アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
坑道を出ても、すぐには街道へ戻らなかった。
木々の間を歩き、関所から伸びる道を遠くに見ながら進む。
道がある。
平らで、幅があり、枝を避ける必要もない。
そのありがたみは、使えない時ほどよくわかった。
足元の根を跨ぎ、低い枝を手で持ち上げる。後ろから来るオトフリートが抜けるまで待って、枝を戻す。
それを何度か繰り返したところで、ノクティアが立ち止まった。
「ここからなら、戻れる」
木々の向こうに街道が見えた。
関所はもう見えない。
風に乗って人の声も届いてこなかった。
僕は頷きかけ、仲間を見た。
土のついた靴。
岩へ擦った荷物。
裂けた僕の外套。
そして、死体の臭い。
「その前に、少し何とかしよう」
ゼフィーリアが、僕の右手へ視線を落とした。
「賛成です。特に、その手を」
骨を殴った手だった。
僕は黙って水袋を出した。
*
洗うといっても、使える水には限りがある。
布を湿らせて手を拭き、顔の汚れを落とす。服についた土は、乾いているところから払った。
ノクティアが、僕の背中へ回った。
「動かないで」
「何かついてる?」
「枝」
引き抜かれる感触があった。
次に、小石が一つ落ちた。
さらに、枯れ葉。
「僕、森を運んでた?」
「少し」
ゼフィーリアが口元を押さえた。
オトフリートは自分の袖を見て、それから黙って裾を払った。
裂けた外套は、きれいには戻らない。
ひらひらして枝へ引っ掛かる部分だけ、内側へ折って留める。
怪しいものを隠すためではなく、歩きやすくするための手入れだったが、それだけでも随分と見た目が変わった。
「杖は、どうしましょうか」
オトフリートが尋ねた。
僕は彼の手元を見た。
今さら全部の魔法の道具を隠せるわけではない。
慌てて荷物へ押し込んでも、いざ必要になった時に困る。
「普通に持っていて。聞かれてもいないのに、こっちから説明しない。それくらいで」
「わかりました」
彼は頷いた。
ゼフィーリアも外套を整える。
ノクティアは最後に、僕の腰を指した。
「ベラ」
「わかっておる」
返事がした。
「今から黙る」
僕らは顔を見合わせた。
そして、街道へ出た。
*
道を歩くだけで、こんなに楽なのか。
数歩進んだところで、僕はそう思った。
傾斜はあっても、足を置く場所を一歩ごとに探す必要がない。天井を気にせず立てる。荷物が壁に擦れない。
何より、相手の顔を見ながら話せる。
僕らは声を潜めるのをやめた。
「夕方までに、泊まる場所があるといいね」
「屋根があれば、ありがたいですね」
オトフリートが答える。
「私は湯を希望します」
ゼフィーリアが言った。
「僕も。できれば、ちゃんと座って食べられるものも」
「今も座って食べた」
ノクティアの指摘に、首を振る。
「地面以外で」
そんな話をしているうちに、前方から荷車が来た。
荷台には籠が積まれている。
僕らは道の端へ寄った。
御者がこちらを見て、軽く顎を引く。
「どうも」
僕も挨拶した。
荷車は、そのまま通り過ぎた。
車輪の音が遠ざかる。
僕は、無意識に止めていた息を吐いた。
「見すぎ」
ノクティアが小声で言った。
「荷車を?」
「行った後まで」
「……気をつけます」
何でもない旅人になるのは、意外と難しかった。
*
しばらく進むと、道端に小さな集落があった。
旅籠と呼ぶには小さいが、食事を出す家がある。
軒先には水桶が置かれ、荷車を寄せる場所もあった。戸口から漂う煮炊きの匂いに、腹が鳴った。
僕の腹だった。
誰も何も言わない。
その沈黙が、かえってつらい。
「……食べようか」
「そうですね」
オトフリートが、非常に穏やかに答えた。
中には、先客がいた。
仕事帰りらしい男が二人。
旅装の男女。
奥の席には、槍を壁へ立て掛けた男が座っていた。
僕はそちらへ目を向け、すぐに店の人へ視線を戻した。
槍を持っているからといって、衛兵とは限らない。
衛兵だったとしても、僕らを捕まえるために座っているとは限らなかった。
「四人です。食事はできますか」
「煮込みとパンなら。泊まりかい?」
店の女が尋ねる。
僕は仲間を見た。
ノクティアが、わずかに頷いた。
「部屋があれば」
「上が空いてる。荷物を置くなら、先に手を洗っておいで。床へ泥を上げないでくれると助かるよ」
僕は素直に従った。
魔術師かどうかより、今は靴の方が問題だったらしい。
*
煮込みには、豆と根菜、それに小さな肉片が入っていた。
湯気が顔へ当たる。
木の匙を取った時、ようやく指の力が抜けた。
