ラノア魔法大学の女子寮の一室。
西日に照らされた室内には、高級なアッサム紅茶の芳醇な香りが漂っていた。
アスラ王国第二王女アリエル・アネモイ・アスラは、優雅な所作でティーカップを傾けながら、目の前でソファに深く沈み込んでいる「少年」を見つめていた。
「どうしたのですか、フィッツ? そんなに眉間に深いシワを寄せて。せっかくの端正な顔立ちが台無しですよ。まるで世界が明日終わるかのような顔をしています」
白い髪に、表情を隠す大きなサングラス。そして仕立ての良い男子生徒の制服。
周囲の学生や教員から「無詠唱魔術を操る謎の天才」「寡黙で冷徹なアリエル王女の懐刀」と恐れられ、崇拝されているフィッツ――その正体であるシルフィエットは、大きなため息をついて、前髪をくしゃりとかきむしった。
「アリエルさま……実は、また魔法のコントロールで少し悩んでいて」
「あら、あなたの無詠唱魔術に、これ以上何の不満があるというのです? 私たちを狙うアスラからの刺客も、あなたの魔術によって瞬時に無力化されているというのに」
アリエルが不思議そうに首を傾げる。
部屋の隅で壁に背を預けていた守護騎士ルーク・ノトス・グレイラットは、「また始まったよ」と言いたげに肩をすくめ、やれやれと首を振った。
「フィッツ先輩、あんたの戦闘力はもう十分化け物クラスだよ。この前の暗殺者だって、声も出させずに土砂に埋めたじゃないか」
「ルーク、それがダメなんだよ……」
シルフィはサングラスを少しずらし、困り果てたような赤い瞳を覗かせた。
彼女の悩みは、戦力不足ではなく、むしろその「過剰な威力」にあった。
転移災害でアスラ王宮に降って湧いたあの日から、シルフィはアリエルを守るために必死に戦ってきた。しかし、実戦を重ねるうちに、彼女の放つ攻撃魔術の威力は、無意識のうちに「相手を確実に仕留める」レベルにまで跳ね上がってしまっていた。
シルフィの願いはアリエルを守り抜くこと。だが同時に、彼女の心の奥底には、もう一つの切実な動機が眠っている。
かつて自分に世界の広さと魔法を教えてくれた、最愛の少年――ルーデウス・グレイラット。
(もし、いつかルディに再会できたとき……ボクが血生臭くて、容赦なく人を傷つけるような人間になっていたら、ルディはボクを嫌いになっちゃうかもしれない……)
「ボクは、もっと繊細に魔力を操りたいんだ。例えば、相手を大きく傷つけずに気絶させたり、服の袖だけをピンポイントであぶって、持っている武器を落とさせたりするような……そんな優しい魔法が使いたいんだよ」
シルフィの言葉を聞いたアリエルは、ふっとその美しい唇を歪め、悪戯っぽく微笑んだ。彼女はシルフィが「ルーデウス」という少年の存在を心の支えにしていることを知っている。
「なるほど、乙女の悩みというわけですね。では、フィッツ。あなたのその『優しさ』が本物かどうか、試してみましょうか」
アリエルは机の上の皿から、大学の購買で買ってきたばかりの「クッキー」を1枚つまみ上げた。ラノア魔法大学の名物で、サクサクとした食感が人気だが、非常に脆く、指で少し強く挟むだけでも簡単に粉々に砕けてしまう代物だ。
「ルーク、そのクッキーを部屋の反対側にある棚の上に置きなさい」
「了解、姫様」
ルークはニヤニヤしながらクッキーを受け取り、約5メートルほど離れた木製の棚の端にそっと置いた。
「さあ、フィッツ。ルールは簡単です。ここから風魔術を使って、そのクッキーを傷つけずに、私の手元まで運んでみなさい。もしクッキーにひびが入ったり、壁に激突して砕け散ったら、あなたの負け。夜の自習時間は私の髪結いを手伝ってもらいます」
「ええっ!? クッキーを、風魔術で……!?」
シルフィはぎょっとしてクッキーとアリエルの手を往復して見た。
風魔術(ウィンド)や微風(ボイル)は初級魔術だが、無詠唱で行う場合、魔力の「出力調整」がすべてを決める。ほんの少しでも魔力が多ければクッキーは消滅し、少なすぎれば床に落ちて粉々になる。
「どうしました? 弱気なフィッツ先輩なんて見たくありませんね」
ルークの挑発的な視線を受け、シルフィの負けず嫌いな一面に火がついた。
(ボクの魔力は、ルディに比べたらずっと雑だ。ルディなら、きっとこれくらい簡単にやってのける。アリエルさまを守るためにも、いつかルディに胸を張って会うためにも……ここで日和ってちゃダメだ!)
