慰謝料代わりに「出る」お城を頂きました ~不出来な妻と呼ばれたわたし、幽霊のみなさんの未練を聞き届けます~ 作:aquali
すすり泣きの主は、夜にしか現れない。
燭台の明かりの端、裁縫籠のそばに、若草色の布を撫でる影がある。輪郭は煙のようで、顔には
「繕いかけ、ですか?」
影が、びくりと縮んだ。煙の端が乱れ、逃げ出しそうに揺れて、それでも布からは離れない。私は裁縫籠を挟んで、床に腰を下ろした。急かさない。待つことと相槌には、それなりの自負がある。暖炉の火が、古い絨毯の縁をゆらゆらと照らし、燭台の芯が時おり小さく鳴った。夜の城の静けさが、そのまま待ち時間の器になる。待つのは、得意である。呼ばれない客間で、三年、稽古を積んだ。ただ、誰かのために待つ時間には、こんなに温度があるものらしい。
暖炉の薪が一度崩れるほどの間をおいて、影は、ぽつり、ぽつりと喋った。これは上着。男物の、若草色の上着。袖口が破れている。繕い終えていない。終えなくては、いけないのに――針が錆びて、百年、持てなかった。
「昨日の針なら、研いであります。ご一緒に、いかがです?」
私が布を押さえ、影が針を運ぶ。幽霊は軽い物なら動かせるらしく、針はすい、すいと確かな針目を刻んでいった。燭台の火が揺れるたび、若草色の布の上を小さな影がまたたく。私の役目は布を繰ることと、糸を替えることと、話を聞くことである。針の音が、ふたつ。私のと、彼女のと。真夜中の縫い物がこんなに賑やかなものだったとは、三年間ひとりで針を持っていた頃には、知らなかった。隠れ場所だった針が、今夜は、人と人を繋ぐ糸を運んでいる。道具は同じでも、使い道はこんなに変わるのである。
「袖口のこの破れ、犬ですね。噛み跡の形がある」
「……犬。そう、犬が、いたんです。門のところに。この上着の方に、いちばん懐いて」
「この上着の方?」
「わか……さま。若様の、上着です。夜のお散歩のたび、袖ばかり噛まれて。……わたし、その繕いばかり、していて」
声の輪郭が、ふ、とやわらかくなった。繕いばかり、と言いながら、その口ぶりは少しも迷惑そうではない。私は布を繰る手を緩めずに、続きを促した。
「仲の良い犬だったんですね。名前は?」
「名前……あの子の、名前……ごめんなさい、それも、霧の向こうで」
若様。犬の名前。その言葉を口にするたび、影の手が止まった。思い出そうとして、届かない。そういう止まり方だった。煙の輪郭が細かく震える。責めるつもりで訊いたのではないと伝えたくて、私は話を犬の噛み跡へ戻した。どんな噛み方をする犬でした、大きさは、毛は。答えられることを訊かれると、影の針は、ほっとしたように再び動き出す。
「大きな子です。毛は、麦わらの色。門番のくせに、番より出迎えのほうが得意で……ふふ。帰ってくる人の足音を、誰より先に聞き分けるんです」
思い出せることも、まだこんなにある。夜っぴて、二人と一匹分の思い出話を繕いながら、最後のほつれを留めて――糸を、切った。
仕立て直った若草色の上着が、燭台の明かりの下で、ふわりと持ち上がる。影の腕が、それを胸に抱きしめた。
「できた……できました、奥様。ようやく」
その瞬間である。夜明けの窓から靄が引くように、影に色がさした。そばかすの浮いた頬、勝ち気そうな眉、糊の効いたお仕着せ、洗いざらしの手。燭台の火が、初めてその輪郭の内側まで届いている。十七かそこらの、メイドの娘がそこにいた。私は、息をするのも忘れていたと思う。人が、その人に戻る。その瞬間を、まともに見てしまったのである。娘は自分の両手を見下ろし、握って、開いて、それから弾かれたように顔を上げる。
「リゼ。わたし、リゼです、奥様! 思い出しました、わたしの名前……!」
「リゼさん。良いお名前ですね」
言ってから、自分の声が湿っているのに気づく。名前を呼ぶ。ただそれだけのことが、こんなに効く薬だとは知らなかった。最後に「アメリア」と呼ばれたのがいつだったのか、思い出そうとして――やめておく。今夜は、リゼの夜である。
リゼは頷いて、笑って、それから声を上げて泣いた。名前を呼ばれるのが、こんなに嬉しいことだなんて、と。ずっと、呼ばれた気はしていたのだと。なのに手を伸ばしても拾えなかった。まるで誰かに、布巾でひと拭き、拭い消されたみたいに――。
その言い方が、胸のどこかに小さな棘のように残った。忘れた、ではなく。消された、みたいに。誰が。何のために。問いの形になる前の冷たさが、うなじを、すっと撫でていく。
泣き止んだリゼに、上着の主を尋ねてみた。若様とは、どなたです、と。
「若様は……若様、です。あれ……お顔が。お名前が……どうして」
「娘。無理に手繰るな」
壁から、白髭のご老人が半分だけ生えて、重々しく言った。
「……わしらは、忘れる。名を、顔を、順に忘れる。誰も、呼ばぬからじゃ」
「ご老人は、ご自分のお名前を覚えていらっしゃいます?」
「…………茶を淹れよ。話はそれからじゃ」
覚えていないらしい。
湯を沸かしながら、私は胸の内で算段を始めていた。この城の皆さんは、名前を忘れる。ではその名前は、どこへ行ったのか。リゼの針が戻ったように、ガレンの巡回が終わったように、ひとつずつ取り戻していけるものなのか。
居間に戻ると、リゼが仕立て上がった上着を膝に、途方に暮れた顔で座っていた。
「奥様。この上着、どなたにお返しすれば、いいんでしょう」
若様って、どなたです?
その問いに、居間の全員が、しんと黙り込んだ――。