アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
「暗黒、死、狂気! それを統べる新たな神よ! 聖女の御許に、復活を!」
三十人を超える信者たちの声が、地下礼拝所を震わせた。
祭壇に置かれているのは、黒い布で覆われた空の椅子だけ。
それでも信者たちは、そこに誰かが座っているかのように額を床へ擦りつけている。
ルクスンの目には、彼らが見ているものとは別の光景が見えていた。
祭壇を覆う魔力。
死んだ狂女から立ち上る、黄色い負の精霊のオーラ。
信者たちの祈りが重なるたび、黄色い光が細い糸となって空席へ吸い込まれていく。
まだ顔はない。
肉体もない。
魔力だけが、女の姿を作ろうとしている。
「暗黒、死、狂気! それを統べる新たな神よ! 聖女の御許に、復活を!」
再び祈りが重なった。
ルクスンは信者のふりをして頭を下げながら、隣にいるオトフリートの袖を引いた。
ここで古代語魔法を使わせるわけにはいかない。
ソーサラーが呪文を唱えれば、潜入調査どころではなくなる。
ルクスンは指で、祭壇、狂女、空席の順に示した。
オトフリートは小さく頷く。
何かが狂女から祭壇へ流れている。
それだけは伝わったらしい。
カーディス神官が両腕を広げた。
「この女は苦しんでいた。飢え、病み、誰からも顧みられず、路傍で死を迎えた。だが、聖女は彼女を見捨てなかった!」
立ち上がった狂女が、ぎこちなく両腕を広げる。
肌は青白い。
首は折れたまま、不自然な角度へ傾いている。
口元に貼りついた笑みだけが、生前のまま残されていた。
「ああ、聖女様! 私は救われました。痛みも、飢えも、もう感じません。死んでも終わりではありません。聖女様を信じれば、何度でも立ち上がれるのです!」
信者たちの間から、すすり泣く声が聞こえた。
「夫も蘇るのでしょうか?」
「死んだ子供に会えますか?」
「この病から救われるのですか?」
カーディス神官が微笑む。
「聖女を信じよ。死は別れではない。新たな救いの始まりである!」
嘘ではない。
狂女は確かに動き、喋っている。
ただし、救われたのではない。
アンデッドとして蘇らされただけだ。
ここで右拳を叩き込めば、おそらく狂女は一撃で浄化できる。
しかし、ルクスンと祭壇の間には三十人近い信者がいる。
誰もが武器を持たない老人や病人、貧民だった。
さらにカーディス神官と、名もなき狂気の神官の実力がわからない。
自分たちは潜入のため、鎧も盾も持ち込んでいなかった。
いま暴れるのは、あまりにも条件が悪い。
「これ、殴ったら駄目な場面だよな……」
ルクスンの外套の下で、妖姫殺しが小さく震えた。
「主よ。わらわを抜くか?」
「喋るな。抜かない」
「少しくらい斬ってみぬか?」
「お前は我慢を覚えろ」
幸い、周囲の信者たちは祈りに夢中で、短剣の声に気づかなかった。
笑う仮面をつけた神官が、祭壇の前へ進み出る。
両手には、小さな銀の鈴が握られていた。
ちりん。
澄んだ音が鳴る。
ただの鈴ではない。
音が耳へ届いた瞬間、ルクスンの視界に淡い魔力が広がった。
笑う仮面の神官を中心に生まれた波が、信者たちの頭を順番に通過していく。
魔法は必中。
見えていても、避けることはできない。
抵抗するしかない。
甘い眠気に似た感覚が、ルクスンの意識を包んだ。
考えなくてもいい。
疑わなくてもいい。
空席に座る聖女へ、すべてを委ねればいい。
そんな考えが、自分の内側から湧き上がってくる。
ルクスンは奥歯を噛んだ。
これは自分の考えではない。
ファラリスの教義でもない。
笑う仮面の神官が、信者の精神へ押しつけている狂気だ。
「ふざけんな……僕の思考に勝手にパッチを当てるな」
隣では、オトフリートが額へ汗を浮かべていた。
ノクティアも目を細め、短槍を隠した外套の内側へ手を入れている。
黒猫姿のゼフィーリアだけは、空の椅子を睨み続けていた。
鈴が二度、三度と鳴る。
信者たちのすすり泣きが止まった。
全員が幸福そうな笑みを浮かべ、同じ速さで身体を揺らし始める。
笑う仮面の神官が問いかけた。
「聖女は、あなたたちの苦しみを受け入れてくださいます。さあ、望みを告げなさい。病を癒やしたい者。死者と再会したい者。憎む者を消したい者。すべての望みを聖女へ捧げるのです!」
一人の老人が立ち上がった。
「死んだ妻に会いたい」
祭壇を包む魔力が、わずかに膨らんだ。
病に侵された女が続く。
「もう苦しみたくない」
魔力の輪郭に、細い指が生まれる。
「私を捨てた男を殺してほしい」
「子供を蘇らせてほしい」
「金がほしい」
「誰かに愛されたい」
欲望が口にされるたび、存在しない聖女の姿が濃くなっていく。
ルクスンは理解した。
この儀式は、信者たちから何かを奪っている。
