アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す   作:駄文亭

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第101話 湖上の旅人たち

 船が岸を離れた時、僕はようやく肩から力を抜いた。

 

 板張りの船縁。その向こうを、見慣れた町並みが少しずつ遠ざかっていく。荷を運ぶ人間も、声を張り上げる商人も、岸へ繫がれた小舟も、揺れる水面の向こうへ置き去りになった。

 

 船底から、低い軋みが伝わってくる。

 

 帆が風を受けた。

 

 頭上で布が鳴り、それまで緩んでいた綱が張る。

 

「……動いた」

 

「船ですからね」

 

 隣でオトフリートが言った。

 

「そういう意味じゃなくて」

 

 エピタフから戻って以来、荷物を調べ、資料を確かめ、道を相談していた。

 

 それが今、本当に次の旅になった。

 

 僕が言いたかったのは、そういうことだ。

 

 もっとも、感慨に浸れたのは短い間だった。

 

「そこの若いの、綱から足をどけろ!」

 

「はいっ!」

 

 慌てて下がる。

 

 足元の綱が引かれ、さっきまで僕の立っていた板の上を滑っていった。

 

 ノクティアが僕の袖を引いた。

 

「こっち。邪魔にならない」

 

 彼女に連れていかれたのは、荷を固めた場所の脇だった。

 

 水の上では、僕もただの慣れない客らしい。

 

     *

 

 乗せてもらったのは、荷を運ぶ船だった。

 

 旅人だけのために整えられた居場所は少ない。樽と木箱が先に場所を取り、その残りへ僕らが収まる。

 

 船頭とは出発前に話をつけていた。

 

 エア湖を下り、荷を下ろすために寄る船着き場で降りる。そこから古い運搬路を探す。

 

 森の奥へ船を寄せてもらうわけではない。

 

 岸から先は、僕らの足の仕事だった。

 

 建造書の箱は包みを重ね、ほかの荷物と一緒に動かないよう固定してある。

 

 オトフリートは、それをもう三度も確かめていた。

 

「さっきと変わってないよ」

 

「わかっています」

 

「じゃあ、どうして」

 

「確かめれば、安心できます」

 

 理解できる答えだった。

 

 僕も、腰のベラへ手を添えた。

 

「主よ」

 

 声は、ごく小さかった。

 

 岸では静かにしていろと頼んだが、船の上なら話していいと言った覚えもない。

 

 僕は身を屈め、荷物を直すふりをした。

 

「何?」

 

「妾は泳げぬ」

 

「僕も、剣が泳ぐところは見たことない」

 

「落とすでないぞ」

 

 軽口を返しかけて、やめた。

 

 船縁の向こうには水がある。

 

 底は見えない。

 

 ここで剣を一本落とせば、潜って拾えばいいという話にはならないだろう。

 

 僕は鞘の吊り具を確かめ、座る位置を少し内側へ変えた。

 

「落とさないよ」

 

「うむ」

 

 それきり、ベラは黙った。

 

 今日は珍しく、普通の剣でいてくれる気になったらしい。

 

     *

 

 エア湖へ出ると、景色が開けた。

 

 水面を渡る風に、細かな波が幾重にも走っている。岸辺の木々は遠ざかり、森は一本ずつの樹ではなく、連なった緑の帯になった。

 

 帆の影が甲板を横切る。

 

 陽の当たる場所は暖かいのに、風は思ったより冷たかった。

 

 ノクティアが外套の前を合わせる。

 

 ゼフィーリアは髪を押さえ、眩しそうに目を細めていた。人間の姿に見せた彼女がこうして座っていると、通りすがりの旅人には、ただの若い女に見えるだろう。

 

 僕らを見ている者は、特にいなかった。

 

 船乗りたちは仕事をしている。

 

 同乗した商人は荷札を数え直し、少し離れたところに座る旅人は、丸めた外套を枕にして眠っていた。

 

 僕らの事情など、誰も知らない。

 

 それが、少し不思議だった。

 

 卓で冒険をしていた時は、僕らの相談が話の中心だった。行き先を決めれば、その行き先の話が始まる。

 

