アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す   作:駄文亭

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第2話 水の精霊

 戻れない。

 

 その事実を認めるまで、ルクスンはしばらく頭上の穴を見上げていた。

 

 排水溝の崩落によって開いた穴は、手を伸ばして届くような高さではない。壁には指をかけられそうな凹凸もなく、登攀に使えるロープも持っていなかった。

 

 仮に戻れたとしても、その先ではグールの群れが待っている。

 

「前門の古代遺跡、後門のグールか……」

 

 どちらも嫌だった。

 

 ルクスンは全身の状態を確かめた。

 

 頬に浅い傷。

 

 擦りむいた手のひらと膝。

 

 落下の衝撃で背中や肩も痛むが、骨が折れている様子はない。

 

 装備は何もない。

 

 衣服と呼ぶのもためらわれる粗末な布と、首にはめられた奴隷の鉄輪だけ。

 

「キャラクター作成直後でも、普通は最低限の武器と防具くらい持ってるだろ……」

 

 文句を言っても、装備は出てこなかった。

 

 ルクスンは右拳を見た。

 

 アンデッドに対してのみ打撃力50。

 

 確かに強力だが、古代遺跡の罠や扉まで殴り壊せる万能の拳ではない。人間や普通の魔物を殴れば、ただの素手攻撃である。

 

「グール相手には切り札。ほかの相手には素手。偏りすぎだろ」

 

 立ち止まっていても仕方がない。

 

 ルクスンは周囲へ意識を向けた。

 

 《センス・マジック》によって、遺跡の石材や柱から微かな魔力を感じる。しかし、今すぐ作動しそうな強い反応はない。

 

 《センス・オーラ》にも、黄色い負の精霊力は見つからなかった。

 

 少なくとも、近くにアンデッドはいない。

 

 動く生物の熱も感じない。

 

 静かだった。

 

 あまりにも静かすぎて、自分の呼吸音と足音だけが大きく聞こえる。

 

 ルクスンは、暗い通路を歩き始めた。

 

     ◇

 

 古代遺跡の通路は、奇妙なほど整っていた。

 

 壁には幾何学模様が刻まれ、ところどころに古代文字が残っている。崩落した場所もあるが、闘技場地下の粗雑な石組みとは比較にならない。

 

 完全版に登場する文字なら読める。

 

 しかし、壁に残されているのは、部屋の番号や短い注意書きばかりだった。

 

『通路』

 

『貯蔵室』

 

『管理者以外の立ち入りを禁ず』

 

 役に立ちそうで、まるで役に立たない。

 

「せめて『出口はこちら』って書いておけよ」

 

 返事はない。

 

 いくつかの小部屋を調べたが、食料も武器も見つからなかった。棚や箱は残っていても、中身は朽ちているか、とうの昔に持ち去られている。

 

 やがて、腹が鳴った。

 

 最初は無視した。

 

 グールから逃げ、排水溝を這い、地下へ落ちた直後である。空腹を感じるのは当然だと思った。

 

 しかし、歩き続けるほど足取りが重くなっていく。

 

「腹が……減った……」

 

 転生した身体は、もともと衰弱していた。

 

 闘技場の剣闘奴隷へ、十分な食事が与えられていたとは思えない。肋骨が浮き、手足にも力が入りにくい。

 

 古代遺跡の知識があっても、食べ物は生み出せない。

 

 壁際に茸のようなものを見つけたが、手は出さなかった。

 

 毒があるかもしれない。

 

 完全版に掲載されている植物や茸の知識と、目の前にある現物が一致する保証はない。

 

「異世界転生者が、よく分からない茸を食べて死亡。笑い話にもならないな」

 

 ルクスンは空腹を我慢し、さらに歩いた。

 

 そのうち、腹の減りよりも喉の渇きが気になり始めた。

 

 口の中が乾いている。

 

 唾を飲み込もうとしても、ほとんど出ない。

 

 排水溝には汚水が流れていたが、飲むという発想すら起こらなかった。今になって、水を確保しなかったことを後悔する。

 

「水……」

 

 足が止まる。

 

 壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返した。

 

 人間は、水がなければ生きられない。

 

 どれほど完全版の知識を持っていても、喉の渇きに耐えられるわけではなかった。

 

『生命維持に必要な水分が不足しています』

 

「脳内GM、分かりきったことを説明するな……」

 

 それでも、立ち止まってはいられない。

 

