」

 

「必要なら、また呼びなさい」

 

「霊夢の名前を出さないと来ないでしょう?」

 

「よく分かっているじゃない。ふふ……」

 

 最後に目だけが残り、それも瞬きとともに消えた。

 静かになった拝殿で、私はしばらく閉じた空間を睨んでいた。

 付き合いが悪い人……人じゃないけど、付き合いが悪い方だ。

 

 知っていたけれど、改めてそう思う。

 

 ただし、何の情報も得られなかったわけではない。

 この土地には、この土地の神がいる。

 

 紫は接触していないというが、確かにいるようだ。

 

 少なくとも現時点で、幻想郷側への明確な影響は確認されていない。

 そして私は、自分で調べろと言われた。

 最後の一つだけは、言われるまでもなかった。

 

 拝殿と本殿を改めて確認した後、社務所に残されていた古い書類や道具を調べた。祭事の記録らしい冊子はあったが、湿気と虫食いで読めない部分が多い。土地神への呼びかけ方を記した分かりやすい手引きなど、当然ながら見つからなかった。

 

 ただ、山中の略図に、小さな滝を示す印があった。

 

 境内からさらに山へ入った場所。神社の管理地に含まれているらしい。

 滝と禊と巫女。

 我ながら安易で単純な連想だが、他に手掛かりがない。

 

 日が傾く前に、私は山へ入った。

 

 道と呼べるものは途中で細くなり、最後には獣道と区別がつかなくなった。地図を確認しながら進むと、木々の向こうから水音が聞こえ始める。

 

 滝というほど大きくはなかった。

 岩肌を流れ落ちる水が、下の浅い淵へ注いでいる。人が立てる程度の場所はあり、近くには古びた石がいくつか並んでいた。

 祭祀の跡かもしれない。

 私は周囲を確認した。

 

 崩れやすい岩はないか。水深はどの程度か。足場は滑らないか。携帯電話の電波は届くか。

 

 電波は…………かなり弱い。

 これでは人を呼んでも、すぐには来ない。

 単独で行うには条件が悪い。

 

 だが、危険を避けるために何もしなければ、次の事故が起きる可能性が残る。

 

 できないことはしない。

 分からないことは、分からないままにしない。

 今回は、まだ何も分かっていない。

 

 だから、最低限だけ試す。

 くやしいけど、紫の言う通りなにごとも挑戦だ。

 

 水へ入ると、夏とは思えないほど冷たかった。足首から膝、腰へ水位が上がるたび、身体が強張る。

 

 巫女服では来なかった。濡らした後の処理が面倒だからだ。買ったばかりの服を脱ぎ、持っていた浴衣とも違う簡素な白衣に着替えている。

 

 これが正しい装束なのかは分からない。

 そもそも、滝へ打たれる必要があるのかも分からない。

 

 知識不足がひどいな。

 

 私は後悔に似た自嘲をしつつ、岩の下へ立った。

 

 ──冷たっ!

 

 水が肩へ落ちた瞬間、息が止まった。

 予想していたより、ずっと冷たい。

 呼吸を整えようとしても、身体が勝手に震える。霊夢の身体が頑丈でも、冷水を温水へ変えてくれるわけではない。

 夏だからと油断をしていた。

 湧水がこれほど冷たいとは…………。

 でも、()()()()()()()

 

 危険はともかく、数秒で出たくなった。

 

 それでも姿勢を保ち、目を閉じる。

 

 誰へ向ければよいか分からないまま、言葉を選ぶ。

 

「この土地にいるものへ。今日、街で異常が起きました。道が人を閉じ込め、その近くで事故が起きています。あなたが関係しているなら、説明してください。関係していないなら、知っていることを教えてください」

 

 水音にかき消され、自分の声さえよく聞こえない。

 

 特に反応も変化もなかった。

 

 もう一度繰り返すが何もない。

 

 冷えが指先から腕へ広がる。

 これ以上続ければ、儀式以前に体調を崩す。私は時間を数え、切り上げる判断をした。

 

 やはり、やり方が違う。

 

 滝から外れようと、片足に重心を移動させた……その瞬間だった。

 

 水の感触が変わった。

 それは冷たさや流れでもない。外的な触覚とは違う。

 皮膚ではなく、もっと内側へ、何かが触れた。

 

 私ではないものが、こちらを見つけた。

 

 そう理解した時には、足元の水面が、風もないのに二つへ割れていた。

 

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