 ここでは、僕らが何を相談していても、船は荷を運び、商人は勘定し、眠い人間は眠る。

 

 その中へ混ざっていられることが、今はありがたい。

 

「いい風ですね」

 

 オトフリートが言った。

 

「船乗りみたいなこと言うね」

 

「いえ。単に、気持ちがよいという意味です」

 

「それなら僕も同意」

 

 しばらく、誰も話さなかった。

 

 水を切る音が続く。

 

 あんな地下で、あれだけ死者の声を聞いた後だ。

 

 何も襲ってこない時間には、もっと喜んでいいのかもしれない。

 

     *

 

 昼の食事は、持ち込んだパンと干した肉だった。

 

 揺れる船で刃物を使うのが嫌で、出発前に小さく分けておいた。包みを開いて回すだけなら、手間もかからない。

 

 ゼフィーリアが肉を一切れ取り、僕の手元を見た。

 

「よく食べますね」

 

「これから歩くから」

 

「今日は、座っている時間の方が長そうですが」

 

「明日の分も」

 

「明日の食事も、ありますよ」

 

 その辺りでノクティアが包みを回収した。

 

 僕は抗議せず、水袋を取った。

 

 船に乗っただけで腹が減るのは、きっと風のせいだ。

 

 食事の途中、荷を見ていた商人が、こちらへ話しかけてきた。

 

「兄さんたちも、ザインへ?」

 

 僕は水袋を口から離した。

 

「その先へ行くつもりです。オランまで」

 

「遠いな。商いか?」

 

「調べ物です」

 

 オトフリートが答えた。

 

 僕の指が、水袋の口で止まった。

 

 彼は続けた。

 

「古い建築や、採掘場のことを」

 

「学者さんか」

 

「ええ、まあ」

 

 商人は特に驚かなかった。

 

 オトフリートの服装も、話し方も、それで納得できるものだったのだろう。

 

「なら、向こうの役人には気をつけな。いちいち荷を開かされると、日が暮れる」

 

「よくあるのですか?」

 

「俺は、何度か待たされた。そっちの事情は知らんがね」

 

 商人はそこで言葉を切り、自分の木箱へ目を戻した。

 

 噂話を膨らませたいわけではないらしい。

 

 ノクティアが、何気ない調子で尋ねた。

 

「船着きにも来る?」

 

「荷を扱う場所なら、来ることはあるだろう。いつ来るかまで、俺が知ってたら楽なんだが」

 

 軽く笑って、それで話は終わった。

 

 僕らも、質問を重ねなかった。

 

 関所の兵について根掘り葉掘り尋ねる四人組は、覚えられてしまう。

 

 欲しい情報ほど、聞き方を考える必要があった。

 

     *

 

 商人が離れてから、僕はオトフリートへ身を寄せた。

 

「今、ちょっと緊張した」

 

「調べ物をしているのは、本当ですから」

 

「うん。僕が勝手に」

 

 彼は、杖を握り直した。

 

「ただ、荷を詳しく見られれば、隠し通せるとは思っていません」

 

 小さな声だった。

 

 僕は頷く。

 

 研究書も、魔法の道具もある。

 

 何より、彼自身が魔術師なのだ。

 

 少し服を変えただけで、すべてなかったことにはできない。

 

「だから、関所へ行かない」

 

 ノクティアが言った。

 

「下りてから迷うと、目立つ。岸で地図を広げないように、今のうちに覚える」

 

 彼女は荷物の陰で、老人の略図を開いた。

 

 小川。

 

 橋。

 

 荷車の待機場所。

 

 それらは坑道へ近づいた時の目印だ。船着き場から、そこまでの道は、まだ粗い説明しかない。

 

 オトフリートも覗き込んだ。

 

「船着きから先は、古い運搬路へ出るところが最初の問題ですね」

 

「道が残っていれば、荷車の幅があるはず」

 

 ノクティアが答える。

 

「ただ、今も車が通っているとは限らない」

 

「最近の轍と、昔の道は分けて見るよ」

 

 僕が言うと、彼女は頷いた。

 

