アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す   作:駄文亭

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第36話 空席の聖女

「暗黒、死、狂気! それを統べる新たな神よ! 聖女の御許に、復活を!」

 

 三十人を超える信者たちの声が、地下礼拝所を震わせた。

 

 祭壇に置かれているのは、黒い布で覆われた空の椅子だけ。

 

 それでも信者たちは、そこに誰かが座っているかのように額を床へ擦りつけている。

 

 ルクスンの目には、彼らが見ているものとは別の光景が見えていた。

 

 祭壇を覆う魔力。

 

 死んだ狂女から立ち上る、黄色い負の精霊のオーラ。

 

 信者たちの祈りが重なるたび、黄色い光が細い糸となって空席へ吸い込まれていく。

 

 まだ顔はない。

 

 肉体もない。

 

 魔力だけが、女の姿を作ろうとしている。

 

「暗黒、死、狂気! それを統べる新たな神よ! 聖女の御許に、復活を!」

 

 再び祈りが重なった。

 

 ルクスンは信者のふりをして頭を下げながら、隣にいるオトフリートの袖を引いた。

 

 ここで古代語魔法を使わせるわけにはいかない。

 

 ソーサラーが呪文を唱えれば、潜入調査どころではなくなる。

 

 ルクスンは指で、祭壇、狂女、空席の順に示した。

 

 オトフリートは小さく頷く。

 

 何かが狂女から祭壇へ流れている。

 

 それだけは伝わったらしい。

 

 カーディス神官が両腕を広げた。

 

「この女は苦しんでいた。飢え、病み、誰からも顧みられず、路傍で死を迎えた。だが、聖女は彼女を見捨てなかった!」

 

 立ち上がった狂女が、ぎこちなく両腕を広げる。

 

 肌は青白い。

 

 首は折れたまま、不自然な角度へ傾いている。

 

 口元に貼りついた笑みだけが、生前のまま残されていた。

 

「ああ、聖女様! 私は救われました。痛みも、飢えも、もう感じません。死んでも終わりではありません。聖女様を信じれば、何度でも立ち上がれるのです!」

 

 信者たちの間から、すすり泣く声が聞こえた。

 

「夫も蘇るのでしょうか?」

 

「死んだ子供に会えますか?」

 

「この病から救われるのですか?」

 

 カーディス神官が微笑む。

 

「聖女を信じよ。死は別れではない。新たな救いの始まりである!」

 

 嘘ではない。

 

 狂女は確かに動き、喋っている。

 

 ただし、救われたのではない。

 

 アンデッドとして蘇らされただけだ。

 

 ここで右拳を叩き込めば、おそらく狂女は一撃で浄化できる。

 

 しかし、ルクスンと祭壇の間には三十人近い信者がいる。

 

 誰もが武器を持たない老人や病人、貧民だった。

 

 さらにカーディス神官と、名もなき狂気の神官の実力がわからない。

 

 自分たちは潜入のため、鎧も盾も持ち込んでいなかった。

 

 いま暴れるのは、あまりにも条件が悪い。

 

「これ、殴ったら駄目な場面だよな……」

 

 ルクスンの外套の下で、妖姫殺しが小さく震えた。

 

「主よ。わらわを抜くか?」

 

「喋るな。抜かない」

 

「少しくらい斬ってみぬか?」

 

「お前は我慢を覚えろ」

 

 幸い、周囲の信者たちは祈りに夢中で、短剣の声に気づかなかった。

 

 笑う仮面をつけた神官が、祭壇の前へ進み出る。

 

 両手には、小さな銀の鈴が握られていた。

 

 ちりん。

 

 澄んだ音が鳴る。

 

 ただの鈴ではない。

 

 音が耳へ届いた瞬間、ルクスンの視界に淡い魔力が広がった。

 

 笑う仮面の神官を中心に生まれた波が、信者たちの頭を順番に通過していく。

 

 魔法は必中。

 

 見えていても、避けることはできない。

 

