五十四歳で離縁されましたので、三十七枚の「いつか」を使い切ります ~最後の一枚は、もう一度恋をすること~ 作:kuratn
夏至の朝、玄関の壁から年札を外した。二度目の携行である。手はもう作法を覚えていて、読み直す目のほうが、毎年新しい。『来年も、夏至祭で、家族と踊る』。去年、一語だけ足した札である。札の角が、一年ぶんだけ丸い。毎朝毎晩、出入りのたびに目で触ってきた角である。足した一語の中身は、この一年で、勝手に増えた。
日が落ちて、広場の四隅に火が入ると、人垣がひとつ、大きな息をつく。四度目ともなると、わたくしはこの瞬間の匂いを、季節の暦に登録してしまっている。松明の油、砂糖菓子の焦げ、人いきれ。太鼓の一打ちが石畳を通って足の裏へ届き、膝の古い
今年は、留守番がいない。バルテルと若も、広場に来たのである。家令は出がけに式次第を持たず、心得の一行も書かず、手ぶらの丁寧なお辞儀だけを寄越した。
「本日、心得は、ございません」
「あら。では、どうなさるの?」
「楽しみ方は、式次第の外にあると伺いました」
どこで伺ったのだか。教えた覚えのある家の竈が、三つばかり思い当たる。
娘夫婦は、オーロールを連れて来た。生後九か月、初めての祭りである。篝火に目を丸くし、太鼓のひと打ちごとに全身で跳ね、屋台の匂いに鼻をひくつかせる。世界の全部が初物の人は、忙しいのである。ソランジュ様は桟敷を持つ身分でありながら、今年は平土間側に立った。式次第の外の見物である。人波に少し酔いながら、それでも姿勢だけは崩さずに立つ横顔が、楽しそうに見えるのは、身贔屓ではないと思う。セドリックは、誘われる前に輪に入った。断らずに、二巡である。硬さは去年より取れて、拍子は今年も合っている。あの子はたぶん、来年は三巡回る。そういう増え方をする子なのだ。
そして、輪舞である。
「お手を。……段差は、ありませんが」
「ええ。段差がなくても、頂く手ですわ」
今年は、腕の中に同乗者がいる。眠りかけのオーロールを抱いて、ゆっくり回る外側の輪に、三巡だけ入った。一巡目の途中で、腕の中の頭が、こつんと胸に着く。太鼓のただ中で眠れるのだから、この子の胆力は末が楽しみである。子供の手、粉屋の手、娘の手、息子の手、伯爵どのの手――今年は、知っている手の数が、また増えたのである。膝は一歩目で鳴き、二歩目で拍子に呑まれる。篝火の熱が頬に寄せては離れ、楽の音が汗の下まで染みてくる。三巡のあいだ、腕の中の目方は、安心しきって重くなる一方である。眠った子供というものは、預けた信頼のぶんだけ重くなる。世界でいちばん重い勲章である。
踊り切って、いちばん近い篝火の前に立った。胸元から、年札を出す。
「成就の検分を」
「異常なし。……家族の欄、全員、異常なし」
家族の欄、という言い方に、点呼の癖が出ている。出ていて、よい。存在の点呼というものを、わたくしは知っている。あなたが今年もいてくれてよかった、という数えごとである。数えられなかった側の三十七年を思えば、この欄の全員に、毎年「異常なし」が付くことこそ、願いの本体なのだ。
火にくべる。一年、玄関で日に焼けた紙は、今年も少し飴色で、燃える色が濃い。ちゃんと叶ってから燃える。それだけが、この家の火の自慢である。隣で、あの人が篝火に目を細めている。三年前のこの火を、わたくしはひとりで見ていたことを思い出す。
祭りの夜は馬車が出ないから、娘一家は泊まりである。夜更け、寝静まった家で、新しい紙を出した。年に一度の書き直しである。ペンを渡し合って、さて一行目、というところで、わたくしの手が止まった。
「……いかがなさいました?」
「足す言葉を、探しているの。去年は『家族と』を足したでしょう。今年は――」
今年は、見つからないのである。来年も、夏至祭で、家族と踊る。この文面に、足りない言葉がひとつもない。
「不足の報告は」
「ございません」
軍隊の問答で、締まった。去年と同じ文面を、去年より確かな手で書いて、同じ釘に掛ける。願いというものは、育つ。育って、いつか、満ちる。満ちた願いは、文面を変えないのだ。変えないという贅沢を、わたくしは五十七の年に、初めて知った。
卓の隅で、目を覚ましたオーロールが、寝床代わりの籠から、こちらへ手を伸ばしていた。伸ばした先は、書き損じのない、白い紙の束である。
「あら。……気が早いこと」
まだ字も持たない手が、紙の端を掴んで、放さない。掴む力は、生まれた朝と同じで、少しだけ強い。わたくしは笑って、その手に、講義の一行目を差し上げた。いつかあなたの箱を作る日のために、ずっと前から決めてあった一行である。
「よろしいこと、オーロール。――書いてよいのよ。書いたら、すぐ使うの」
「う゛ぅぅ!」
オーロールは力強い目で私に応えた。
わたくしはその限りない可能性に満ちた瞳に――少し圧倒され、大きくうなずいた。
窓の外で、祭りの残り火が夜の底を薄く染めている。卓の上では、茶がふたつ、湯気を立てている。
わたくしはそっとオーロールの柔らかなほっぺたに、ほおずりをした――――。
人生――連綿と続く命のリレー。その本当の意味が赤ん坊の少し高い体温から伝わってくる。
素敵な……リレーだわ。
甘く香る乳の匂いに包まれながらーわたくしはゆっくりとうなずいた。
あの人もそんな私を見ながら――ゆっくりとうなずいたのです。
了