 森へ入れば、僕にもできる仕事がある。

 

 足跡や地形を読む。水を探す。人が通った場所と、獣が使う場所を見分ける。

 

 地図に描かれた線を、そのまま地面へ押しつけるわけにはいかない。

 

 どの道が、何のために使われていたのか。

 

 そう考えて歩く方が、役に立つはずだった。

 

「急ぐ必要はありますが、急いで迷うのは困りますね」

 

 ゼフィーリアが言った。

 

「うん。森で何日も探し回っていたら、関所を避けた意味がなくなる」

 

 衛兵に見つかるかもしれない。

 

 食料も減る。

 

 危険なものに出会う可能性だって増える。

 

 時間を使えば、その分だけ安全になる旅ではなかった。

 

     *

 

 午後になると、風が変わった。

 

 船乗りたちが声を掛け合い、帆の向きが変わる。船体が傾いた時、僕は思わず荷物へ手をついた。

 

 オトフリートが箱を押さえる。

 

 ノクティアは足を踏ん張り、ゼフィーリアは船縁から身を離した。

 

 何事もなかったように、船は進んだ。

 

 働いていた船乗りが、こちらを見て笑う。

 

「そんな顔するな。まだ湖だぞ」

 

 まだ、という言葉は聞かなかったことにしたかった。

 

 湖面の色が、朝とは違って見える。

 

 岸が少し近づいていた。

 

 木々の間に、低い屋根がある。細い煙が上がり、その下には桟橋らしい影が伸びていた。

 

 船頭が、僕らへ顎を向けた。

 

「あそこで下りるんだったな」

 

 僕は立ち上がりかけ、上を通る綱を見て、座ったまま答えた。

 

「はい」

 

「荷を動かすまで、待ってろ。客が先に騒ぐと邪魔だ」

 

「わかりました」

 

 オトフリートが包みを確かめる。

 

 ノクティアは略図を畳み、すぐ出せる場所へしまった。

 

 ゼフィーリアも、外套を整える。

 

 湖上の時間が終わろうとしていた。

 

     *

 

 船着き場は、大きなものではなかった。

 

 岸へ並んだ倉。積み上げられた薪。干してある網。

 

 桟橋の端では、男が二人、こちらの船を待っている。商人が声を掛けると、片方が手を上げた。

 

 少なくとも、僕らを待っている様子ではない。

 

 僕はそのことに安堵してから、安堵した自分を少し恥じた。

 

 まだ、何も始まっていないのに。

 

 岸へ綱が渡され、船が寄せられた。

 

 荷を下ろす仕事が始まる。

 

 僕らは指示された場所で待ち、邪魔にならなくなってから、順に岸へ上がった。

 

 土を踏んだ途端、身体がまだ揺れている気がした。

 

「……陸、ありがたい」

 

 僕が呟くと、オトフリートが深く頷いた。

 

「書き物をするには、やはりこちらがよいですね」

 

「あなた、揺れながらも読んでたもんね」

 

「同じ行を、何度か読みました」

 

 それでも読むのか。

 

 僕には真似できそうにない。

 

 船賃を含む約束の精算を済ませ、船頭へ礼を言う。

 

 彼は片手を上げただけで、すぐ荷の方へ戻った。

 

 船の仕事は続く。

 

 僕らだけが、ここから別の道へ進む。

 

 ノクティアが、倉の向こうを見た。

 

 荷車の通る道が一本、岸から奥へ伸びている。

 

 その先には森があった。

 

「まず、あっち」

 

「うん」

 

 僕は荷物を背負い直した。

 

 腰元から、ごく小さな声がする。

 

「主よ。妾も、陸の方が好きじゃ」

 

「気が合うね」

 

 思わず笑った。

 

 エア湖は、背後で陽を返している。

 

 この先では、道を外れる。

 

 人の多い場所では口を慎み、森では足元を見て、関所へ続く街道から、古い荷運びの道へ。

 

 ザインは、こっそり抜ける。

 

 そう決めた僕らは、まず何でもない旅人の顔で、船着き場を後にした。

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