アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
戻れない。
その事実を認めるまで、ルクスンはしばらく頭上の穴を見上げていた。
排水溝の崩落によって開いた穴は、手を伸ばして届くような高さではない。壁には指をかけられそうな凹凸もなく、登攀に使えるロープも持っていなかった。
仮に戻れたとしても、その先ではグールの群れが待っている。
「前門の古代遺跡、後門のグールか……」
どちらも嫌だった。
ルクスンは全身の状態を確かめた。
頬に浅い傷。
擦りむいた手のひらと膝。
落下の衝撃で背中や肩も痛むが、骨が折れている様子はない。
装備は何もない。
衣服と呼ぶのもためらわれる粗末な布と、首にはめられた奴隷の鉄輪だけ。
「キャラクター作成直後でも、普通は最低限の武器と防具くらい持ってるだろ……」
文句を言っても、装備は出てこなかった。
ルクスンは右拳を見た。
アンデッドに対してのみ打撃力50。
確かに強力だが、古代遺跡の罠や扉まで殴り壊せる万能の拳ではない。人間や普通の魔物を殴れば、ただの素手攻撃である。
「グール相手には切り札。ほかの相手には素手。偏りすぎだろ」
立ち止まっていても仕方がない。
ルクスンは周囲へ意識を向けた。
《センス・マジック》によって、遺跡の石材や柱から微かな魔力を感じる。しかし、今すぐ作動しそうな強い反応はない。
《センス・オーラ》にも、黄色い負の精霊力は見つからなかった。
少なくとも、近くにアンデッドはいない。
動く生物の熱も感じない。
静かだった。
あまりにも静かすぎて、自分の呼吸音と足音だけが大きく聞こえる。
ルクスンは、暗い通路を歩き始めた。
◇
古代遺跡の通路は、奇妙なほど整っていた。
壁には幾何学模様が刻まれ、ところどころに古代文字が残っている。崩落した場所もあるが、闘技場地下の粗雑な石組みとは比較にならない。
完全版に登場する文字なら読める。
しかし、壁に残されているのは、部屋の番号や短い注意書きばかりだった。
『通路』
『貯蔵室』
『管理者以外の立ち入りを禁ず』
役に立ちそうで、まるで役に立たない。
「せめて『出口はこちら』って書いておけよ」
返事はない。
いくつかの小部屋を調べたが、食料も武器も見つからなかった。棚や箱は残っていても、中身は朽ちているか、とうの昔に持ち去られている。
やがて、腹が鳴った。
最初は無視した。
グールから逃げ、排水溝を這い、地下へ落ちた直後である。空腹を感じるのは当然だと思った。
しかし、歩き続けるほど足取りが重くなっていく。
「腹が……減った……」
転生した身体は、もともと衰弱していた。
闘技場の剣闘奴隷へ、十分な食事が与えられていたとは思えない。肋骨が浮き、手足にも力が入りにくい。
古代遺跡の知識があっても、食べ物は生み出せない。
壁際に茸のようなものを見つけたが、手は出さなかった。
毒があるかもしれない。
完全版に掲載されている植物や茸の知識と、目の前にある現物が一致する保証はない。
「異世界転生者が、よく分からない茸を食べて死亡。笑い話にもならないな」
ルクスンは空腹を我慢し、さらに歩いた。
そのうち、腹の減りよりも喉の渇きが気になり始めた。
口の中が乾いている。
唾を飲み込もうとしても、ほとんど出ない。
排水溝には汚水が流れていたが、飲むという発想すら起こらなかった。今になって、水を確保しなかったことを後悔する。
「水……」
足が止まる。
壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返した。
人間は、水がなければ生きられない。
