五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
宿場を三つ、二週間かけて乗り継いで、南街道の要の宿場町グランポンに着いた。湖畔でひと夏をまるごと使った旅は、道の上で秋になったのである。石橋と旅籠と
この町には、七週、腰を据えることにした。冬の南下を前に、路銀と膝とを休ませる算段である。安宿の長逗留はまけてもらえる――というのも、旅に出てから身体で覚えた知恵だ。市の立つ日を数え、ポーレットへ文を二通書き、広場の噴水と顔馴染みになる。せわしなく使う旅ではないのである。二年分を、一年で。それでも一日は、ちゃんと一日ぶんある。
名前の札を引いたのは、逗留も五週を過ぎた、よく晴れた日のことだ。『肩書きでなく、名前で呼ばれる』――四十四歳の字。添え札に『噴水に素足を浸す』三十八歳。
四十四の年、わたくしは数えてみたことがある。朝から晩まで、奥様、奥方様、侯爵夫人、モンフォールの。わたくしを名前で呼ぶ声は、屋敷にひとつもなかった。名前は手紙の宛名の中にだけ生きていて、その手紙も、宛名の下は家の用事である。エレオノール、という音を最後に聞いたのがいつだったか、思い出せなかった年である。名前というものは、呼ばれないと、少しずつ薄くなる。
薄くなって、どうなるか。呼ばれない名前は、やがて自分でも使わなくなるのである。胸の内の独り言まで「わたくし」で済むようになって、エレオノールは、手紙の宛名と署名の間だけを住処にした。四十四のあの夜、わたくしは宛名の中の自分に、少し会いたかったのだ。
夜の広場の端では、夜商いの屋台が提灯を灯し、焼き腸詰と蒸かし栗の匂いが水の匂いに混ざって流れてくる。わたくしは噴水の縁に腰掛けて、まず添え札から。靴を脱ぎ、素足を水盤に浸す。昼の名残でぬるいかと思えば、存外きりりと冷たくて、声が半分だけ出た。広場の真ん中で、五十四歳が、はしたなくある。三十八の年、視察の馬車の窓から、噴水で足を洗う旅の女を見た。はしたない、と口では言って、目が離せなかった。あの女の涼しい顔を、いま、わたくしがしている。
通りすがりのおかみさんが「冷えるよう」と笑い、「ええ、冷えますわ」と笑い返す。それだけの挨拶が、妙に旨い。
さて、主役の札である。わたくしは隣に立つ堅物を見上げた。
「今夜から、名前で呼んでくださいな」
「……は」
「エヴレット様、は肩書きの親戚ですわ。名前よ、名前」
「……エレオノール、様」
言った先から、様のほうが敬礼をしている。
「様が余分よ」
「……エレオノール、殿」
「惜しいわね。殿は軍隊の親戚よ」
彼は、敵陣に単身置き去りにされた顔をした。四十年の軍隊言葉から様と殿を取り上げられた男に残るのは、沈黙だけであるらしい。その夜はとうとう、呼ばれずじまいであった。名前ひとつに、大の男が夜通し苦戦するのである。おかしくて、ほんの少し、くすぐったい。
翌朝である。厩の前を通りかかると、藁の匂いの中から低い声がした。
「……エレオノール。エレオノール。……いや、違う。呼び捨てなど、自分には」
馬相手に、発声練習をしていらした。馬は迷惑そうに鼻を鳴らし、耳をぱたぱたと払っている。おまえに言ってないぞ、という顔である。わたくしは気配を殺して三歩下がり、笑いは宿に戻ってから、枕で叩いた。
笑いながら、枕の下でほんの少し、胸が詰まる。四十年の軍隊語の中から、わたくしの名前ひとつを取り出すのに、あの人は馬まで動員するのである。名前というものの目方を、あれほど正しく量っている人を、わたくしはほかに知らない。
その昼である。広場の敷石は朝の水撒きで濡れていた。噴水の縁を回り込んだ拍子に、靴の裏がつるりと滑る。
「エレオノール!」
腕を掴まれ、引き戻され、気づけば無事であった。名前は、考えるより先に出たらしい。呼んだ本人が、誰より驚いた顔で固まっている。
呼ばれた側の胸には、二拍おくれて、音が届いた。名前だけで呼ばれると、人は一枚、薄着になる。肩書きも、様も、殿もない。ただのエレオノールが、往来の真ん中で、湯を掛けられたようにあたたかい。
「……ええ。それでよろしいのよ」
名前を呼ばれると、人は顔を上げる。バルテルに教わった理屈である。なるほど、こういう心地でしたのね。奥様でも夫人でもなく、肩書きの下から、わたくしがひとり、まっすぐ顔を上げる。四十四歳のわたくし、聞こえまして? あなたの名前は、ちゃんと呼ばれる音でしたわよ。
彼は耳まで赤くなり、掴んだ腕を丁重に返却し、深々と一礼した。それから三日、彼の敬語は鎧戸のように分厚くなる。
「エレオノール様におかれましては、明朝のご出立の刻限を、いかがお考えあそばされますか」
「様が戻っていましてよ。あと、あそばされてもいるわ」
「……はい」
一歩進んで、二歩下がる。けれど一度呼ばれた名前は、もう取り消せないのである。取り消せない、が嬉しいのだから、世話はない。
夜、二枚まとめて火にくべた。三十八歳と四十四歳。灰が夜風に紛れて、あとには噴水の水音だけが残る。
「残り、二十三枚」
言ってから、ふと、指を折った。二十三。旅に出た初夏には、三十七あった。夏をひとつ、祭りをひとつ、湖をひとつ、友をひとり越えるたび、箱は軽くなっていく。軽くなるために始めた旅である。それなのに――軽くなった箱が、今夜は少しだけ、胸に重い。
重さの正体を、指先はもう知っている。箱が空になった朝、この旅は畳まれる。旅が畳まれたら、隣の律儀な足音は、どこへ帰るのだろう。……そして、空の箱を抱えたわたくしは、そのとき何と呼ばれて目を覚ますのだろう。気の早い問いは、袋のいちばん底へ戻しておく。戻したものが戻らないことくらい、承知の上である。
……終わりというものが、初めて、道の先に見えた気がした――。