 抵抗するしかない。

 

 甘い眠気に似た感覚が、ルクスンの意識を包んだ。

 

 考えなくてもいい。

 

 疑わなくてもいい。

 

 空席に座る聖女へ、すべてを委ねればいい。

 

 そんな考えが、自分の内側から湧き上がってくる。

 

 ルクスンは奥歯を噛んだ。

 

 これは自分の考えではない。

 

 ファラリスの教義でもない。

 

 笑う仮面の神官が、信者の精神へ押しつけている狂気だ。

 

「ふざけんな……僕の思考に勝手にパッチを当てるな」

 

 隣では、オトフリートが額へ汗を浮かべていた。

 

 ノクティアも目を細め、短槍を隠した外套の内側へ手を入れている。

 

 黒猫姿のゼフィーリアだけは、空の椅子を睨み続けていた。

 

 鈴が二度、三度と鳴る。

 

 信者たちのすすり泣きが止まった。

 

 全員が幸福そうな笑みを浮かべ、同じ速さで身体を揺らし始める。

 

 笑う仮面の神官が問いかけた。

 

「聖女は、あなたたちの苦しみを受け入れてくださいます。さあ、望みを告げなさい。病を癒やしたい者。死者と再会したい者。憎む者を消したい者。すべての望みを聖女へ捧げるのです!」

 

 一人の老人が立ち上がった。

 

「死んだ妻に会いたい」

 

 祭壇を包む魔力が、わずかに膨らんだ。

 

 病に侵された女が続く。

 

「もう苦しみたくない」

 

 魔力の輪郭に、細い指が生まれる。

 

「私を捨てた男を殺してほしい」

 

「子供を蘇らせてほしい」

 

「金がほしい」

 

「誰かに愛されたい」

 

 欲望が口にされるたび、存在しない聖女の姿が濃くなっていく。

 

 ルクスンは理解した。

 

 この儀式は、信者たちから何かを奪っている。

 

 精神力なのか。

 

 生命力なのか。

 

 あるいは、願いそのものなのか。

 

 完全版の知識にも、該当する魔法はなかった。

 

 少なくとも、古代語魔法、精霊魔法、通常の神聖魔法のどれでもない。

 

 複数の神官が、異なる力を無理やり一つの儀式へ組み込んでいる。

 

「新たな方がいらっしゃいますね」

 

 笑う仮面が、ルクスンたちへ向けられた。

 

 信者たちが一斉に振り返る。

 

「あなたたちの望みも、聖女へ捧げなさい」

 

 ルクスンは立ち上がった。

 

 下手に拒めば疑われる。

 

 かといって、本当の望みを口にする気にもなれない。

 

「僕は……」

 

 空飛ぶ魔力の塔。

 

 古代遺跡。

 

 騎士と貴族への未練。

 

 元の世界へ戻れるのかという疑問。

 

 一瞬で、いくつもの言葉が頭をよぎった。

 

 そのどれも、こいつらへ渡したくはない。

 

「遠くにいる家族へ、もう一度会いたい」

 

 完全な嘘ではない。

 

 戻る方法がないだけで、前世の家族が消えたわけではない。

 

 祭壇の魔力が、ルクスンへ細い糸を伸ばした。

 

 胸元へ触れる直前、右手が熱を帯びる。

 

 聖属性を宿した右手に触れた魔力の糸が、音もなく消滅した。

 

 空席の人影が、初めて動いた。

 

 顔のない頭部が、ルクスンへ向く。

 

 ルクスン以外には見えていない。

 

 それでも、間違いなくこちらを見た。

 

「次の方」

 

 笑う仮面がオトフリートを指した。

 

 オトフリートは、荒れた息を整えながら答える。

 

「私は、失われた知識を取り戻したい」

 

 今度は魔力の糸が、オトフリートの胸元へ吸い込まれた。

 

 オトフリートの身体が小さく揺れる。

 

 倒れるほどではない。

 

 だが、何かを奪われたことは明らかだった。

 