精神力なのか。
生命力なのか。
あるいは、願いそのものなのか。
完全版の知識にも、該当する魔法はなかった。
少なくとも、古代語魔法、精霊魔法、通常の神聖魔法のどれでもない。
複数の神官が、異なる力を無理やり一つの儀式へ組み込んでいる。
「新たな方がいらっしゃいますね」
笑う仮面が、ルクスンたちへ向けられた。
信者たちが一斉に振り返る。
「あなたたちの望みも、聖女へ捧げなさい」
ルクスンは立ち上がった。
下手に拒めば疑われる。
かといって、本当の望みを口にする気にもなれない。
「僕は……」
空飛ぶ魔力の塔。
古代遺跡。
騎士と貴族への未練。
元の世界へ戻れるのかという疑問。
一瞬で、いくつもの言葉が頭をよぎった。
そのどれも、こいつらへ渡したくはない。
「遠くにいる家族へ、もう一度会いたい」
完全な嘘ではない。
戻る方法がないだけで、前世の家族が消えたわけではない。
祭壇の魔力が、ルクスンへ細い糸を伸ばした。
胸元へ触れる直前、右手が熱を帯びる。
聖属性を宿した右手に触れた魔力の糸が、音もなく消滅した。
空席の人影が、初めて動いた。
顔のない頭部が、ルクスンへ向く。
ルクスン以外には見えていない。
それでも、間違いなくこちらを見た。
「次の方」
笑う仮面がオトフリートを指した。
オトフリートは、荒れた息を整えながら答える。
「私は、失われた知識を取り戻したい」
今度は魔力の糸が、オトフリートの胸元へ吸い込まれた。
オトフリートの身体が小さく揺れる。
倒れるほどではない。
だが、何かを奪われたことは明らかだった。
ノクティアが一歩前へ出た。
「わたしは、帰る場所がほしい」
祭壇から伸びた糸が、ノクティアへ触れる。
その瞬間、ノクティアの顔から感情が消えた。
ルクスンが腕を掴むと、すぐに焦点が戻る。
「大丈夫か?」
「少し、眠い」
残るのは黒猫だけ。
笑う仮面の神官は、ノクティアの腕に抱かれたゼフィーリアを見た。
「その猫は?」
「わたしの猫」
「猫も望みを持つのでしょうか?」
「魚が食べたい」
黒猫がノクティアの腕へ爪を立てた。
「痛い」
「元気な猫ですね」
信者たちの間から笑いが起こった。
笑う仮面も興味を失い、次の信者へ目を向ける。
だが、祭壇の人影は違った。
顔のない聖女が、黒猫だけを見ている。
人影から伸びた魔力の糸が、ゆっくりとゼフィーリアへ近づいていく。
触れる直前、黒猫の周囲で何かが弾けた。
ルクスンにしか見えない、黒い火花。
空席の人影が大きく震える。
それまで女性らしい姿を作ろうとしていた魔力が崩れ、何本もの腕を持つ異形へ変わった。
すぐに元へ戻ったが、ルクスンは見逃さなかった。
こいつはゼフィーリアへ反応した。
◇
集会は一時間ほど続いた。
最後に信者全員へ黒い糸が配られ、次の集会まで手首へ巻いておくよう命じられた。
ルクスンたちも受け取った。
黒い糸からは、ごく弱い魔力が漂っている。
儀式が終わると、信者たちは幸福そうな顔で礼拝所を出ていった。
ルクスンたちも人の流れに混じり、地上へ戻る。
染物工房を出たところで、死んだ狂女がルクスンの横を通り過ぎた。
腐敗を隠すためなのか、強い香の匂いがする。
狂女は突然立ち止まり、黒猫姿のゼフィーリアへ顔を向けた。
「聖女様が、あなたを待っている」
ノクティアの腕の中で、ゼフィーリアの毛が逆立った。
「何のことだ?」
ルクスンが尋ねても、狂女は答えない。
笑いながら、夜の街路へ歩き去っていく。
人の足取りではない。
誰かに糸で引かれているような、不自然な歩き方だった。
◇
工房から十分ほど離れたところで、一行は足を止めた。
オトフリートが壁へ手をつき、荒い呼吸を繰り返す。
「先ほどの儀式で、精神力をわずかに奪われました。強力なものではありませんが、繰り返し参加すれば影響は蓄積するでしょう」
「僕とゼフィーリアには、うまく作用しなかったみたいだ」
黒猫が低い声で答える。
「祭壇から、ファラリスの神聖力は感じませんでした。あの聖女は、我が神とは無関係です」
「カーディス神官が死を与え、仮面の神官が狂気を集める。けれど、儀式が掲げている三つの力は暗黒、死、狂気だ」
オトフリートが顔を上げた。
「彼らには、暗黒を担う本物のファラリス神官がいない」
全員の視線が、黒猫へ集まった。
「祭壇のあれが、お前に反応した」
「私も感じました。見られていました。あの死者ではありません。まだ形を持たない、祭壇の何かに」
「つまり、連中にとってゼフィーリアは――」
ノクティアが周囲を見回した。
「話はあと。つけられている」
「何人?」
「四人」
背後の暗がりで、複数の足音が止まった。
集会を無事に抜け出したつもりだった。
しかし、空席の聖女はすでに、黒猫の正体へ気づき始めていた。