どれほど完全版の知識を持っていても、喉の渇きに耐えられるわけではなかった。
『生命維持に必要な水分が不足しています』
「脳内GM、分かりきったことを説明するな……」
それでも、立ち止まってはいられない。
ルクスンは目を閉じ、周囲の精霊力へ意識を集中した。
大地の精霊力。
淀んだ空気。
古代遺跡に染みついた、微かな魔力。
その中に、細く、しかし確かな反応があった。
水の精霊力。
ルクスンは目を開けた。
「水の精霊……いる!」
魔法を使えるわけではない。
水の精霊へ呼びかけることも、命令することもできない。
それでも、存在する方向は分かる。
通路の奥。
右へ曲がり、崩れた部屋を抜けた先。
ルクスンは壁へ手をつきながら、精霊力をたどった。
途中で反応を見失い、引き返した。
別の通路へ入る。
先ほどより強くなった。
「こっちだ……」
足を引きずるように進む。
やがて、暗闇の向こうから水滴の音が聞こえた。
一滴。
また一滴。
規則正しい音が、静かな遺跡へ響いている。
ルクスンは最後の角を曲がった。
小さな石室だった。
壁際に古い石像があり、その足元から透明な水が湧き出している。水は浅い泉を満たし、床に刻まれた細い溝へ流れていた。
「水……!」
今すぐ飛びつきたい。
しかし、完全版を読み込んだTRPGゲーマーとしての理性が、辛うじて踏みとどまらせた。
不自然な泉。
古代遺跡。
罠や呪いの可能性がある。
ルクスンは泉へ手を伸ばす前に、《センス・マジック》で確認した。
強い魔力反応はない。
《センス・オーラ》でも、水の精霊力は穏やかだった。負の精霊力や、不自然な乱れも感じない。
水は澄み、異臭もない。
「大丈夫……だと思う」
両手ですくい、少量だけ口へ含む。
冷たい。
変な味はしない。
喉や舌が痺れることもなかった。
もう我慢できなかった。
ルクスンは泉へ膝をつき、何度も水をすくって飲んだ。
「うまい……水って、こんなにうまかったのか」
乾ききっていた身体へ、冷たい水が染み込んでいく。
生き返る。
一度死んで転生した人間が口にするには、妙な感想だった。
◇
喉の渇きが収まり、ようやく周囲を見る余裕が生まれた。
そこでルクスンは、泉の反対側に倒れている人影へ気づいた。
人間だ。
壁へ背を預け、座り込むような姿勢で動かなくなっている。
革鎧を身につけ、腰には鞘へ収められた剣。そばには背負い袋と丸めた毛布が落ちていた。
冒険者。
最初はそう思った。
ルクスンは立ち上がり、慎重に近づく。
黄色い負の精霊のオーラはない。
アンデッドではない。
「……死んでるのか?」
返事はなかった。
男はひどく痩せ、頬が落ちくぼんでいる。目立つ致命傷はないが、腕や脚には古い傷がいくつも残っていた。
泉までたどり着きながら、力尽きたのだろう。
男の右手は、胸元で固く握られていた。
何かを守っているようにも見える。
ルクスンは遺体を傷つけないよう、ゆっくりと指を開いた。
手の中から現れたのは、小さなロケットだった。
手のひらへ収まるほどの、楕円形をした金属製のロケット。長い間握りしめられていたため、表面は汗と汚れに覆われている。
装備品とは違う。
この男にとって、最後まで手放したくない大切な品だったのだろう。
ルクスンは汚れを軽く拭い、形や意匠を確かめた。
しかし、今の自分には持ち主を特定できそうな手がかりを読み取れない。
「これを調べれば、あんたが誰なのか分かるかもしれないな」
ロマールには盗賊ギルドがある。
表の役人よりも、裏社会の人間や奴隷、盗品、装飾品の流れに詳しい組織だ。ロケットの細工、刻印、以前の持ち主などをたどれば、この男の身元へ行き着く可能性がある。
もちろん、奴隷の鉄輪をつけたまま盗賊ギルドを訪ねるのは危険だった。
