慰謝料代わりに「出る」お城を頂きました ~不出来な妻と呼ばれたわたし、幽霊のみなさんの未練を聞き届けます~   作:aquali

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4. 名前を忘れたメイドさん

 すすり泣きの主は、夜にしか現れない。

 

 燭台の明かりの端、裁縫籠のそばに、若草色の布を撫でる影がある。輪郭は煙のようで、顔には(もや)がかかったよう。ただ、布を撫でるその手つきだけが、驚くほど確かだった。皺を伸ばし、ほつれを確かめ、針目を数える。指の運びに迷いがない。あれは、きちんと仕事を仕込まれた手である。

 

「繕いかけ、ですか?」

 

 影が、びくりと縮んだ。煙の端が乱れ、逃げ出しそうに揺れて、それでも布からは離れない。私は裁縫籠を挟んで、床に腰を下ろした。急かさない。待つことと相槌には、それなりの自負がある。暖炉の火が、古い絨毯の縁をゆらゆらと照らし、燭台の芯が時おり小さく鳴った。夜の城の静けさが、そのまま待ち時間の器になる。待つのは、得意である。呼ばれない客間で、三年、稽古を積んだ。ただ、誰かのために待つ時間には、こんなに温度があるものらしい。

 

 暖炉の薪が一度崩れるほどの間をおいて、影は、ぽつり、ぽつりと喋った。これは上着。男物の、若草色の上着。袖口が破れている。繕い終えていない。終えなくては、いけないのに――針が錆びて、百年、持てなかった。

 

「昨日の針なら、研いであります。ご一緒に、いかがです?」

 

 私が布を押さえ、影が針を運ぶ。幽霊は軽い物なら動かせるらしく、針はすい、すいと確かな針目を刻んでいった。燭台の火が揺れるたび、若草色の布の上を小さな影がまたたく。私の役目は布を繰ることと、糸を替えることと、話を聞くことである。針の音が、ふたつ。私のと、彼女のと。真夜中の縫い物がこんなに賑やかなものだったとは、三年間ひとりで針を持っていた頃には、知らなかった。隠れ場所だった針が、今夜は、人と人を繋ぐ糸を運んでいる。道具は同じでも、使い道はこんなに変わるのである。

 

「袖口のこの破れ、犬ですね。噛み跡の形がある」

 

「……犬。そう、犬が、いたんです。門のところに。この上着の方に、いちばん懐いて」

 

「この上着の方?」

 

「わか……さま。若様の、上着です。夜のお散歩のたび、袖ばかり噛まれて。……わたし、その繕いばかり、していて」

 

 声の輪郭が、ふ、とやわらかくなった。繕いばかり、と言いながら、その口ぶりは少しも迷惑そうではない。私は布を繰る手を緩めずに、続きを促した。

 

「仲の良い犬だったんですね。名前は?」

 

「名前……あの子の、名前……ごめんなさい、それも、霧の向こうで」

 

 若様。犬の名前。その言葉を口にするたび、影の手が止まった。思い出そうとして、届かない。そういう止まり方だった。煙の輪郭が細かく震える。責めるつもりで訊いたのではないと伝えたくて、私は話を犬の噛み跡へ戻した。どんな噛み方をする犬でした、大きさは、毛は。答えられることを訊かれると、影の針は、ほっとしたように再び動き出す。

 

「大きな子です。毛は、麦わらの色。門番のくせに、番より出迎えのほうが得意で……ふふ。帰ってくる人の足音を、誰より先に聞き分けるんです」

 

 思い出せることも、まだこんなにある。夜っぴて、二人と一匹分の思い出話を繕いながら、最後のほつれを留めて――糸を、切った。

 

 仕立て直った若草色の上着が、燭台の明かりの下で、ふわりと持ち上がる。影の腕が、それを胸に抱きしめた。

 

「できた……できました、奥様。ようやく」

 

 その瞬間である。夜明けの窓から靄が引くように、影に色がさした。そばかすの浮いた頬、勝ち気そうな眉、糊の効いたお仕着せ、洗いざらしの手。燭台の火が、初めてその輪郭の内側まで届いている。十七かそこらの、メイドの娘がそこにいた。私は、息をするのも忘れていたと思う。人が、その人に戻る。その瞬間を、まともに見てしまったのである。娘は自分の両手を見下ろし、握って、開いて、それから弾かれたように顔を上げる。

 

「リゼ。わたし、リゼです、奥様! 思い出しました、わたしの名前……!」

 

「リゼさん。良いお名前ですね」

 

 言ってから、自分の声が湿っているのに気づく。名前を呼ぶ。ただそれだけのことが、こんなに効く薬だとは知らなかった。最後に「アメリア」と呼ばれたのがいつだったのか、思い出そうとして――やめておく。今夜は、リゼの夜である。

 

 リゼは頷いて、笑って、それから声を上げて泣いた。名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しいことだなんて、と。ずっと、呼ばれた気はしていたのだと。なのに手を伸ばしても拾えなかった。まるで誰かに、布巾でひと拭き、拭い消されたみたいに――。

 

 その言い方が、胸のどこかに小さな棘のように残った。忘れた、ではなく。消された、みたいに。誰が。何のために。問いの形になる前の冷たさが、うなじを、すっと撫でていく。

 

 泣き止んだリゼに、上着の主を尋ねてみた。若様とは、どなたです、と。

 

「若様は……若様、です。あれ……お顔が。お名前が……どうして」

 

「娘。無理に手繰るな」

 

 壁から、白髭のご老人が半分だけ生えて、重々しく言った。

 

「……わしらは、忘れる。名を、顔を、順に忘れる。誰も、呼ばぬからじゃ」

 

「ご老人は、ご自分のお名前を覚えていらっしゃいます?」

 

「…………茶を淹れよ。話はそれからじゃ」

 

 覚えていないらしい。

 

 湯を沸かしながら、私は胸の内で算段を始めていた。この城の皆さんは、名前を忘れる。ではその名前は、どこへ行ったのか。リゼの針が戻ったように、ガレンの巡回が終わったように、ひとつずつ取り戻していけるものなのか。

 

 (かまど)の火が、こと、と鳴る。考えてみれば、おかしな話である。私は静かに暮らしたくてここへ来た。なのに夜なべで繕い物を手伝い、真夜中に閂を担ぎ、いまは幽霊のための茶を淹れている。ちっとも静かではない。……それでいて、あの屋敷の三年より、息がずっと深く吸えるのは、どういうわけだろう。あの屋敷での息は、いつも浅かった。音を立てると誰かの眉が動くから、胸の上のほうで、こっそり吸って、こっそり吐く。それが妻の礼儀だと思っていた。この城の空気は埃っぽくて、黴くさくて、それなのに、肺の底まで落ちてくる。湯気が立ちのぼり、竈の火が頬にあたたかい。静けさより上等なものが、この城には湧くらしい。

 

 居間に戻ると、リゼが仕立て上がった上着を膝に、途方に暮れた顔で座っていた。

 

「奥様。この上着、どなたにお返しすれば、いいんでしょう」

 

 若様って、どなたです?

 

 その問いに、居間の全員が、しんと黙り込んだ――。

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