オトフリートは、最初の一口を飲み込んでから目を閉じた。
「……温かいですね」
「うん」
それだけで、しばらく会話が止まった。
ノクティアは食べながらも、戸口へ目を向けることを忘れない。
ゼフィーリアは姿勢を崩さず、ゆっくり匙を動かしていた。ただ、器が空になるまでの時間は、僕とそう変わらなかった。
僕はパンを割り、汁へ浸した。
これを食べるために、あの鉄の拳を避けてきた。
そう言われても、今なら納得できそうだった。
奥の席で、槍を持った男が立った。
椅子が鳴る。
僕は匙を止めそうになり、何とかそのまま口へ運んだ。
男は代金を払い、店の女へ何か言って、出ていった。
僕らの席には、来なかった。
その背中を、今度は追わなかった。
*
「どっちから来たんだい?」
空いた器を下げながら、店の女が尋ねた。
「湖の方からです」
僕が答える。
それは、本当だった。
「船かい。今日は風がよかったろう」
「ええ。ただ、慣れなくて。陸へ上がってもしばらく揺れてる気がしました」
「ああ、あるねえ」
女は笑った。
「これから先は?」
「オランへ」
「そりゃ、まだ歩くね。靴は大事にしなよ」
言いながら、彼女は僕の外套の裂け目を見た。
「服もね」
「はい」
返事が、少し小さくなった。
何を研究しているのか。
何の神へ祈るのか。
どの道を通ってきたのか。
そこまでは聞かれなかった。
旅人が来て、食べて、泊まる。
この家にとっては、それで十分なのだろう。
僕は器の底に残った汁を、パンで拭った。
*
部屋へ入って戸を閉めた途端、ベラが言った。
「長い!」
僕は危うく吹き出すところだった。
「よく我慢したね」
「食事中まで黙っておったのじゃぞ!」
「剣は食べないから、話す必要もないでしょう」
ゼフィーリアが荷物を下ろしながら言う。
「食べぬからこそ、話すしかないではないか!」
筋は通っている。
通っている気もする。
僕はベラを腰から外し、布を敷いた卓へ置いた。
「今日は助かったよ。本当に」
剣が、少し黙った。
「……うむ」
機嫌は直ったらしい。
その間に、ノクティアは窓と戸を確かめていた。
オトフリートは建造書の箱を開けず、外側の包みだけを見る。
濡れていない。
壊れていない。
それを確かめると、椅子へ腰を下ろした。
深い息が出た。
僕も、ようやく荷物を床へ置いた。
*
眠る前に、地図を書き直した。
歩きながらつけた線は歪み、文字はところどころ読みにくくなっていた。
ノクティアが横から指を伸ばす。
「そこの階段、曲がってる」
「どっちへ?」
「下りて右。今の書き方だと、穴の向こうへ出る」
「危ない地図だなあ」
「だから、今直す」
オトフリートも加わった。
入口を基準に、上った場所と下った場所を並べる。
平面図だけでは重なってしまう通路を、別に描き分ける。
僕らが通った道が、ようやく紙の上でもつながった。
老人へ送る手紙も、下書きを作った。
橋のこと。
坑道を抜けられたこと。
死者と、動く鉄の番人が残っていること。
安全な道として人へ教えられる状態ではないこと。
書いていると、ゼフィーリアが僕の手元を見た。
「原石らしいものを見つけたことは?」
「……書く」
「黙っておくのかと思いました」
「そんなことしないよ」
場所は書く。
価値は、わからないと書く。
自分が見たことだけを伝える。
老人との約束は、それだった。
最後まで書いてから、僕は筆を置いた。
手紙を託すのは、送り先まできちんと届けられる便が見つかってからだ。
今は紙を乾かし、地図とは別にしまっておく。
*
窓の外が暗くなっていた。
階下では、まだ人の声がする。
誰かが笑い、食器が鳴った。
坑道の音とは違う。
聞こえても、剣へ手を伸ばさずに済む音だった。
僕は寝台へ腰を下ろし、靴を脱いだ。
足が、急に自分のものへ戻った気がした。
「今日は、ここまでだね」
オトフリートが頷く。
「ええ。明日、また進みましょう」
ゼフィーリアが灯りを調整し、ノクティアが窓の鎧戸を閉じた。
僕はベラを、手の届く場所へ置いた。
「おやすみ」
「主よ」
「何?」
「明日は、何でもない道を歩くのじゃな?」
僕は少し考えた。
約束できるほど、この先を知っているわけではない。
だから、正直に答えた。
「できるだけ」
「頼りない返事じゃ」
「でも、嘘じゃない」
ベラは、それ以上文句を言わなかった。
階下から、また笑い声がした。
今夜の僕らは、この家に泊まった四人の旅人だ。
僕は外套の裂け目を見て、明日は針仕事もしなければと思った。
巨人でもゴーレムでもない、そういう用事があることが、今は少し嬉しかった。