「不出来な妻はいらない」と離縁されたので、幽霊城でお化けファミリーと暮らします ~家賃なし、家族つきのモンスター☆コメディ~ 作:aquali
調査官が来る朝、城は静かに騒然としていた。
燭台は棚の奥へ引っ込み、壁のご老人は日の出から一度も顔を出さず、ガレンの甲冑は廊下の隅で置物のふりに徹している。皆さん、息を潜めて「いない振り」をする気らしい。幽霊が息を潜める、という言い回しの矛盾については、考えないことにする。ただ、その静けさは昨夜までの静けさと違って、指先の冷えに似た硬さがあった。怯え、という種類の静けさである。
昼前、森を抜けてきたその人は、門の前で馬を降りた。
大柄で、少し猫背。白銀の制服外套は枝葉だらけで、鞍には剣より重そうな荷袋が括られている。強面の造作のわりに、目が犬に似ていた。番犬というより、雨の日に軒先へ入れてもらえない大型犬のほうである。
「霊域調査局のルーカス・ブラントである。……人の住めぬはずの城に人が住み始めた、と村の司祭から報せがあった。規定により、霊域の調査を行う」
「アメリアです。住んでいます。……あの、快適ですが」
「快適?!」
調査官どのは、その一語をそのまま書字板に書き留めそうな顔で復唱した。人の住めぬはずの城の住人が、開口一番に言う言葉ではなかったらしい。それはそうと、名乗ってから気づいたことがある。伯爵夫人でも、男爵家の娘でもなく、ただのアメリアとして名乗ったのは、初めてかもしれない。存外、悪くない響きである。
調査官どのは広間の中央に立ち、儀式を始めた。祭文の巻物を広げ、聖水の器を掲げ、岩を擦り合わせるような低い声で口上を唱える。
――そこからが、ひどかった。
風もないのに祭文の頁がぱらぱらとめくれ、唱えるべき節の、先の先まで勝手に開いてしまう。調査官どのが頁を戻す。頁がまた先へめくれる。戻す。めくれる。無言の攻防が三度続き、彼の眉間の皺が一本増えた。足元の儀式用の蝋燭には、彼が
極めつけは聖水である。器に指を浸した調査官どのが、動きを止めた。
「……温い」
「朝は冷えましたから。冷たい水は、体に障ると」
「霊が、聖水を、温めたと?」
「みなさん、世話焼きなんです」
除霊は、成立しなかった。祓う対象の悪霊が、祓う側の支度を手伝ってしまうと無効化されるようである。調査官どのは長いこと祭文と蝋燭と聖水を順に見比べ、それから諦めたように巻物を仕舞った。怒るでもなく、ただ、困った犬の顔である。
「ひとつ、確認したい。……夜、眠れているか? 物が飛ぶか? 害を、受けたことは?」
「よく眠れています。飛ぶのは燭台ですが、お茶を運んでくれるだけです。害というなら、鎧の軋みがうるさかったので、油を差しました」
「…………そうか」
彼の質問は、脅かしの派手さではなく、住人の困りごとばかりを訊いた。祓う気で来た人の訊き方では、ない気がする。
聞き取りには、ありのままを答えた。毎晩決まった道順を巡回する騎士の霊がいて、名をガレンという。壁から説教をする、先代城主らしきご老人がいる。燭台が茶器を運ぶ。針山のそばで、誰かが泣いている――。
調査官どのは黙って聞いていた。話の腰を折らず、目も逸らさず、値踏みもしない。人の話をこういうふうに聞く人を、私は久しぶりに見た。話しているうちに、自分の声から、よそゆきの丁寧さが剥がれていくのが分かる。三年かけて縫い上げた「そつのない奥方」という鎧が、継ぎ目から勝手に緩んでいくのである。聞き終えると、書字板にたった一行だけ書く。逆さからでも読めた。「経過観察」。
「疑わないんですね。作り話だとは」
「あなたの話には、癖と、名前と、困りごとがある。……人を脅すための作り話は、そうならない」
それと、と彼は付け足して、初めて私の顔をまともに見た。
「話すあいだ、目が動かなかった。嘘を運ぶ目は、もっと忙しい」
妙な褒められ方である。地味だ、絵にならないと値踏みされたことは数あれど、目の忙しさを検分されたのは初めてだ。褒め言葉の受け取り方は、三年、稽古する機会がなかった。結局、頬の内側を軽く噛んで、どうも、とだけ返す。耳の縁だけが、勝手に熱かった。
それから彼は、ひとりごとのように付け加えた。
「昔――名を知る前に、焼かせたことがある」
低い声の、その一言だけ。謝る相手を、とうに失くした声である。どういう意味か訊く前に、彼は立ち上がっていた。てっきり帰るのかと思えば、向かった先は裏庭の薪小屋である。斧を借りるぞ、と言うなり、外套を脱いで薪を割り始めた。
「あの、調査は?」
「調査には、燃料がいる。この城は、冬を越すには薪が足りん」
かん、と乾いた音が晩秋の空に抜ける。割られた薪は面白いほど素直に二つになり、みるみる積み上がっていった。窓という窓の内側で、白布や燭台や甲冑が、じっとその背中を検分している気配がする。値踏みというより、品定めである。嫁ぎ先の三年間で浴びたそれより、ずっと温度が高い。斧の音の合間に小鳥が二度鳴いて、晩秋の薄い陽の下、薪の山の周りにだけ、日向の匂いが濃くなっていった。
日暮れ、彼が辞するとき――玄関から門まで、廊下の甲冑が、がしゃり、がしゃりと私の斜め後ろをついてきた。
私が閂を外し、重い扉を引く。そのあいだ甲冑は門柱の脇に直立し、胸に籠手を当てていた。門番の、見送りの礼である。重い物は持てなくても、礼は百年、錆びていない。調査官どのは目を丸くして甲冑を見上げ、それから誰へともなく、生真面目に一礼して帰っていった。外套の背中には、薪の欠片がひとつ乗ったままである。あれは当分、誰にも指摘されないだろう。
その夜である。針山のそばで、また、すすり泣きが聞こえた。
燭台の明かりで裁縫籠を覗くと、錆びた針が一本、糸も通らぬまま転がっている。針仕事なら、わかる。あの屋敷で、私の手がいちばん確かでいられたのは、針を持つあいだだけだった。針目の中には、値踏みの視線も届かないからである。だから、錆びた針のそばで泣く声が、他人の声には聞こえない。私は針を研ぎ、糸を通し、小皿の上に横たえておいた。研ぎたての針の先が、燭台の火を映して、小さな星になる。
すすり泣きは、その晩、初めて安らかに止んだ。
朝、使った覚えのない針が一本、行儀よく針山に戻っていた――。