 ルクスンは目を閉じ、周囲の精霊力へ意識を集中した。

 

 大地の精霊力。

 

 淀んだ空気。

 

 古代遺跡に染みついた、微かな魔力。

 

 その中に、細く、しかし確かな反応があった。

 

 水の精霊力。

 

 ルクスンは目を開けた。

 

「水の精霊……いる!」

 

 魔法を使えるわけではない。

 

 水の精霊へ呼びかけることも、命令することもできない。

 

 それでも、存在する方向は分かる。

 

 通路の奥。

 

 右へ曲がり、崩れた部屋を抜けた先。

 

 ルクスンは壁へ手をつきながら、精霊力をたどった。

 

 途中で反応を見失い、引き返した。

 

 別の通路へ入る。

 

 先ほどより強くなった。

 

「こっちだ……」

 

 足を引きずるように進む。

 

 やがて、暗闇の向こうから水滴の音が聞こえた。

 

 一滴。

 

 また一滴。

 

 規則正しい音が、静かな遺跡へ響いている。

 

 ルクスンは最後の角を曲がった。

 

 小さな石室だった。

 

 壁際に古い石像があり、その足元から透明な水が湧き出している。水は浅い泉を満たし、床に刻まれた細い溝へ流れていた。

 

「水……!」

 

 今すぐ飛びつきたい。

 

 しかし、完全版を読み込んだTRPGゲーマーとしての理性が、辛うじて踏みとどまらせた。

 

 不自然な泉。

 

 古代遺跡。

 

 罠や呪いの可能性がある。

 

 ルクスンは泉へ手を伸ばす前に、《センス・マジック》で確認した。

 

 強い魔力反応はない。

 

 《センス・オーラ》でも、水の精霊力は穏やかだった。負の精霊力や、不自然な乱れも感じない。

 

 水は澄み、異臭もない。

 

「大丈夫……だと思う」

 

 両手ですくい、少量だけ口へ含む。

 

 冷たい。

 

 変な味はしない。

 

 喉や舌が痺れることもなかった。

 

 もう我慢できなかった。

 

 ルクスンは泉へ膝をつき、何度も水をすくって飲んだ。

 

「うまい……水って、こんなにうまかったのか」

 

 乾ききっていた身体へ、冷たい水が染み込んでいく。

 

 生き返る。

 

 一度死んで転生した人間が口にするには、妙な感想だった。

 

     ◇

 

 喉の渇きが収まり、ようやく周囲を見る余裕が生まれた。

 

 そこでルクスンは、泉の反対側に倒れている人影へ気づいた。

 

 人間だ。

 

 壁へ背を預け、座り込むような姿勢で動かなくなっている。

 

 革鎧を身につけ、腰には鞘へ収められた剣。そばには背負い袋と丸めた毛布が落ちていた。

 

 冒険者。

 

 最初はそう思った。

 

 ルクスンは立ち上がり、慎重に近づく。

 

 黄色い負の精霊のオーラはない。

 

 アンデッドではない。

 

「……死んでるのか?」

 

 返事はなかった。

 

 男はひどく痩せ、頬が落ちくぼんでいる。目立つ致命傷はないが、腕や脚には古い傷がいくつも残っていた。

 

 泉までたどり着きながら、力尽きたのだろう。

 

 男の右手は、胸元で固く握られていた。

 

 何かを守っているようにも見える。

 

 ルクスンは遺体を傷つけないよう、ゆっくりと指を開いた。

 

 手の中から現れたのは、小さなロケットだった。

 

 手のひらへ収まるほどの、楕円形をした金属製のロケット。長い間握りしめられていたため、表面は汗と汚れに覆われている。

 

 装備品とは違う。

 

 この男にとって、最後まで手放したくない大切な品だったのだろう。

 

 ルクスンは汚れを軽く拭い、形や意匠を確かめた。

 

 しかし、今の自分には持ち主を特定できそうな手がかりを読み取れない。

 

「これを調べれば、あんたが誰なのか分かるかもしれないな」

 

 ロマールには盗賊ギルドがある。

 

 表の役人よりも、裏社会の人間や奴隷、盗品、装飾品の流れに詳しい組織だ。ロケットの細工、刻印、以前の持ち主などをたどれば、この男の身元へ行き着く可能性がある。

 

 もちろん、奴隷の鉄輪をつけたまま盗賊ギルドを訪ねるのは危険だった。

 

