五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~   作:kuratn

13 / 13
13. 名前で呼んでくださいな

 宿場を三つ、二週間かけて乗り継いで、南街道の要の宿場町グランポンに着いた。湖畔でひと夏をまるごと使った旅は、道の上で秋になったのである。石橋と旅籠と(うまや)が並び、荷馬の鈴と呼び込みの声が夜まで絶えない、道の結び目のような町である。広場の真ん中では、古い噴水が月を載せて回っていた。水盤の縁は長年の尻で磨かれて、つやつやと光っている。座ってよい縁、ということである。

 

 この町には、七週、腰を据えることにした。冬の南下を前に、路銀と膝とを休ませる算段である。安宿の長逗留はまけてもらえる――というのも、旅に出てから身体で覚えた知恵だ。市の立つ日を数え、ポーレットへ文を二通書き、広場の噴水と顔馴染みになる。せわしなく使う旅ではないのである。二年分を、一年で。それでも一日は、ちゃんと一日ぶんある。

 

 名前の札を引いたのは、逗留も五週を過ぎた、よく晴れた日のことだ。『肩書きでなく、名前で呼ばれる』――四十四歳の字。添え札に『噴水に素足を浸す』三十八歳。

 

 四十四の年、わたくしは数えてみたことがある。朝から晩まで、奥様、奥方様、侯爵夫人、モンフォールの。わたくしを名前で呼ぶ声は、屋敷にひとつもなかった。名前は手紙の宛名の中にだけ生きていて、その手紙も、宛名の下は家の用事である。エレオノール、という音を最後に聞いたのがいつだったか、思い出せなかった年である。名前というものは、呼ばれないと、少しずつ薄くなる。

 

 薄くなって、どうなるか。呼ばれない名前は、やがて自分でも使わなくなるのである。胸の内の独り言まで「わたくし」で済むようになって、エレオノールは、手紙の宛名と署名の間だけを住処にした。四十四のあの夜、わたくしは宛名の中の自分に、少し会いたかったのだ。

 

 夜の広場の端では、夜商いの屋台が提灯を灯し、焼き腸詰と蒸かし栗の匂いが水の匂いに混ざって流れてくる。わたくしは噴水の縁に腰掛けて、まず添え札から。靴を脱ぎ、素足を水盤に浸す。昼の名残でぬるいかと思えば、存外きりりと冷たくて、声が半分だけ出た。広場の真ん中で、五十四歳が、はしたなくある。三十八の年、視察の馬車の窓から、噴水で足を洗う旅の女を見た。はしたない、と口では言って、目が離せなかった。あの女の涼しい顔を、いま、わたくしがしている。

 

 通りすがりのおかみさんが「冷えるよう」と笑い、「ええ、冷えますわ」と笑い返す。それだけの挨拶が、妙に旨い。

 

 さて、主役の札である。わたくしは隣に立つ堅物を見上げた。

 

「今夜から、名前で呼んでくださいな」

 

「……は」

 

「エヴレット様、は肩書きの親戚ですわ。名前よ、名前」

 

「……エレオノール、様」

 

 言った先から、様のほうが敬礼をしている。

 

「様が余分よ」

 

「……エレオノール、殿」

 

「惜しいわね。殿は軍隊の親戚よ」

 

 彼は、敵陣に単身置き去りにされた顔をした。四十年の軍隊言葉から様と殿を取り上げられた男に残るのは、沈黙だけであるらしい。その夜はとうとう、呼ばれずじまいであった。名前ひとつに、大の男が夜通し苦戦するのである。おかしくて、ほんの少し、くすぐったい。

 

 翌朝である。厩の前を通りかかると、藁の匂いの中から低い声がした。

 

「……エレオノール。エレオノール。……いや、違う。呼び捨てなど、自分には」

 

 馬相手に、発声練習をしていらした。馬は迷惑そうに鼻を鳴らし、耳をぱたぱたと払っている。おまえに言ってないぞ、という顔である。わたくしは気配を殺して三歩下がり、笑いは宿に戻ってから、枕で叩いた。

 

 笑いながら、枕の下でほんの少し、胸が詰まる。四十年の軍隊語の中から、わたくしの名前ひとつを取り出すのに、あの人は馬まで動員するのである。名前というものの目方を、あれほど正しく量っている人を、わたくしはほかに知らない。

 

 その昼である。広場の敷石は朝の水撒きで濡れていた。噴水の縁を回り込んだ拍子に、靴の裏がつるりと滑る。

 

「エレオノール!」

 

 腕を掴まれ、引き戻され、気づけば無事であった。名前は、考えるより先に出たらしい。呼んだ本人が、誰より驚いた顔で固まっている。

 

 呼ばれた側の胸には、二拍おくれて、音が届いた。名前だけで呼ばれると、人は一枚、薄着になる。肩書きも、様も、殿もない。ただのエレオノールが、往来の真ん中で、湯を掛けられたようにあたたかい。

 

「……ええ。それでよろしいのよ」

 

