アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
朝、外套の裂け目を縫った。
針を通し、糸を引く。
もう一度、針を通す。
布が妙に寄った。
「……何で?」
ノクティアが、向かいから手元を見ていた。
「引きすぎ」
「緩いと、すぐ切れない?」
「布が縮むほど引かなくていい」
言われた通りに少し戻す。
裂け目は塞がったが、傷跡のような縫い目が残った。
僕は外套を持ち上げた。
着られる。
引っ掛かりもしない。
十分だろう。
「味があるの」
卓の上のベラが言った。
「慰めてる?」
「傷を隠しきれぬところが、主に似合う」
「褒められた気がしないなあ」
ゼフィーリアが、僕の横から針を取った。
「最後の糸を留めてください。そのまま切ると、ほどけます」
戦いでは何とか生き延びても、外套一枚を直すのに全員の助けがいる。
僕は言われた通りに糸を留めた。
*
宿を出る時、店の女が包みを渡してくれた。
頼んでおいた旅の食事だった。
「道で食べるなら、先にこっちを食べな。日持ちしないから」
包みの端を指され、僕は頷いた。
食事と宿代を精算する。
金額を控えた紙をしまい、荷物を背負う。
「気をつけて」
「お世話になりました」
そうして外へ出た。
何も起こらなかった。
夜中に戸を叩かれることも、朝になって衛兵が来ることもなかった。
道へ出てから、僕は一度だけ宿を振り返った。
女はもう、別の客へ声を掛けていた。
僕らの旅がどれだけ面倒でも、あの家の朝は続いていく。
「行こう」
ノクティアに促され、僕は前を向いた。
*
その日の街道は、よく乾いていた。
足取りが軽い。
少なくとも、昨日よりは。
オトフリートも疲れた顔をしていなかった。肩へ荷物を掛け直し、道端に咲く花を眺める余裕まである。
僕は彼の横へ並んだ。
「眠れた?」
「ええ。寝台というものの価値を、改めて知りました」
「僕も」
「ただ、夢の中でずっと階段を上っていました」
「それは、休めてるのかな」
彼は少し考えた。
「目覚めた時には、上り終えていましたので」
なら、よかったのかもしれない。
ベラが何か言いそうになった気配を感じ、僕は柄へ指を置いた。
前方に、人がいた。
荷車が一台、道の端へ傾いている。
その周りを、男が二人動き回っていた。
近づくと、車輪の片方が路肩へ落ちているのがわかった。
車を避けたのか、端へ寄せすぎたのか。
柔らかい土へ沈んだ車輪が、荷台を斜めにしていた。
「止まれ、引くな! 軸を折る!」
年嵩の男が、馬の手綱を持つ若者へ叫んでいた。
僕らは少し手前で足を止めた。
*
通り抜けることはできた。
道の半分以上は空いている。
向こうも、僕らへ助けを求めてはいない。
僕は車輪と荷台を見た。
布を掛けた荷が、傾いた側へ寄っている。もう少し傾けば、荷台から崩れそうだった。
ノクティアが、僕を見た。
「手を貸す?」
「……少しだけなら」
「少しで済むかは、見てから」
もっともだった。
僕は荷車へ近づいた。
「押しましょうか」
男は振り返り、僕の肩と腕を見た。
「助かる。だが、待ってくれ。先に荷を下ろさねえと、戻してもまた落ちる」
話のわかる人でよかった。
僕らは荷台の布を外すのを手伝った。
袋が幾つも積まれている。
一つ持ち上げて、思わず息を詰めた。
重い。
冒険で鍛えた身体でも、重いものは重かった。
「腰から曲げない方がいいですよ」
オトフリートが隣で言った。
「わかってる」
返事をしながら、膝を曲げ直した。
彼も荷を抱えた。
杖は道の脇へ立て掛けている。
魔術師だからといって、持ち上げられないわけではない。
荷を下ろしながら、僕は彼が以前、剣の扱いも学んでいたことを思い出した。
研究書を抱え、眼鏡を直している姿ばかり見ていると、こちらが勝手に忘れてしまう。
*
「そのまま押すと、また土が崩れる」
ノクティアが車輪の脇で言った。
彼女は沈んだ場所と、道の固い部分を見比べていた。
「ここを埋めてから。石と、板があれば」
「板なら荷台にある」
男が答える。
僕と若者で石を集める。
ゼフィーリアは道の上へ下ろした袋を寄せ、通り道を空けていた。
オトフリートは、荷車の下を覗き込んだ。
「軸は、まだ大丈夫そうです。ですが、車輪だけを無理に持ち上げるのは避けた方が」
「持ち上げるなら、どこ?」
僕が尋ねる。
彼は車の枠を指した。
「こちらです。下へ手を入れずに」
男と相談し、長い棒を差し込む。
棒の下に石を置き、てこの支点にする。
見れば、やること自体は難しくなかった。
ただし、全員が勝手に力を入れたら危ない。
僕は男を見た。
「合図、お願いします」
「よし。馬はまだ引くな。……せえの!」
棒へ体重をかけた。
車が、少し浮く。
ノクティアが、横から石を入れる。
一度下ろす。
位置を確かめ、もう一度。
