「不出来な妻はいらない」と離縁されたので、幽霊城でお化けファミリーと暮らします ~家賃なし、家族つきのモンスター☆コメディ~   作:aquali

2 / 9
2. 鎧には油を、騎士には巡回を

 朝の光で見ると、礼の姿勢で固まった甲冑は、なかなかの年代物だった。

 

 胸当てには剣の傷が幾筋も走り、兜には拳ほどの凹みがある。飾りの甲冑ではない。誰かを守って、打たれて、それでも立っていた鎧の傷だ。そして全身、見事なまでの錆である。

 

「せっかく油を差したのに、錆で台無しですね。磨きますよ」

 

 返事の代わりに、兜がわずかに揺れた。了解、と受け取ることにする。

 

 白布を裂いた磨き布と、暖炉の灰。窓を開けると晩秋の朝の匂いが流れ込み、埃が光の帯の中で躍った。錆はしつこく、指先はすぐ黒くなり、爪の間が冷えて痛む。それでも灰で擦った胸当ては、少しずつ鈍色(にびいろ)の光を取り戻していった。曇った鏡を拭くのに似ている。中から、別の時間が覗いてくる。白い息が朝の光に混ざって、埃と一緒にゆっくり渦を巻いた。指はかじかむのに、胸のどこかだけ、妙にあたたかい。

 

 磨きながら、傷を数えた。右肩から胸へ袈裟(けさ)に走る一筋。籠手(こて)の甲に集中する細かい刃の痕。どれも前から受けた傷で、背中側には、ひとつもない。この鎧の主は、逃げなかった人だ。誰かの前に立って、立ったまま、終わった人だ。私はといえば、逃げも刃向かいもせず、隅の椅子で三年、上手に置物をしていた口である。だからこの傷の並びが、少し眩しい。灰まみれの指先が、少しだけ丁寧になる。

 

 作業のあいだ、私は独り言のように話しかけ続けた。相手が答えなくても、間だけは持つ。三年で身についた芸である。あの屋敷では壁に向かって喋るのと同じことだったが、この城の壁は、ときどき本当に返事をするから張り合いがある。

 

「昨夜のあの歩き回り、毎晩ですか?」

 

「…………」

 

「道順が、いつも同じでしたね。玄関、東の廊下、階段、西の窓、また玄関」

 

 ぴし、と鎧が鳴った。図星の音というものを、初めて聞く。

 

「……まわり、が」

 

 水底の声より、少しだけ近い。掠れて、途切れて、それでも言葉だった。

 

「見回り? 巡回、ですか?」

 

「じゅんかい……おわって、おらぬ」

 

 切れ切れの言葉を、繕い物のように縫い合わせていく。この鎧の主は、毎晩巡回をしている。百年間、一晩も欠かさず。けれど巡回は、どうしても終わらないのだという。最後の締めが、まだだから。

 

「最後の締めとは、何です?」

 

「もん、の……(かんぬき)

 

 なるほど。門の閂を挿す前に、この人の夜は途切れたのだ。何があったのか尋ねても「おぼえて、おらぬ」と掠れるばかりで、名前を尋ねれば、長い長い沈黙のあとに「……わからぬ」と返った。自分の名前が、わからない。その声があまりに静かだったので、私はそれ以上掘らなかった。代わりに、提案をする。

 

「では今夜、ご一緒しましょう。締めまで」

 

 鎧が、がしゃりと背筋を伸ばした。

 

――――。

 

 夜。燭台を持つ私の前を、甲冑がゆっくり歩く。

 

 玄関、東の廊下、階段、西の窓。窓の掛け金をひとつずつ検め、扉の蝶番(ちょうつがい)に耳を澄ませる。窓ごとに月の位置が変わり、私たちの影が伸びたり縮んだりした。甲冑の歩幅は広いのに、私の速さに合わせて、律儀に半歩ずつ待ってくれる。燭台の火が石壁に円い光を投げ、足音は、重いのがひとつ、軽いのがひとつ。夜の城は冷えるのに、この並びの寒さは、少しも嫌ではない。守られながら歩くというのは、こういう感じか、と思う。三年間、夜道はいつも一人だった。夜会の帰り、馬車を降りて玄関までのわずかな道のりさえ、である。誰かの半歩あとを行く夜が、こんなにあたたかいものだとは。教わる相手が百年前の甲冑だというのが、われながらおかしい。

 

 途中、西の窓の前で、甲冑が一度だけ長く足を止めた。眼下には荒れ果てた庭が月に照らされ、伸び放題の茨が石畳を呑んでいる。何を見ているのか尋ねかけて、やめた。見ているのではなく、思い出せないのだと、佇まいで分かったからである。

 

 最後が、正門である。

 

 閂は(かし)の太い横木だった。幽霊は重い物を動かせないらしく、甲冑の籠手が横木の上を何度も、すかすかと空を切る。百年、この人はここで、毎晩こうしていたのだろう。届かない横木の前で、明け方まで。

 

「わたしが挿します。位置の検分をお願いします」

 

 横木は腕に食い込むほど重く、二度落としかけた。三度目でようやく受け金に納まり、どん、と城全体の骨に響く音がする。手のひらがじんと痺れた。樫の木は夜気を吸って冷たく、受け金の鉄の匂いが、指先に薄く残る。たかが閂ひとつ、である。けれどその「たかが」を、この人は百年、誰にも頼めなかったのだ。まだ痺れている手のひらが、妙に誇らしい。

 

「――よし」

 

 その一言は、掠れていなかった。

 

 振り向くと、甲冑の輪郭に淡い光が重なっていた。錆びた鎧の中に、目元の優しい、髭の中年騎士の顔がある。半分透けて、けれど確かに、こちらを見て破顔している。

 

「ガレン。……わたしの名は、ガレンである。思い、出した」

 

「ガレンさん。巡回、お疲れさまでした」

 

「うむ。本日、異常なし――異常なし、である!」

 

 百年ぶりの報告に、受け取る相手がいる。ただそれだけのことで、騎士の霊は同じ言葉を三度繰り返し、そのたび胸を張った。名前を呼ばれ、報告を受け取ってもらえる。それがどれほどのことか、私は少しだけ知っている。この三年、私を名前で呼ぶ人は、あの屋敷にいなかった。君、お前、奥方――呼ばれ方はいろいろあれど、どれも、中身が私でなくても困らない呼び名だ。だから三度とも、きちんと頷いた。三度目には目の縁が熱くなって、夜明け前の暗さにひそかに感謝する。東の空はいつのまにか白み始めていて、百年目の「異常なし」は、その薄青の光の中で、少しばかり誇らしげに響くのである。

 

 翌日の昼である。麓の村から少年がひとり、青い顔で駆けてきて、門の外から書付を投げ込むなり逃げていった。蝋印は、神殿のもの。村の司祭を経由した、正式な通達である。

 

 いわく――霊域調査官、ルーカス・ブラント。近日、当該城の調査に赴く。

 

 背後で、ぴし、と空気の張り詰める音がした。振り向けば、昨日あんなに胸を張っていた甲冑が、心なしか縮こまって見える。燭台は棚の陰に隠れ、壁からは誰も出てこない。見ているこちらの胸の奥が、すう、と冷えていく。

 

 ――神殿。この城の皆さんは、その言葉に、ひどく怯えるらしい。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。