アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
巨人の手が、階段の角を掴んだ。
爪の欠けた指が曲がり、石へ食い込む。
次の瞬間、腐った肩が持ち上がった。
天井に頭がぶつかる。
鈍い音とともに砂が降ったが、ジャイアントゾンビは止まらなかった。首を横へ傾け、顔を岩へ擦りつけながら、なおも身体を引き上げようとする。
痛みが、動きを止めない。
こういう時、アンデッドという相手の嫌らしさを実感する。
生きていれば躊躇する狭さでも、骨が引っ掛かるまで進んでくる。
「右、来る」
ノクティアの声がした。
巨人の肩が動く。
僕は盾を上げた。
腐った腕が、低い天井を擦りながら伸びてくる。
受け止めるつもりはなかった。
盾の面を傾け、腕を外へ流す。
それでも、衝撃は重かった。
左肩が押し込まれ、靴底が砂の上を滑る。
巨人の指が盾の縁を掻いた。
掴まれる。
そう思った瞬間、盾を引き、身体ごと斜めへ逃がした。
指が空を切る。
僕は踊り場の奥へ一歩退いた。
「……重いな、くそっ」
弱い相手なら狭い場所へ誘い込めばいい。
そんな雑な話ではなかった。
狭い場所にいても、大きいものは大きかった。
*
巨人が次の手を伸ばす前に、僕はベラを振った。
刀身が手首へ食い込む。
腐った肉が裂け、骨へ硬い手応えが返った。
切り離せてはいない。
僕は欲張らず、剣を抜いた。
「下がれますか」
オトフリートの声。
「いける!」
僕は壁際へ身を寄せた。
後ろから、杖の先が見えた。
「全知全能たる万能たるマナよ——」
詠唱が石壁に反響する。
巨人の顔が、声の方へ向いた。
僕を越えて、オトフリートを見ている。
その顎が上がりきる前に、魔力の矢が走った。
光が腐った胸へ撃ち込まれる。
肉が裂け、巨体が揺れた。
だが、倒れない。
壁へ肩をぶつけ、崩しかけた姿勢を、力任せに戻してくる。
僕はすぐに元の位置へ出た。
魔術師の前を空けたままにはできない。
「もう一度、撃ちます」
「待って。腕を見て」
傷ついた右手ではなく、左腕が上がっていた。
肘を曲げる余地がないせいで、動きが大きい。
僕はその肩を見て、踏み出す時を測った。
*
ノクティアは、僕のすぐ後ろにはいなかった。
踊り場の脇へ身体を寄せ、巨人の腕が届く範囲を見ていた。
僕が退いた時にぶつからない。
それでいて、床へ落ちた石や、背後の段差を知らせてくれる位置だった。
「踵、石」
短い声に、足を置く場所を変える。
視線を下げずに済んだ。
その小さな助けが、今はありがたかった。
巨人の左腕が伸びる。
僕は半歩退き、掴もうとする手を避けた。
指先が胸の前を通る。
近い。
悪臭が、顔へ押しつけられたようだった。
しかし、避ければ終わりではない。
腕を引かれる前に、僕はベラを下から斬り上げた。
手首の内側が裂ける。
巨人の腕が落ちた。
切断したのではない。力を失った腕が、階段へ叩きつけられたのだ。
その上へ、巨体の重さがかかる。
ゾンビが前へ崩れた。
「主よ!」
ベラが叫んだ。
僕は跳び退いた。
巨人の額が、踊り場の縁へぶつかった。
石が鳴る。
爪先へ、砕けた欠片が飛んだ。
あと少し残っていたら、足を下敷きにされていた。
「倒れた時も危ないのかよ……!」
文句を言っても、相手は聞いてくれない。
巨人は、顔を床へ擦りつけたまま、腕を引き寄せようとしていた。
*
その頭が、目の前にあった。
僕はベラを持った右手を見た。
剣。
盾。
ここまでの戦い方を、そのまま続ける必要はない。
「ベラ、持ち替える」
「よい!」
僕は一歩下がって盾を外し、ノクティアへ渡した。
彼女は受け取った盾を脇へ寄せ、僕の退路を空ける。
ベラを左手へ持ち替えた。
右の拳を握る。
黄ばんだ気配が、巨人の身体へ絡みついていた。
かつて生きていた肉を、今も無理に動かしているもの。
僕の右手は、それに届く。
ただし、殴れるところまで近づけば、向こうも僕に触れられる。
巨人の右腕が動いた。
僕は踏み込まず、待った。
焦るな。
ここで勝手に飛び込んで掴まれたら、仲間がどうにもできなくなる。
「腕を押さえます」
ゼフィーリアの声が聞こえた。
祈りが続く。
僕は彼女の方を振り返らず、巨人の肩を見ていた。
その肉体に、暗黒の神へ捧げられた祈りが作用した。
傷が開き、巨人の動きが乱れる。
持ち上がりかけた肘が、石へ落ちた。
今だ。
僕は一段だけ下りた。
左手のベラを身体の外へ逃がし、右の拳を振り下ろす。
巨人の顔へ、拳が当たった。
*
硬い感触があった。
その奥で、何かが崩れる。
骨だけではない。
死体を動かしていた力へ、右手が食い込んだ。
黄色い気配が乱れた。
巨人の口が開く。
声にならない空気が、喉から漏れた。
