「不出来な妻はいらない」と離縁されたので、幽霊城でお化けファミリーと暮らします ~家賃なし、家族つきのモンスター☆コメディ~ 作:aquali
朝の光で見ると、礼の姿勢で固まった甲冑は、なかなかの年代物だった。
胸当てには剣の傷が幾筋も走り、兜には拳ほどの凹みがある。飾りの甲冑ではない。誰かを守って、打たれて、それでも立っていた鎧の傷だ。そして全身、見事なまでの錆である。
「せっかく油を差したのに、錆で台無しですね。磨きますよ」
返事の代わりに、兜がわずかに揺れた。了解、と受け取ることにする。
白布を裂いた磨き布と、暖炉の灰。窓を開けると晩秋の朝の匂いが流れ込み、埃が光の帯の中で躍った。錆はしつこく、指先はすぐ黒くなり、爪の間が冷えて痛む。それでも灰で擦った胸当ては、少しずつ
磨きながら、傷を数えた。右肩から胸へ
作業のあいだ、私は独り言のように話しかけ続けた。相手が答えなくても、間だけは持つ。三年で身についた芸である。あの屋敷では壁に向かって喋るのと同じことだったが、この城の壁は、ときどき本当に返事をするから張り合いがある。
「昨夜のあの歩き回り、毎晩ですか?」
「…………」
「道順が、いつも同じでしたね。玄関、東の廊下、階段、西の窓、また玄関」
ぴし、と鎧が鳴った。図星の音というものを、初めて聞く。
「……まわり、が」
水底の声より、少しだけ近い。掠れて、途切れて、それでも言葉だった。
「見回り? 巡回、ですか?」
「じゅんかい……おわって、おらぬ」
切れ切れの言葉を、繕い物のように縫い合わせていく。この鎧の主は、毎晩巡回をしている。百年間、一晩も欠かさず。けれど巡回は、どうしても終わらないのだという。最後の締めが、まだだから。
「最後の締めとは、何です?」
「もん、の……
なるほど。門の閂を挿す前に、この人の夜は途切れたのだ。何があったのか尋ねても「おぼえて、おらぬ」と掠れるばかりで、名前を尋ねれば、長い長い沈黙のあとに「……わからぬ」と返った。自分の名前が、わからない。その声があまりに静かだったので、私はそれ以上掘らなかった。代わりに、提案をする。
「では今夜、ご一緒しましょう。締めまで」
鎧が、がしゃりと背筋を伸ばした。
――――。
夜。燭台を持つ私の前を、甲冑がゆっくり歩く。
玄関、東の廊下、階段、西の窓。窓の掛け金をひとつずつ検め、扉の
途中、西の窓の前で、甲冑が一度だけ長く足を止めた。眼下には荒れ果てた庭が月に照らされ、伸び放題の茨が石畳を呑んでいる。何を見ているのか尋ねかけて、やめた。見ているのではなく、思い出せないのだと、佇まいで分かったからである。
最後が、正門である。
閂は
「わたしが挿します。位置の検分をお願いします」
横木は腕に食い込むほど重く、二度落としかけた。三度目でようやく受け金に納まり、どん、と城全体の骨に響く音がする。手のひらがじんと痺れた。樫の木は夜気を吸って冷たく、受け金の鉄の匂いが、指先に薄く残る。たかが閂ひとつ、である。けれどその「たかが」を、この人は百年、誰にも頼めなかったのだ。まだ痺れている手のひらが、妙に誇らしい。
「――よし」
その一言は、掠れていなかった。
振り向くと、甲冑の輪郭に淡い光が重なっていた。錆びた鎧の中に、目元の優しい、髭の中年騎士の顔がある。半分透けて、けれど確かに、こちらを見て破顔している。
「ガレン。……わたしの名は、ガレンである。思い、出した」
「ガレンさん。巡回、お疲れさまでした」
「うむ。本日、異常なし――異常なし、である!」
百年ぶりの報告に、受け取る相手がいる。ただそれだけのことで、騎士の霊は同じ言葉を三度繰り返し、そのたび胸を張った。名前を呼ばれ、報告を受け取ってもらえる。それがどれほどのことか、私は少しだけ知っている。この三年、私を名前で呼ぶ人は、あの屋敷にいなかった。君、お前、奥方――呼ばれ方はいろいろあれど、どれも、中身が私でなくても困らない呼び名だ。だから三度とも、きちんと頷いた。三度目には目の縁が熱くなって、夜明け前の暗さにひそかに感謝する。東の空はいつのまにか白み始めていて、百年目の「異常なし」は、その薄青の光の中で、少しばかり誇らしげに響くのである。
翌日の昼である。麓の村から少年がひとり、青い顔で駆けてきて、門の外から書付を投げ込むなり逃げていった。蝋印は、神殿のもの。村の司祭を経由した、正式な通達である。
いわく――霊域調査官、ルーカス・ブラント。近日、当該城の調査に赴く。
背後で、ぴし、と空気の張り詰める音がした。振り向けば、昨日あんなに胸を張っていた甲冑が、心なしか縮こまって見える。燭台は棚の陰に隠れ、壁からは誰も出てこない。見ているこちらの胸の奥が、すう、と冷えていく。
――神殿。この城の皆さんは、その言葉に、ひどく怯えるらしい。