シルフィはソファから立ち上がり、右手をそっと差し出した。
サングラスの奥の目を極限まで細め、5メートル先の小さな標的にすべての意識を集中させる。
部屋の中が、水を打ったように静まり返った。
呪文は口にしない。頭の中にもない。ただ、イメージする。
それは、暴風でもなく、刃でもない。
幼い頃、ブエナ村の草原で、ルディと二人で手を繋いで歩いていたときに、二人の髪を優しく揺らした――あの温かい春のそよ風。
「――っ」
シルフィの掌から、かすかな空気の震えが放たれた。
それは目に見えない透明な「手」となって部屋を横切り、棚の上のクッキーをそっと包み込んだ。
ガタガタ、とクッキーがわずかに震え、ゆっくりと宙に浮かび上がる。
「お……」とルークが思わず声を漏らした。
シルフィの額から、大粒の汗がツラリと流れ落ちる。
空中を移動するクッキーにかかる空気抵抗、重力、それらすべてを相殺するように、ミリ単位で魔力を引き算していく。
(もっと優しく……包み込むように……壊れないように……!)
クッキーはゆっくりと綺麗な放物線を描き、部屋の中央を通り過ぎてアリエルのもとへと向かう。まるで、目に見えない妖精が運んでいるかのように穏やかな速度だった。
そして――パシッ。
アリエルが差し出した白い手のひらの上に、傷一つなく、表面の砂糖の粉さえ落とさずに、クッキーが綺麗に着地した。
「……!」
シルフィは、全身の力が抜けたようにその場にへたり込んだ。
「素晴らしいわ、フィッツ」
アリエルは心からの称賛を込めて拍手を送った。ルークも「へえ、本当にやるとはね。恐れ入ったよ」と苦笑しながら拍手している。
アリエルはそのクッキーをパキッと綺麗な音を立てて半分に割ると、その片方を、床に座り込んでいるシルフィの前にしゃがみ込んで差し出した。
「あなたの勝ちです。努力の成果ですね。はい、これが本日のご褒美です」
「あ、ありがとうございます……!」
男装のフィッツとしてのクールな仮面は完全に消え去り、シルフィはいつもの少女らしい、ふにゃりとした笑顔を浮かべてクッキーを口に運んだ。
サクサクとした食感と共に、バターの豊かな風味と優しい甘さが口いっぱいに広がり、張り詰めていた緊張がじわじわと解けていく。
「美味しい……」
「その繊細なコントロールがあれば、次の夜襲があっても、敵の武器だけを綺麗に弾き飛ばせそうですね」とアリエルが優しく微笑む。
「うん、頑張る。ボク、もっと練習して、どんな状況でも大切な人を傷つけずに守れるようになるよ」
シルフィは残りのクッキーを大切そうに咀嚼しながら、赤く染まった窓の外を見上げた。
ラノアの広い空の向こう。まだ見ぬ、だけど確実にこの世界のどこかにいる最愛の少年の姿を思い浮かべる。
(ルディ……ボク、少しは強くなれてるかな。君に会える日がいつになってもいいように、ボク、もっともっと、本気で頑張るからね)
胸の中でそっと誓いながら、シルフィは夕日に照らされるラノアの街並みを、いつまでも愛おしそうに見つめ続けるのだった。