 それ以前に、この遺跡から生きて出なければならない。

 

「持っていくよ。盗賊ギルドまでたどり着けたら、あんたのことを調べてもらう」

 

 ルクスンはロケットを、ほかの戦利品とは分けて大切にしまった。

 

 これは自分の物ではない。

 

 死者の名前を取り戻すため、一時的に預かった物だ。

 

 続いて遺体の前へしゃがみ込む。

 

「悪い。今の僕には、あんたを埋葬する余裕がない。装備と食料を持っているなら譲ってほしい。ここから出られたら、あんたが死んだことも誰かに伝える」

 

 背負い袋を調べる。

 

 中には、硬くなった保存食が少しだけ残っていた。

 

 ルクスンは臭いと状態を確認し、端をかじった。

 

 硬い。

 

 味もよくない。

 

 それでも、空腹の身体には十分なご馳走だった。

 

 少しずつ噛み、泉の水で流し込む。

 

『保存食を獲得しました』

 

「だから取得音を鳴らすな」

 

 食べ終えてから、改めて遺体を調べる。

 

 妙だった。

 

 革鎧は身体に合っていない。肩や脇の部分が、不格好に紐で締め直されている。

 

 剣と短剣には、それぞれ異なる所有者の印。

 

 背負い袋や毛布も、同じ人物が揃えた品には見えない。

 

 そして、遺体の首には、鉄輪で長く擦られた痕が残っていた。

 

 手首と足首にも、鎖による古い傷がある。

 

 ルクスンは自分の首へ触れた。

 

 今もはめられている、奴隷の鉄輪。

 

「冒険者じゃない……」

 

 遺体の腕には、所有物であったことを示す焼き印が刻まれていた。

 

「逃亡奴隷か」

 

 この男も、ロマールのどこかから逃げ出した。

 

 武器や防具、食料を少しずつ集め、地下へ潜り込んだ。

 

 そして、出口を見つけられないまま、泉のそばで力尽きた。

 

 握りしめていたロケットは、男が奴隷になる以前から持っていたのかもしれない。

 

 家族の形見か。

 

 帰りを待つ者とのつながりか。

 

 今のルクスンには分からない。

 

 ただ、男にも名前があり、ここへ来るまでの人生があったことだけは確かだった。

 

「先輩……か」

 

 ルクスンは遺体の前で手を合わせた。

 

「装備を借りる。返せるとは約束できない。でも、あんたが行けなかったところまで僕が行く。それから、このロケットも持っていく。身元が分かったら、あんたがここで死んだことを伝えるよ」

 

 革鎧を外し、自分の身体へ合わせて紐を調整する。

 

 剣を腰へ下げ、短剣と背負い袋も受け取った。毛布を丸め、水袋には泉の水を満たす。

 

 ようやく、最低限の冒険者らしい姿になった。

 

 もっとも、首には奴隷の鉄輪が残っている。

 

 荷物の中から、折り畳まれた羊皮紙が見つかった。

 

 広げてみると、遺跡内を歩き回った跡を記した手描きの地図だった。

 

 泉。

 

 崩れた通路。

 

 行き止まり。

 

 調査済みらしい部屋には、いくつもの印がつけられている。

 

 しかし、出口を示す記号はない。

 

 地図の端には、乱れた文字で一言だけ残されていた。

 

『上へ続く道はない』

 

 ルクスンは地図を見つめた。

 

 逃亡奴隷は、調べられる範囲をほとんど歩いている。

 

 それでも出口を見つけられなかった。

 

「水と装備は手に入った。ロケットの持ち主を調べる約束までした。だったら、ここで死ぬわけにはいかないな」

 

 泉の水面が、静かに揺れる。

 

 遺跡の奥から、魔物の声は聞こえない。

 

 黄色い負の精霊力も感じない。

 

 時間だけはある。

 

 ただし、保存食には限りがあった。

 

 ルクスンは手描き地図を畳み、背負い袋へ収めた。

 

「先輩が見つけられなかったなら、今度は僕が探す。シーフ技能はないけどな」

 

 その言葉に応えるように、存在しないゲームマスターの声が頭へ響いた。

 

『隠し扉を捜索しますか? シーフ技能がないため、平目判定になります』

 

「……六ゾロが出るまで調べてやる」

 

 ルクスンは泉のそばで休息を取り、出口のない古代遺跡を攻略する準備を始めた。

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