「プロデューサー、べたー」
「…………」
「べたー」
「あの……ちょっと暑いです……」
「やだ、これはbetterなべたー」
「何言ってるんですか?」
彼ら二人が今いるのは、プロデューサーの自室だ。普遍的な常識に照らし合わせれば、その状況は異常と言える。しかし、彼らは違う。これが常習化しているからだ。
これがプロデューサーの本意かと言われれば、もちろん違う。ではなぜこのような事態になってしまったか? 答えは単純、天才少女は押しが強いという話だ。
耐久力、防御力共に最底辺の数値しかないのに、彼女が放つ攻撃の火力は想像をはるかに超える。そして、その破壊力はアイドルとしてのパフォーマンスに留まらず、このようなくだらない――もとい彼女にとっては重要な『愛の確認』に使われている。
事の発端は、とある営業の帰り道に突然の雨に見舞われたことだった。折り畳み傘を持っていたものの、不幸にも――おそらく彼女にとっては幸運にも――それはひとつしかなかった。
大の大人と高校生が共に折り畳み傘一つで十分に雨から身を守れるわけもなく、一緒にずぶ濡れになった。
そこで、ちょうどプロデューサーの家の方が近かったため、二人はそこで着替えをすませ、シャワーを浴び、止みそうにない雨を窓から見ながら夕食をとった。そうこうしているうちに時間は過ぎていった。既に夜9時をまわっている。すると彼女はどうするだろうか? そこから先は話すまでもないだろう。
それからというもの、休みの日にプロデューサーの家に遊びに来てはうだうだと二人で時間を共有する日々が続いている。この虚弱な捕食者は、一度味わった血を忘れなかった。
「……プロデューサー」
「……なんですか」
「呼んでみただけ」
「……はあ」
広が家に来てから、今日はずっとこの調子だ。秋になってきたとはいえ、まだ暑さの残るこの時期、正直なところそこそこ暑いのが本音だ。
「広さん、ほんと、そろそろ本気で暑いのでどいてください」
「えー……」
この瞬間、篠澤広の脳内に浮かび上がったのはとある日の記憶。千奈と佑芽の三人で佑芽の漫画を読みに行った日のこと。千奈は口をわなわなさせながら顔を真っ赤にして読んでいた。佑芽は既にその漫画を読んでいたが、『そういう』シーンが来ると広と千奈の方をガクガク揺らしてキャーキャー言っていた。
こうして『一緒に漫画を読もうの会』が一段落した後、次に何が行われるか、そう、広の恋愛相談会である。
この時点で三人の脳は平常時よりもはるかにピンク色をしていた。甘い風に酔っていた。そうなれば自然とそのような話になることは必然だった。
「……うん、でも最近は……効き目が薄いような気がする」
「効き目?」
「前はプロデューサーも、ちょっぴり表情が変化したり、声色が変わったりしてた。今は、何をやっても効果はいまひとつ」
「それは……大変な事態ですわ!」
「そう! これってあれだよ……倦怠期ってやつ!」
「そうかも、プロデューサーとわたしは、倦怠期」
そう言い、広は薄い胸を張ってドヤ顔をした。そういう言葉を使うことで、本当に自分と彼がそういう関係なような気がして嬉しかった。
「じゃあね、広ちゃん! こういうときは大体こうするのがいいんだよ! 押してダメなら……」
「引いてみな! ですわ!」
「引く……そっか。わたしはずっと押し続けていたから効果が弱くなってた。時には相手の出方を待つことも必要」
「そうだよ広ちゃん! 恋愛は駆け引きだよ!」
「また何かありましたら、ぜひお聞かせくださいまし!」
「あ、じゃあ一つ話したいこと、ある。こないだの雨の日のことなんだけど……」
広は思い出した。佑芽と千奈は引くことが大事だと言っていた。まだ試していないし、ちょうどプロデューサーは離れて欲しいと言っている。これは絶好のチャンスだ。
「……わかった」
「……はい、ありがとうございます」
