「不出来な妻はいらない」と離縁されたので、幽霊城でお化けファミリーと暮らします ~家賃なし、家族つきのモンスター☆コメディ~   作:aquali

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8. 碁敵は聖騎士様

 発端は、壁のご老人の一言である。

 

「碁盤を出せ。指が、鈍る」

 

 蔵から出てきたのは見事な足つきの(かや)盤で、碁笥(ごけ)の石はひんやりと澄んでいた。私が埃の下から盤を掘り当てるまでのあいだ、ご老人は蔵の壁から出たり引っ込んだりを三度も繰り返している。落ち着かない幽霊というものを、私は初めて見た。百年の威厳が、蔵の前でそわそわしている。おかしくて、それから少し、いじらしい。埃を払って居間に据えると、ご老人は身を乗り出して久方ぶりの盤面を眺め、それはそれは満足げに髭を揺らしたのである。

 

 そして私は、三日で九路盤に降格した。

 

「そなた、筋が悪いにも程がある。石を置く前に、指が迷うておる。あれは考える指ではない。困っておる指じゃ」

 

「実際、困っていますので」

 

 打ち筋を全否定されながら、それでも夜ごと盤に呼びつけられる。文句を言いつつ石を並べるうち、気づいたことがある。ご老人は、勝ちたいのではない。盤を挟んで誰かと座る時間そのものに、飢えているのである。その飢えなら、知っている。あの屋敷の食卓は長すぎて、向かいの席は、いつも新聞か沈黙だった。誰かと盤を挟む。卓を挟む。ただそれだけのことが、どれほどの贅沢か。

 

 幽霊は軽い物なら動かせる。碁石はその筆頭で、つまりご老人は打てる。打てるのに、相手が私しかいない。百年ぶりの碁が接待にもならない惨状に、ご老人の落胆は深かった――そこへ、定期調査の日が巡ってきたのである。

 

 調査官どのは、この頃、七日にいちどの割で城へ来る。名目は「経過観察」である。来ると、まず薪を割る。調査には燃料がいる、が彼の理屈で、裏の薪の山は、すでにひと冬ぶんを超えた。

 

 その彼が、居間の碁盤に目を留めた。

 

「……碁を、打たれるのか?」

 

「わたしではなく、先代城主様が。いま、お相手を探しておいでです」

 

 こうして、世にも珍しい対局が始まった。ご老人の言いたいことを私が伝えて回す、三人碁である。

 

「じいさまが『これでどうじゃ?』と」

 

「……堅い。では、こうだ」

 

 調査官どのの応手は速く、石音は重い。ご老人が唸り、髭をひねり、次の一手を長考する。私は盤側で石を運ぶだけの伝書鳩だが、退屈はしなかった。盤を挟んだ二人が、聞こえない声で確かに会話しているのが、傍目にも分かるからである。リゼが茶を運び、ピオが碁笥を抱えて取られた石を数え、ガレンの甲冑が背後で審判よろしく仁王立ちしている。冬の入りの居間に、石音と、薪の爆ぜる音。ふと、この眺めをずっと覚えていたい、と思った。理由はうまく言えない。ただ、胸のいちばん深いところが、温かい粥でも入ったように、じんわり重いのである。

 

 窓の光が盤の上をゆっくり渡り、茶は二度冷めて、二度淹れ直された。調査官どのの大きな指は、石を扱うときだけ妙に繊細である。強面の眉間から力が抜け、目元の犬が、すこし顔を出している。この人のこんな顔は、薪割りのときにも見たことがない。

 

「むう……婿殿、やりおるわ」

 

 ぽつりとご老人が言い、リゼが「婿殿」と復唱し、ピオが「むこどの!」と囃し、以後それが正式な呼称として定着した。当人にだけ聞こえていないのが、せめてもの救いである。婿殿。その二文字を、私は聞かなかったことにした。頬のあたりが妙に忙しいのは、暖炉の火のせいである。そういうことに、しておく。

 

「いま、皆さんが何と?」

 

「……『いい手だ』と」

 

 訳を少々整えたのは、盤側の裁量である。伝書鳩は、検閲も兼ねることにした。

 

 中盤、ふと疑問が口をついた。皆さんはなぜ、この人に姿を見せないのだろう。針の話も碁の話も、この人は一度も疑わなかったのに。

 

 尋ねると、ご老人は盤面から目を上げずに、静かに言った。

 

「あの男の胸には、聖印が焼いておる。祓う者の、誓いの印じゃ。……よい男なのは、百も承知しておる。じゃがわしらは、あの印にだけは、開けぬ。開けぬのじゃ。理由は――」

 

 そこで、言葉が切れた。霧である。理由ごと、霧の向こうである。ご老人は誤魔化すように、ぱちり、と強い石を打った。

 

「碁は打てる。それで、よかろう」

 

 開けぬ、という言い方が、締め出す響きではなかった。届かない高さの棚を見上げる、子供の声に似ている。皆さんはあの人が好きで、けれど、怖い。好きなものと怖いものが同じ胸の中に並んでいる切なさを、私はまだ、うまく言葉にできない。

 

「……そうですね。祓う相手に懐かれては、あの方も報告書に困るでしょうし」

 

 勝負は日暮れまでもつれ、数えて一目――たった一目だけ、ご老人が残した。

 

「わしの城で、わしの盤で、わしの勝ちじゃあ!」

 

 高笑いが梁を震わせ、その勢いのまま、ご老人は壁からずるりと全身を抜き出した。深緑の上着、白い髭、碁笥を抱えた腕。壁の染みではない。ひとりの老紳士が、暖炉の火に照らされてそこに立っている。背筋の伸びた、上等の年寄りである。リゼが息を呑み、ピオが「じいさまが、生えた!」と的確すぎる感想を叫んだ。

 

「わしは……オズワルド。オズワルド・グレイフォード! この城の主じゃ! 思い出したわ!」

 

「オズワルド様。以後、お見知りおきを」

 

 私は胸に手を当て、恭しく礼をした。

 

 調査官どのは、ひとりでに石が片付いていく盤面を眺め、誰へともなく生真面目に一礼した。良い碁だった、また打ちたい、と。オズワルド様の髭が、それはもう得意げに揺れたのである。

 

 名前がまたひとつ、この家に帰ってきた。挨拶を交わしながら、胸の内でそっと指を折る。ガレン、リゼ、ピオ、トバイアス、オズワルド様。折った指の数だけ、この城の夜はあたたかくなっていく。

 

 その夜、盤を拭きながら、オズワルド様がふと呟いた。

 

「思い出したついでじゃ。……わしにはな、一局だけ、勝ち逃げされた碁がある。伸びやかで、若くて、腹の立つほど良い指し筋じゃった。盤面は一路残らず覚えとる。じゃが――」

 

 碁笥の蓋が、ことりと鳴る。

 

「――相手の顔だけが、どうしても思い出せんのじゃ」

 

 暖炉の火が、ちいさく爆ぜる。勝ち逃げ、と言うオズワルド様の声は、怒っていなかった。宝物の在り処を語る声である。百年忘れられない一局とはつまり、百年経っても手放したくない誰か、ということだ。盤面は一路残らず覚えているのに、盤の向こう側だけが霧だという。それはたぶん、この城でいちばん古い忘れ物である――。

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