慰謝料代わりに「出る」お城を頂きました ~不出来な妻と呼ばれたわたし、幽霊のみなさんの未練を聞き届けます~ 作:aquali
「お前のような不出来な妻に、払う金などない!」
応接間の長椅子で、夫――いえ、たった今、元夫になった人が脚を組み替えた。
ロンバルト伯爵家の応接間は、今日も塵ひとつない。磨かれた銀器、活けたばかりの薔薇、仕立て下ろしのカーテン。薔薇の香りは客のためのもので、この部屋で私に割り当てられていたのは、三年前に嫁いできた日から変わらず、いちばん陽の当たらない隅の椅子である。
「三年待った。だが君はとうとう、社交界でわたしの隣に立てる妻にはならなかった」
「はあ……」
「返事はそれだけか? まぁ……君は何も悪くない。ただ、絵にならないんだ」
なるほど。三年間の結婚生活の総括が「絵にならない」。簡潔で、覚えやすい。私は膝の上で指を組み、いつものように相槌だけを打った。この屋敷で私が磨いた特技は、繕い物と相槌である。夜会に出れば「地味な奥方」と扇の陰で笑われ、屋敷にいれば「気の利かない嫁」と吐息をつかれ、三年、値踏みの視線だけを浴びてきた。悲しくないのか、と胸に訊いてみる。返事は、ない。雑巾を絞りきったあとのように、そこはとうに乾いている。この屋敷に私の名を呼ぶ人はいないと気づいたのは、二年目の春だった。怒るには、この家の空気は乾きすぎている。泣くには、たぶん遅すぎた。
扉の向こうの廊下から、鈴を転がすような笑い声が届いた。金の巻き毛のご令嬢が、もう屋敷の采配について執事と話している。次の女主人は、なるほど華やかで、絵になる人だ。
離縁状の隣に、執事が盆を置いていく。載っているのは金貨ではなく、黄ばんだ一枚の権利書だった。
「……え? グレイフォード城。……あの、『出る』というお城ですか?」
「不服か」
「いいえ。家賃がなさそうで、何よりです」
元夫ダリウス様の口の端が、勝ち誇ったように吊り上がる。あの城は、長いこと誰ひとり住みつけたことがない。買い手もつかず、税と管理費だけを食む厄介者――それを「慰謝料」と呼ぶ厚顔が、いっそ清々しい。
「せいぜい、幽霊どもと仲良くやるといい」
「ええ。そうします」
社交辞令ではなく本気で答えたのに、元夫は鼻で笑っただけだった。
◇
辻馬車の御者は、日暮れ前だというのにグレイフォード城の門前へ荷を下ろすなり、振り返りもせず走り去った。荷物は
晩秋の風が、丘をひとつ丸ごと覆う
押した門扉は、存外すなおに開いた。
玄関広間は白布を被った家具の群れで、埃と、古い蝋と、乾いた石の匂いがする。天井は礼拝堂のように高く、私の足音だけがよく響いた。息を吸うと、肺の奥まで冷たい。けれど不思議と、嫌な冷たさではなかった。誰の視線もない。誰も、私を値踏みしない。肩から、覚えのない力が抜けていく。三年間、私はずっと、誰かの視界の中で背筋を張っていたらしい。
目の奥が、ふいに熱くなる。離縁状の前では乾いていたくせに、勝手なものである。誰も見ていないのをいいことに、高い天井を見上げて、埃の匂いを胸の底まで吸い込んだ。
白布の隙間から、埃をかぶった姿見が覗いていた。癖のある亜麻色の髪、鼻の頭のそばかす、くたびれた旅装の女がひとり、曇った鏡面の向こうからブラウンの瞳でこちらを見ている。「絵にならない」と言われた顔である。――結構。ここには額縁も、観客もいない。
暖炉には古い薪が残っていて、火を入れると、部屋の影がやわらかく揺れ始める。パンと干し肉の簡単な夕食を済ませ、毛布にくるまって火の前に落ち着いた。薪の爆ぜる音。窓の外の風。三年ぶりに、耳が静けさというものを思い出していく。
――その真夜中である。
燭台が、すう、と宙に浮いた。
空気がひやりと下がり、白布がいっせいに膨らむ。暖炉の残り火が青ざめ、吐く息が白くなる。廊下の奥から、錆びた金属の軋む音が近づいてくる。壁からは白い髭の老人が上半身だけを生やして、水の底から響くような、くぐもった声で言った。
「出ていけぇぇ……」
「お断りします」
私は平然と言い放つ。
「……な、なぜじゃ」
「行く当てもないので」
「そんなの宿に泊まればよかろう!」
「そんなお金もったいないわ」
壁の老人が、ひげを震わせたまま固まる。宙の燭台は所在なげに揺れ、鎧の軋みは廊下を三往復目に入った。脅かし方の手順が、崩れたらしい。
怖くないのか、と問われれば、怖くないのである。悪意なら三年、もっと上等なのを浴びてきた。扇の陰の笑いは骨まで冷えたが、この寒さは肌までしか来ない。私のためにこんなに一生懸命な人たちは、初めてだ。
「で、出ていかんと、その、祟るぞ」
「祟りより、そちらの鎧です。軋んで眠れないので、油を差してくださいな」
返事はなく、老人は壁へ沈んでいった。軋みだけが、夜通し続く。ぎ、ぎい、と規則正しく――どうにも、泣き言のように聞こえる音である。困っているのに、誰にも言えない。そういう音なら、聞き分けられる。三年、胸の奥で鳴っていた音だから。
夜明け前、私は諦めて起き上がり、厨房で油壺と布切れを見つけてきた。廊下の隅に立つ古い甲冑の、関節という関節に油を差していく。
「動かないでいてくださいね。差しにくいので」
肘、膝、腰当て。油の匂いが指先に移り、ひとつ関節が黙るたび、城の夜がひとつ深くなる。窓の外は夜明け前のいちばん暗い藍色で、燭台の小さな火だけが、私と甲冑のまわりに丸い明かりを張っている。最後の関節を終えると、あたりは初めて、しんと静まった。
「……かたじけない」
遠く、掠れた男の人の声がした。
「どういたしまして。おやすみなさい」
毛布に戻って目を閉じる。悪くない挨拶だ、と思う。三年間、あの屋敷で聞いたどの言葉より、よほど。「かたじけない」のひと言が、胸のいちばん乾いたところに落ちて、雨の最初のひと粒のように滲みていく。眠りに落ちる間際、口元が緩んでいたけれど、直さずにおいた。誰も見ていないのだから。
――翌朝。廊下の甲冑は、胸に手を当てる騎士の礼の姿勢で直立していた。
この城、家賃の代わりに何かを要求してくる気がする。まあ、いいか――。