アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
船が岸を離れた時、僕はようやく肩から力を抜いた。
板張りの船縁。その向こうを、見慣れた町並みが少しずつ遠ざかっていく。荷を運ぶ人間も、声を張り上げる商人も、岸へ繫がれた小舟も、揺れる水面の向こうへ置き去りになった。
船底から、低い軋みが伝わってくる。
帆が風を受けた。
頭上で布が鳴り、それまで緩んでいた綱が張る。
「……動いた」
「船ですからね」
隣でオトフリートが言った。
「そういう意味じゃなくて」
エピタフから戻って以来、荷物を調べ、資料を確かめ、道を相談していた。
それが今、本当に次の旅になった。
僕が言いたかったのは、そういうことだ。
もっとも、感慨に浸れたのは短い間だった。
「そこの若いの、綱から足をどけろ!」
「はいっ!」
慌てて下がる。
足元の綱が引かれ、さっきまで僕の立っていた板の上を滑っていった。
ノクティアが僕の袖を引いた。
「こっち。邪魔にならない」
彼女に連れていかれたのは、荷を固めた場所の脇だった。
水の上では、僕もただの慣れない客らしい。
*
乗せてもらったのは、荷を運ぶ船だった。
旅人だけのために整えられた居場所は少ない。樽と木箱が先に場所を取り、その残りへ僕らが収まる。
船頭とは出発前に話をつけていた。
エア湖を下り、荷を下ろすために寄る船着き場で降りる。そこから古い運搬路を探す。
森の奥へ船を寄せてもらうわけではない。
岸から先は、僕らの足の仕事だった。
建造書の箱は包みを重ね、ほかの荷物と一緒に動かないよう固定してある。
オトフリートは、それをもう三度も確かめていた。
「さっきと変わってないよ」
「わかっています」
「じゃあ、どうして」
「確かめれば、安心できます」
理解できる答えだった。
僕も、腰のベラへ手を添えた。
「主よ」
声は、ごく小さかった。
岸では静かにしていろと頼んだが、船の上なら話していいと言った覚えもない。
僕は身を屈め、荷物を直すふりをした。
「何?」
「妾は泳げぬ」
「僕も、剣が泳ぐところは見たことない」
「落とすでないぞ」
軽口を返しかけて、やめた。
船縁の向こうには水がある。
底は見えない。
ここで剣を一本落とせば、潜って拾えばいいという話にはならないだろう。
僕は鞘の吊り具を確かめ、座る位置を少し内側へ変えた。
「落とさないよ」
「うむ」
それきり、ベラは黙った。
今日は珍しく、普通の剣でいてくれる気になったらしい。
*
エア湖へ出ると、景色が開けた。
水面を渡る風に、細かな波が幾重にも走っている。岸辺の木々は遠ざかり、森は一本ずつの樹ではなく、連なった緑の帯になった。
帆の影が甲板を横切る。
陽の当たる場所は暖かいのに、風は思ったより冷たかった。
ノクティアが外套の前を合わせる。
ゼフィーリアは髪を押さえ、眩しそうに目を細めていた。人間の姿に見せた彼女がこうして座っていると、通りすがりの旅人には、ただの若い女に見えるだろう。
僕らを見ている者は、特にいなかった。
船乗りたちは仕事をしている。
同乗した商人は荷札を数え直し、少し離れたところに座る旅人は、丸めた外套を枕にして眠っていた。
僕らの事情など、誰も知らない。
それが、少し不思議だった。
卓で冒険をしていた時は、僕らの相談が話の中心だった。行き先を決めれば、その行き先の話が始まる。
ここでは、僕らが何を相談していても、船は荷を運び、商人は勘定し、眠い人間は眠る。
その中へ混ざっていられることが、今はありがたい。
「いい風ですね」
オトフリートが言った。
「船乗りみたいなこと言うね」
「いえ。単に、気持ちがよいという意味です」
「それなら僕も同意」
しばらく、誰も話さなかった。
水を切る音が続く。
あんな地下で、あれだけ死者の声を聞いた後だ。
何も襲ってこない時間には、もっと喜んでいいのかもしれない。
*
昼の食事は、持ち込んだパンと干した肉だった。
揺れる船で刃物を使うのが嫌で、出発前に小さく分けておいた。包みを開いて回すだけなら、手間もかからない。
ゼフィーリアが肉を一切れ取り、僕の手元を見た。
「よく食べますね」
「これから歩くから」
「今日は、座っている時間の方が長そうですが」
「明日の分も」
「明日の食事も、ありますよ」
その辺りでノクティアが包みを回収した。
僕は抗議せず、水袋を取った。
船に乗っただけで腹が減るのは、きっと風のせいだ。
食事の途中、荷を見ていた商人が、こちらへ話しかけてきた。
「兄さんたちも、ザインへ?」
僕は水袋を口から離した。
「その先へ行くつもりです。オランまで」
「遠いな。商いか?」
「調べ物です」
オトフリートが答えた。
僕の指が、水袋の口で止まった。
彼は続けた。
「古い建築や、採掘場のことを」
「学者さんか」
「ええ、まあ」
商人は特に驚かなかった。
オトフリートの服装も、話し方も、それで納得できるものだったのだろう。