 ノクティアが一歩前へ出た。

 

「わたしは、帰る場所がほしい」

 

 祭壇から伸びた糸が、ノクティアへ触れる。

 

 その瞬間、ノクティアの顔から感情が消えた。

 

 ルクスンが腕を掴むと、すぐに焦点が戻る。

 

「大丈夫か?」

 

「少し、眠い」

 

 残るのは黒猫だけ。

 

 笑う仮面の神官は、ノクティアの腕に抱かれたゼフィーリアを見た。

 

「その猫は?」

 

「わたしの猫」

 

「猫も望みを持つのでしょうか?」

 

「魚が食べたい」

 

 黒猫がノクティアの腕へ爪を立てた。

 

「痛い」

 

「元気な猫ですね」

 

 信者たちの間から笑いが起こった。

 

 笑う仮面も興味を失い、次の信者へ目を向ける。

 

 だが、祭壇の人影は違った。

 

 顔のない聖女が、黒猫だけを見ている。

 

 人影から伸びた魔力の糸が、ゆっくりとゼフィーリアへ近づいていく。

 

 触れる直前、黒猫の周囲で何かが弾けた。

 

 ルクスンにしか見えない、黒い火花。

 

 空席の人影が大きく震える。

 

 それまで女性らしい姿を作ろうとしていた魔力が崩れ、何本もの腕を持つ異形へ変わった。

 

 すぐに元へ戻ったが、ルクスンは見逃さなかった。

 

 こいつはゼフィーリアへ反応した。

 

          ◇

 

 集会は一時間ほど続いた。

 

 最後に信者全員へ黒い糸が配られ、次の集会まで手首へ巻いておくよう命じられた。

 

 ルクスンたちも受け取った。

 

 黒い糸からは、ごく弱い魔力が漂っている。

 

 儀式が終わると、信者たちは幸福そうな顔で礼拝所を出ていった。

 

 ルクスンたちも人の流れに混じり、地上へ戻る。

 

 染物工房を出たところで、死んだ狂女がルクスンの横を通り過ぎた。

 

 腐敗を隠すためなのか、強い香の匂いがする。

 

 狂女は突然立ち止まり、黒猫姿のゼフィーリアへ顔を向けた。

 

「聖女様が、あなたを待っている」

 

 ノクティアの腕の中で、ゼフィーリアの毛が逆立った。

 

「何のことだ?」

 

 ルクスンが尋ねても、狂女は答えない。

 

 笑いながら、夜の街路へ歩き去っていく。

 

 人の足取りではない。

 

 誰かに糸で引かれているような、不自然な歩き方だった。

 

          ◇

 

 工房から十分ほど離れたところで、一行は足を止めた。

 

 オトフリートが壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返す。

 

「先ほどの儀式で、精神力をわずかに奪われました。強力なものではありませんが、繰り返し参加すれば影響は蓄積するでしょう」

 

「僕とゼフィーリアには、うまく作用しなかったみたいだ」

 

 黒猫が低い声で答える。

 

「祭壇から、ファラリスの神聖力は感じませんでした。あの聖女は、我が神とは無関係です」

 

「カーディス神官が死を与え、仮面の神官が狂気を集める。けれど、儀式が掲げている三つの力は暗黒、死、狂気だ」

 

 オトフリートが顔を上げた。

 

「彼らには、暗黒を担う本物のファラリス神官がいない」

 

 全員の視線が、黒猫へ集まった。

 

「祭壇のあれが、お前に反応した」

 

「私も感じました。見られていました。あの死者ではありません。まだ形を持たない、祭壇の何かに」

 

「つまり、連中にとってゼフィーリアは――」

 

 ノクティアが周囲を見回した。

 

「話はあと。つけられている」

 

「何人?」

 

「四人」

 

 背後の暗がりで、複数の足音が止まった。

 

 集会を無事に抜け出したつもりだった。

 

 しかし、空席の聖女はすでに、黒猫の正体へ気づき始めていた。

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