プロデューサーはこの時点で、違和感に気づいていた。今日はやけに広さんが素直なこと。そして、嫌そうな声を出したかと思えば、微かに「は……」と息を漏らしたこと。
何かを企んでいるのか。彼は数多もの攻撃を食らってきた、いわば篠澤広のスペシャリスト。担当プロデューサーである以上スペシャリストであることは当然なのだが、普通の意味とはワケが違う。ここから始まるのは、彼女との心理戦だ。
「…………」
「…………」
両者、互いに動かない。広は既に『待ち』の姿勢に入っており、スマホの画面から目を離さない。
しかし、視界の端でプロデューサーを見張るのも忘れない。自分が離れ、積極的に押すことをやめたことで彼に起こる些細な変化をも見逃したくないという想いが溢れた結果である。
プロデューサーは、読みかけていた本を読みながら、思考の隅っこで彼女に関する考察を続ける。何かを既に仕掛けられたか、それとも考えすぎか。天才少女との脳みそ勝負は一筋縄ではいかないと、彼女を深読みする。
「……広さん、何か飲みたいものとかありますか」
「……今は、大丈夫」
「そうですか、何かあったら言ってください」
「うん」
先に仕掛けたのはプロデューサーだった。あくまでも広は『受け』の構えだ。相手の出方を伺い、適切な対処をする事だけを考える。
対して、プロデューサーはどうアプローチするかを考えなければならない。どのタイミングで、どの言葉を使うか、必要なエネルギーは、プロデューサーの方が上回っている。
だが、広は『待つ』ことに慣れていない。未知の境地への挑戦をしながら、彼女は即座に動く必要がある。それを鑑みれば、状況は五分といったところだ。
「…………」
「…………」
「……広さん、何見てるんですか?」
「大学時代の知り合いの論文……新しく出てたから」
「そうですか……ちなみに、どんな内容ですか?」
「……うーん、プロデューサーには、あんまり向いてないと思う、よ?」
「……そうですか、でしたらやめておきます」
彼は篠澤広を信用していた。広の口は、大抵の場合信頼に足るものだからだ。例外は時折戯言を吐くときのみ。
「…………」
「…………」
再び、沈黙。互いをちらりと見る視線が交差する。そこに込められた思惑を、腹の底を覗こうと、両者は静かなる戦いを続ける。
「……広さん」
「何?」
「……次の仕事は……どんなものがいいですか?」
広はプロデューサーが一瞬、ほんのわずかに口ごもったのを見逃さなかった。
明らかに調子を崩している。普段ならば、少し離れた程度普通なのだが、ついさっきまでべたべたとスキンシップを長い間続けていたお陰か、彼の思考は確かに狂い始めている。
二人から授かった技術、効果はある。
しかしここで焦ってはいけない。料理人が丁寧に肉を焼くように、獣が獲物の油断した隙を狙うように、じっくりと機会を待つのだ。
「ん……最近は撮影が多かったし、他の仕事がしたい、かな」
「ああ……そういえばあの雑誌に載った広さん、とても好評でしたね」
「うん。我ながら出来がいいとおもう……プロデューサーは、どう思った?」
軽いジャブを打つ。この変化によって起きたものを、表面程度で優しく見定めるためだ。
「……ええ、あれは最近の広さんの中でもかなりいい方だと思います」
「そっか、ありがと」
ここで広が選んだのは、受け流すことだった。いつもなら自分がもっと嬉しがって、そのあとに満足して力を抜いて、そうしてプロデューサーがダメ出しをしてくれて。
ここまで軽く返されては、さすがのプロデューサーは困惑するはず、そういう狙いだった。
案の定というべきか、広の思惑通り、プロデューサーは少なからず動揺していた。あの広さんが、これだけしか反応しないだと? 今にも口を押えて考え込みたい衝動を抑えながら、彼は考える。俺は何か見落としているのだろうか。少し、彼女を離れさせるときの声がキツかっただろうか。いや、彼女はそれを好むはずでは。しかしあの状況では広さんは純粋に嫌がっていたのか。だったら、あの漏れ出た小さな息はなんだった。単なる動作の反動か、それともなにか別の、意図しない反射的なものか。どうして、広さんは俺から素直に離れていってしまったのか。