「なら、向こうの役人には気をつけな。いちいち荷を開かされると、日が暮れる」
「よくあるのですか?」
「俺は、何度か待たされた。そっちの事情は知らんがね」
商人はそこで言葉を切り、自分の木箱へ目を戻した。
噂話を膨らませたいわけではないらしい。
ノクティアが、何気ない調子で尋ねた。
「船着きにも来る?」
「荷を扱う場所なら、来ることはあるだろう。いつ来るかまで、俺が知ってたら楽なんだが」
軽く笑って、それで話は終わった。
僕らも、質問を重ねなかった。
関所の兵について根掘り葉掘り尋ねる四人組は、覚えられてしまう。
欲しい情報ほど、聞き方を考える必要があった。
*
商人が離れてから、僕はオトフリートへ身を寄せた。
「今、ちょっと緊張した」
「調べ物をしているのは、本当ですから」
「うん。僕が勝手に」
彼は、杖を握り直した。
「ただ、荷を詳しく見られれば、隠し通せるとは思っていません」
小さな声だった。
僕は頷く。
研究書も、魔法の道具もある。
何より、彼自身が魔術師なのだ。
少し服を変えただけで、すべてなかったことにはできない。
「だから、関所へ行かない」
ノクティアが言った。
「下りてから迷うと、目立つ。岸で地図を広げないように、今のうちに覚える」
彼女は荷物の陰で、老人の略図を開いた。
小川。
橋。
荷車の待機場所。
それらは坑道へ近づいた時の目印だ。船着き場から、そこまでの道は、まだ粗い説明しかない。
オトフリートも覗き込んだ。
「船着きから先は、古い運搬路へ出るところが最初の問題ですね」
「道が残っていれば、荷車の幅があるはず」
ノクティアが答える。
「ただ、今も車が通っているとは限らない」
「最近の轍と、昔の道は分けて見るよ」
僕が言うと、彼女は頷いた。
森へ入れば、僕にもできる仕事がある。
足跡や地形を読む。水を探す。人が通った場所と、獣が使う場所を見分ける。
地図に描かれた線を、そのまま地面へ押しつけるわけにはいかない。
どの道が、何のために使われていたのか。
そう考えて歩く方が、役に立つはずだった。
「急ぐ必要はありますが、急いで迷うのは困りますね」
ゼフィーリアが言った。
「うん。森で何日も探し回っていたら、関所を避けた意味がなくなる」
衛兵に見つかるかもしれない。
食料も減る。
危険なものに出会う可能性だって増える。
時間を使えば、その分だけ安全になる旅ではなかった。
*
午後になると、風が変わった。
船乗りたちが声を掛け合い、帆の向きが変わる。船体が傾いた時、僕は思わず荷物へ手をついた。
オトフリートが箱を押さえる。
ノクティアは足を踏ん張り、ゼフィーリアは船縁から身を離した。
何事もなかったように、船は進んだ。
働いていた船乗りが、こちらを見て笑う。
「そんな顔するな。まだ湖だぞ」
まだ、という言葉は聞かなかったことにしたかった。
湖面の色が、朝とは違って見える。
岸が少し近づいていた。
木々の間に、低い屋根がある。細い煙が上がり、その下には桟橋らしい影が伸びていた。
船頭が、僕らへ顎を向けた。
「あそこで下りるんだったな」
僕は立ち上がりかけ、上を通る綱を見て、座ったまま答えた。
「はい」
「荷を動かすまで、待ってろ。客が先に騒ぐと邪魔だ」
「わかりました」
オトフリートが包みを確かめる。
ノクティアは略図を畳み、すぐ出せる場所へしまった。
ゼフィーリアも、外套を整える。
湖上の時間が終わろうとしていた。
*
船着き場は、大きなものではなかった。
岸へ並んだ倉。積み上げられた薪。干してある網。
桟橋の端では、男が二人、こちらの船を待っている。商人が声を掛けると、片方が手を上げた。
少なくとも、僕らを待っている様子ではない。
僕はそのことに安堵してから、安堵した自分を少し恥じた。
まだ、何も始まっていないのに。
岸へ綱が渡され、船が寄せられた。
荷を下ろす仕事が始まる。
僕らは指示された場所で待ち、邪魔にならなくなってから、順に岸へ上がった。
土を踏んだ途端、身体がまだ揺れている気がした。
「……陸、ありがたい」
僕が呟くと、オトフリートが深く頷いた。
「書き物をするには、やはりこちらがよいですね」
「あなた、揺れながらも読んでたもんね」
「同じ行を、何度か読みました」
それでも読むのか。
僕には真似できそうにない。
船賃を含む約束の精算を済ませ、船頭へ礼を言う。
彼は片手を上げただけで、すぐ荷の方へ戻った。
船の仕事は続く。
僕らだけが、ここから別の道へ進む。
ノクティアが、倉の向こうを見た。
荷車の通る道が一本、岸から奥へ伸びている。
その先には森があった。
「まず、あっち」
「うん」
僕は荷物を背負い直した。
腰元から、ごく小さな声がする。
「主よ。妾も、陸の方が好きじゃ」
「気が合うね」
思わず笑った。
エア湖は、背後で陽を返している。
この先では、道を外れる。
人の多い場所では口を慎み、森では足元を見て、関所へ続く街道から、古い荷運びの道へ。
ザインは、こっそり抜ける。
そう決めた僕らは、まず何でもない旅人の顔で、船着き場を後にした。