僕は拳を引き、すぐに退こうとした。
その足首へ、指が触れた。
右腕。
まだ動いている。
靴の外側を、太い指が滑った。
掴まれる前に足を引く。
しかし、踵が段の角へぶつかった。
身体が後ろへ傾く。
「ルクスン!」
ノクティアが、背中の衣服を掴んだ。
引き上げるほどの力ではない。
それでも、倒れる向きが変わった。
僕は左肩を壁へぶつけ、そこで身体を止めた。
巨人の手が、目の前を掠める。
その胸へ、二本目の魔力の矢が突き立った。
オトフリートの声が、まだ耳に残っていた。
巨体が痙攣する。
右手の指が開いた。
黄色い気配が、薄れていく。
僕は壁へ背をつけたまま、それが完全に消えるまで見ていた。
巨人は、もう動かなかった。
*
誰も、すぐには喋らなかった。
水の落ちる音がする。
自分の呼吸が、やけに大きい。
僕はベラを右手へ持ち直し、床へ座り込みそうになるのを堪えた。
「……ありがとう」
ノクティアへ言った。
彼女は僕の背中から手を離した。
「服、少し伸びた」
「伸びたくらいで済んで、よかった」
「うん」
ゼフィーリアが近づき、僕の左肩へ目を向けた。
「動かせますか」
動かした。
痛い。
盾で受けた時と、壁へぶつけた時の痛みが、今になって重なってきた。
「動くけど、あんまり嬉しくない」
「では、無理に回さないでください」
彼女は必要なところだけ確かめ、祈った。
肩の奥にあった熱が和らいでいく。
息を吐くと、身体の強張りも少し抜けた。
「助かった」
「次は、退く段の高さも覚えておいてください」
「はい」
僕は素直に頷いた。
敵の動きばかり見て、自分の足を置く場所まで忘れかけていた。
知識で相手を知っていても、それで全部うまくいくわけではない。
それは、今さら教わるような話ではなかったのだが。
「主よ」
ベラが言った。
「妾を左手へ持ち替えた後も、刀身を壁へぶつけなんだな」
「そこは頑張った」
「うむ。褒めてつかわす」
「もっと心を込めて」
「調子に乗るでない」
少しだけ、笑えた。
*
ジャイアントゾンビは、階段を塞いでいた。
肩が狭い壁の間に挟まり、頭と片腕だけが上へ出ている。
引きずり出せる大きさではない。
「下へは通れませんね」
オトフリートが言った。
「下へ行く用事は、なくなったよ」
僕は横の点検通路を見た。
さっき引き返した、縦穴の壁を渡る道。
下から手が伸びてこなければ、まだ通る見込みはある。
ノクティアが先に確認し、僕らは縄を使って、一人ずつ向こうへ移った。
僕は渡る前に、穴の底を見た。
折れた木材と石の間に、小さな骨があった。
頭蓋骨。
肋骨。
あの巨体とは、大きさが違う。
灯りを追った者が、僕らより前にもいたのかもしれない。
僕は目を閉じず、骨の位置を覚えた。
今は、降りて拾い上げることもできなかった。
*
向こう側の階段を上ると、板を敷いた穴の先へ出た。
橙色の灯りは消えていた。
僕は周囲へ目を走らせたが、見える範囲に黄色い気配はない。
「逃げた?」
ノクティアが尋ねる。
「少なくとも、ここにはいない」
「追わない」
「うん」
ジャック・オー・ランタンを仕留めたわけではない。
次の曲がり角で、また会うかもしれない。
そのことは、全員で確かめた。
灯りが見えても近づかない。
僕が先に正体を見て、ノクティアが足元を調べる。
一度見破ったから、次も同じ仕掛けだと決めつけない。
僕は地図へ穴と点検通路を書き足した。
紙の上では、短い迂回だった。
実際には、肩を傷め、魔法を使い、全員で息を詰めて渡った道だった。
その違いまでは、線では書けなかった。
*
その先の通路には、荷車の車輪が擦った跡が残っていた。
曲がり角の外側だけ、壁の低い部分が磨かれている。角へぶつけないよう削り広げた場所もあった。
運搬路は続いている。
僕らは足を進めた。
やがて、先頭のノクティアが手を上げた。
またアンデッドかと身構えたが、彼女が示したのは床だった。
砂の上に、跡がある。
大きな足の形。
腐った肉が擦れた跡ではなかった。
輪郭が、硬い。
足を引きずったところでは、石の表面に新しい傷が走っていた。
僕は屈んだ。
穴の底の巨人とは、違う。
この足は、重いものが、形を崩さずに踏んでいる。
オトフリートが、僕の横で床を見た。
「……鉄でしょうか」
「たぶん」
答えた時、奥から音がした。
ごん。
間を置いて、もう一度。
ごん。
金属が、石の床へ置かれる音だった。
腰元でベラが囁いた。
「主よ。こちらも、狭いところへ誘うか?」
僕は通路の幅を見た。
壁には、長く深い擦り傷が続いている。
それをつけたものは、この狭さを通ってきたのだ。
「……まず、どこまで来るか見よう」
剣の柄を握り直す。
思い出していた障害が、ようやく足音を立てて現れた。