 名前を呼ばれると、人は顔を上げる。バルテルに教わった理屈である。なるほど、こういう心地でしたのね。奥様でも夫人でもなく、肩書きの下から、わたくしがひとり、まっすぐ顔を上げる。四十四歳のわたくし、聞こえまして? あなたの名前は、ちゃんと呼ばれる音でしたわよ。

 

 彼は耳まで赤くなり、掴んだ腕を丁重に返却し、深々と一礼した。それから三日、彼の敬語は鎧戸のように分厚くなる。

 

「エレオノール様におかれましては、明朝のご出立の刻限を、いかがお考えあそばされますか」

 

「様が戻っていましてよ。あと、あそばされてもいるわ」

 

「……はい」

 

 一歩進んで、二歩下がる。けれど一度呼ばれた名前は、もう取り消せないのである。取り消せない、が嬉しいのだから、世話はない。

 

 夜、二枚まとめて火にくべた。三十八歳と四十四歳。灰が夜風に紛れて、あとには噴水の水音だけが残る。

 

「残り、二十三枚」

 

 言ってから、ふと、指を折った。二十三。旅に出た初夏には、三十七あった。夏をひとつ、祭りをひとつ、湖をひとつ、友をひとり越えるたび、箱は軽くなっていく。軽くなるために始めた旅である。それなのに――軽くなった箱が、今夜は少しだけ、胸に重い。

 

 重さの正体を、指先はもう知っている。箱が空になった朝、この旅は畳まれる。旅が畳まれたら、隣の律儀な足音は、どこへ帰るのだろう。……そして、空の箱を抱えたわたくしは、そのとき何と呼ばれて目を覚ますのだろう。気の早い問いは、袋のいちばん底へ戻しておく。戻したものが戻らないことくらい、承知の上である。

 

 ……終わりというものが、初めて、道の先に見えた気がした――。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。


  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

読者層が似ている作品 総合 二次 オリ

聖女の仕事が無給で無休だったので【返品】しました ~召喚特典は世界救済ではなく、理不尽を送り主に叩き返す返品スキルでした~(作者:kuratn)(オリジナルファンタジー/コメディ)

「無給、無休、相部屋、冷めたスープ。……じゃあ、やらないです」▼終電後に異世界召喚された事務員・佐伯リカ(27)。▼聖女に任命――されそうになったので、労働条件を確認して辞退した。▼神様がくれた特典は【返品】。▼一方的に押し付けられた理不尽を、送り主に差し戻すスキルだった。▼召喚費用の請求書→決裁した文官へ。▼呪いの札→書いた神官へ。▼婚約解消の違約金→言い…


総合評価:914/評価:7.68/完結:44話/更新日時:2026年07月15日(水) 15:51 小説情報

ヒカルの碁:奈瀬明日美(中身:社畜おっさん)は、脳内のKataGo先生と最強のスローライフを目指したい(作者:高山 虎)(原作:ヒカルの碁)

【宣伝!】▼新作オリジナル連載告知!▼新作の連載始めました!▼全88話執筆済み・絶対エタりません!▼本作の「中身おっさんTS×最強チートで無双」なノリが好きな方は必見!▼15億円と超絶美少女のガワを手に入れた元おっさんが、音楽業界で無双する二度目の青春ストーリー!▼▼『あさおん!〜48歳のハゲ散らかしたおっさんですが、朝起きたら超絶美少女でした〜』▼  【…


総合評価:22825/評価:8.65/完結:15話/更新日時:2026年06月07日(日) 20:11 小説情報

ドルオタゴリラ呪術師とリアルロシアンルーレットチンチクリン(作者:カフェイン中毒)(原作:呪術廻戦)

 東堂葵の性格以外が全てストライクな一般ワイルドvs彼女の見た目以外が全てストライクな東堂葵 ファイッ!


総合評価:12272/評価:8.76/連載:32話/更新日時:2026年04月09日(木) 18:13 小説情報

異世界食堂 二軒目!(作者:電動ガン)(原作:異世界食堂)

7日に1度、世界に現れる洋食のねこやの扉・・・▼だが!世界にはまだあった!!!▼ねこやの扉が現れるドヨウの日とは別に、スイヨウの日に現れた扉▼その扉は定食屋ふたばの扉であった。


総合評価:4514/評価:8.42/連載:59話/更新日時:2026年07月16日(木) 08:29 小説情報

【街の解体屋】魔物解体配信、はじめます【初見歓迎】(作者:解体新書が泣いている)(オリジナル現代/冒険・バトル)

ダンジョンと魔物が当たり前に存在するこの世界で、解体師は慢性的な人手不足に悩んでいた。▼解体師の田中悠一、二十六歳。この現状をどうにかしたいと考えた彼は、実際に解体の様子を配信して仕事の魅力を発信しようと思いつく。▼「実際にやって見せれば伝わるはず」という至極真っ当な動機のもと、今日も淡々と魔物を配信で解体していく。▼ただ一つ誤算があったとすれば、独学で磨き…


総合評価:18887/評価:8.28/連載:31話/更新日時:2026年05月16日(土) 21:00 小説情報


小説検索で他の候補を表示>>