たったそれだけの作業で、背中へ汗が流れた。
*
蹄の音が聞こえたのは、その時だった。
道の先から、馬に乗った者が近づいてくる。
武器を帯びていた。
その後ろにも、一人。
僕は顔を上げかけた。
「手を離すな!」
男に怒鳴られ、慌てて棒へ体重を戻す。
車が軋んだ。
オトフリートも、隣で棒を押さえている。
視線が合った。
彼も気づいていた。
だが、手を離さなかった。
馬が近づく。
速度が落ちる。
「どうした」
騎乗の男が尋ねた。
荷車の持ち主が答える。
「見ての通りで。車輪を落としましてな。今、戻すところです」
「道を塞ぐなよ」
「荷は脇へ寄せております」
僕は棒を握ったまま、顔を上げなかった。
背中が熱い。
汗のせいだけではない。
目の前の車を浮かせている間に、何を聞かれるのか。
オトフリートの杖を見られたら。
荷物を開けろと言われたら。
考えはした。
けれど、そのどれにも答える前に、持ち主が声を上げた。
「もう一息だ! 押してくれ!」
僕は力を入れた。
オトフリートも、歯を食いしばった。
車輪が石へ乗る。
若者が馬を進ませた。
荷車が、大きく揺れた。
そして、固い道の上へ戻った。
*
棒を下ろした時には、騎乗の二人は先へ進んでいた。
誰も止められなかった。
荷物を開けられることもなかった。
僕は大きく息を吐いた。
その横で、オトフリートが掌を見ていた。
赤くなっている。
「痛めた?」
「少し擦れただけです」
彼は指を曲げ、また伸ばした。
「魔法を使うより、手間がかかりますね」
僕は声を落とした。
「使いたかった?」
「楽になる方法は、考えました」
眼鏡の奥の目が、少し笑った。
「ですが、私が楽をして、皆さんの旅が面倒になるのも困ります」
僕は何も言えず、彼の肩を軽く叩いた。
魔法を使えることは、彼の力だ。
使わないで働けることも、彼の力だった。
*
荷を戻し終えると、持ち主は何度も礼を言った。
銅貨を出そうとしたので、僕は首を振った。
「道を教えてください。この先、泊まれるところと、エレミアへ向かう道を」
「それくらい、いくらでも」
男は街道の先を指した。
僕らは説明を聞き、わかりにくい分かれ道だけを確かめた。
最後に、彼が僕の外套を見た。
「兄さんも、ひどく引っ掛けたな」
「ええ。ちょっと」
「森の枝は、欲張りだからな」
僕は笑って頷いた。
鉄の拳だったとは、言わなかった。
*
荷車と別れてから、ベラが小声で言った。
「主よ、銅貨を断るとは珍しい」
「貰うほどじゃないかなって」
「随分、汗をかいておったぞ」
「だから、道を聞いた」
ノクティアが横から言った。
「騎馬の二人が戻ってきたら、あの人が覚えてる」
僕は彼女を見た。
「僕らのこと?」
「荷車を戻した四人。少なくとも、森から出てきた怪しい四人じゃない」
なるほど。
そこまで考えていたわけではなかった。
ゼフィーリアが僕を見る。
「役に立つ口実ができましたね」
「口実のために助けたみたいに言わないでよ」
「では、親切心で?」
僕は少し黙った。
ベラが笑う。
ノクティアも、口元だけを緩めた。
「……あのままだと、車が壊れそうだったから」
「ええ。それで十分でしょう」
ゼフィーリアは、それ以上追及しなかった。
*
その後の道では、僕らは魔法を使わなかった。
水を汲み、火を熾し、食事を買い、靴の泥を落とす。
宿がなければ野営し、宿があれば、ほかの旅人と同じように代金を払って眠った。
オトフリートは野営の支度を手伝い、ゼフィーリアは疲れた足を休める時間を取った。
ノクティアと僕は、交代で道と周囲を見た。
誰も、必要以上に急がなかった。
ただし、長居もしなかった。
街道沿いで酒を飲み交わして、出身や仕事を詳しく語るようなことは避けた。
僕らの目的は、この国で顔を売ることではない。
通り抜けることだった。
*
ザインを離れたと確かめられた時、オトフリートは足を止めた。
僕も立ち止まった。
道の土が急に変わったわけではない。
木々も、風も、それまでと同じだ。
それでも、彼の表情は違っていた。
「……ようやくですね」
「うん」
僕は頷いた。
彼は杖を握り直した。
それから、自分の赤くなった掌を見て、少し笑った。
「これで、手を休められます」
「魔法で荷車を持ち上げる旅にするつもり?」
「できれば、荷車は落ちていない方が」
その返事に、全員が笑った。
僕は荷物を背負い直した。
まだオランではない。
建造書の中身を相談する相手にも会っていないし、塔を建てる準備が整ったわけでもない。
それでも、一つの国を越えた。
牢屋へ入らず、仲間を失わず。
ベラが、ようやく遠慮のない声を出した。
「主よ!」
「何?」
「今度こそ、普通に喋ってよいな?」
僕は道の前後を見た。
近くに人はいない。
「どうぞ」
「長かった!」
その声は、森の縁へよく響いた。
僕らは笑いながら、エレミアへ向かう道を進んだ。