それ以前に、この遺跡から生きて出なければならない。
「持っていくよ。盗賊ギルドまでたどり着けたら、あんたのことを調べてもらう」
ルクスンはロケットを、ほかの戦利品とは分けて大切にしまった。
これは自分の物ではない。
死者の名前を取り戻すため、一時的に預かった物だ。
続いて遺体の前へしゃがみ込む。
「悪い。今の僕には、あんたを埋葬する余裕がない。装備と食料を持っているなら譲ってほしい。ここから出られたら、あんたが死んだことも誰かに伝える」
背負い袋を調べる。
中には、硬くなった保存食が少しだけ残っていた。
ルクスンは臭いと状態を確認し、端をかじった。
硬い。
味もよくない。
それでも、空腹の身体には十分なご馳走だった。
少しずつ噛み、泉の水で流し込む。
『保存食を獲得しました』
「だから取得音を鳴らすな」
食べ終えてから、改めて遺体を調べる。
妙だった。
革鎧は身体に合っていない。肩や脇の部分が、不格好に紐で締め直されている。
剣と短剣には、それぞれ異なる所有者の印。
背負い袋や毛布も、同じ人物が揃えた品には見えない。
そして、遺体の首には、鉄輪で長く擦られた痕が残っていた。
手首と足首にも、鎖による古い傷がある。
ルクスンは自分の首へ触れた。
今もはめられている、奴隷の鉄輪。
「冒険者じゃない……」
遺体の腕には、所有物であったことを示す焼き印が刻まれていた。
「逃亡奴隷か」
この男も、ロマールのどこかから逃げ出した。
武器や防具、食料を少しずつ集め、地下へ潜り込んだ。
そして、出口を見つけられないまま、泉のそばで力尽きた。
握りしめていたロケットは、男が奴隷になる以前から持っていたのかもしれない。
家族の形見か。
帰りを待つ者とのつながりか。
今のルクスンには分からない。
ただ、男にも名前があり、ここへ来るまでの人生があったことだけは確かだった。
「先輩……か」
ルクスンは遺体の前で手を合わせた。
「装備を借りる。返せるとは約束できない。でも、あんたが行けなかったところまで僕が行く。それから、このロケットも持っていく。身元が分かったら、あんたがここで死んだことを伝えるよ」
革鎧を外し、自分の身体へ合わせて紐を調整する。
剣を腰へ下げ、短剣と背負い袋も受け取った。毛布を丸め、水袋には泉の水を満たす。
ようやく、最低限の冒険者らしい姿になった。
もっとも、首には奴隷の鉄輪が残っている。
荷物の中から、折り畳まれた羊皮紙が見つかった。
広げてみると、遺跡内を歩き回った跡を記した手描きの地図だった。
泉。
崩れた通路。
行き止まり。
調査済みらしい部屋には、いくつもの印がつけられている。
しかし、出口を示す記号はない。
地図の端には、乱れた文字で一言だけ残されていた。
『上へ続く道はない』
ルクスンは地図を見つめた。
逃亡奴隷は、調べられる範囲をほとんど歩いている。
それでも出口を見つけられなかった。
「水と装備は手に入った。ロケットの持ち主を調べる約束までした。だったら、ここで死ぬわけにはいかないな」
泉の水面が、静かに揺れる。
遺跡の奥から、魔物の声は聞こえない。
黄色い負の精霊力も感じない。
時間だけはある。
ただし、保存食には限りがあった。
ルクスンは手描き地図を畳み、背負い袋へ収めた。
「先輩が見つけられなかったなら、今度は僕が探す。シーフ技能はないけどな」
その言葉に応えるように、存在しないゲームマスターの声が頭へ響いた。
『隠し扉を捜索しますか? シーフ技能がないため、平目判定になります』
「……六ゾロが出るまで調べてやる」
ルクスンは泉のそばで休息を取り、出口のない古代遺跡を攻略する準備を始めた。