兎にも角にも、動かなければ何も始まらない。そう結論づけると、再三彼は広へと声をかける。
「……広さん」
「……どうしたの」
「……あの……」
篠澤広の慧眼は、この躊躇いを逃さない。彼女の脳髄が、全細胞が、ここが好機だと叫んでいる。そして広は、先程から浮かんでいたとある仮説を彼に伝えてみせた。
「プロデューサー、ひょっとして、わたしにかまってほしいの?」
「……は?」
「ずっと、わたしが離れてから、何度も何度も話しかけてくる。わたしがそばにいなくなって、寂しくなっちゃった?」
「は? ……は? 何を言って……」
今一度、自分のこれまでの言動を振り返ってみよう。こちらから離れるよう促した。それに広が応じた。それまではいい。妙に聞き分けが良かったこと以外は。
その後だ。自分は何をしていた? 彼女の思惑を見破ろうとあれやこれやと考えた。何回かに分けて様子を見た。どうにかして彼女の気を引こうと。
気を引こうとしていた?
いや違う。そもそも広が離れていったことに疑問を抱いている? 自分は、この休日に、彼女がすぐそばにいない事に、違和感を抱いている?
そんなわけは無い。自分はただ、普段と様子の違う担当アイドルを心配していただけで、それはプロデューサーにとっては当然の務めだ。
それでも、どうしようもなく、背中に残った彼女の体温の残滓が、顔に降りかかる彼女の亜麻色の髪の感触が、肌に残って離れてくれない。
「考えれば考えるほど、認めたくないのに認めざるを得ないって顔……すごくいい、ね」
「…………」
いや、まさか。まさかだ。彼女にそんな感情を抱くわけが、ないだろう。そんな親鳥を慕う雛の如き想いを。
たとえ彼女にそのような気持ちを持っていたとしても、この自分の心理を、ましてや自己認知すらしていない深層心理を、読まれるはずがない。
やけに喉が渇いている気がした。首筋を、嫌な汗が伝う。
彼女の顔を見た。完全に調子に乗っている。まるで既にあなたはわたしに篭絡されているのだから、言い訳など無意味だと言わんばかりの目だ。それがどうも蠱惑的に思えて、橙色の彼女の瞳を直視できないのは、なぜだ。
「次にプロデューサーは、『何をばかなことを。意味のわからないことを言わないでください』と言う」
「……何をばかなことを。意味のわからないことを言わないでください……」
にまにまと、口角が上がるのを抑えられない様子で広はプロデューサーを見る。
「……ハッ!?」
「この広ちゃんは、何から何まで計算ずくだ、よ」
読まれた? 一言一句違わず、次の台詞を?
そんな馬鹿な、彼女には、隠し事は通用しないのか? 思考が読めるのか? まずい。
「なにがまずいの?」
「……ぐ……う」
「……プロデューサーの、甘えんぼ」
このふざけた事を抜かす口を塞いでしまいたい、しかし、心のどこかでは、この妄言に納得している自分がいる。
プロデューサーの心は今きわめてアンビヴァレントな状態にあった。
「プロデューサーのかまってちゃん。わたしのこと、大好きなんだ、ね? 一緒にいて欲しくてたまらないんだ」
糖度の高い声で、ニヤニヤと細めた目で、広はプロデューサーの心を暴く。
「しょうがない。寂しがり屋のプロデューサーは、わたしがあやしてあげないと、ね」
プロデューサーの口からは、彼女の結論を肯定することは決してなかった。しかし、否定することも決してしなかった。沈黙、それが唯一の答えであった。
しかし、黙っているということはイエスだとは誰が言ったか、無音の返答を受け取った彼女は、いつにも増して嬉しそうな顔をするのであった。
その後のふたりについては、語る方が無粋だろう。
需要があったら続き書きます