アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
エア湖を渡る貨客船は、穏やかな風を帆に受けて北東へ進んでいた。
甲板にはラムリアースへ運ばれる葡萄酒の樽や織物の荷箱が積まれ、その隙間で商人や旅人が思い思いに過ごしている。
空は晴れ、波も低い。
湖上旅行としては申し分のない日だった。
「アレクラストの巨大湖を船で渡る。こういうのでいいんだよ。暗殺者や狂気の神官やメデューサなんて、毎回出てくるほうがおかしいんだ」
ルクスンは船縁へ腕を置き、広大な湖面を眺めた。
八坂鷹だった頃に読んだワールドガイドにも、エア湖には大小の魔物が生息すると書かれていた。
レイクサーペントとの遭遇譚も珍しくない。
しかし、この船には武装した水夫がおり、魔術師であるオトフリートもいる。湖岸から大きく離れない航路なら、危険は許容範囲内だ。
「主よ。そういうことを口に出すと、何か起こるのではないか?」
「妖姫殺し。この世界にシナリオライターはいない。僕が余計なことを言ったからって、都合よく事件が起きたりしないんだよ」
鞘の中から聞こえた声に、オトフリートが眼鏡を直した。
「すでに三度ほど、同じような発言の直後に事件が起きていませんでしたか?」
「偶然だ。人間は都合のよい出来事だけを記憶して、そこに因果関係を見いだす生き物なんだ」
ノクティアの肩では、黒猫となったゼフィーリアが湖から顔を背けていた。
前足の爪が、ノクティアの服へ深々と食い込んでいる。
「痛い。水が怖い?」
黒猫は答えず、さらに強くしがみついた。
「猫は泳げる。身体的な能力は使えるんだろ?」
ルクスンが尋ねると、黒猫は不機嫌そうに尾を振った。
「泳げることと、泳ぎたいことは別らしい」
ノクティアはそう解釈した。
そのときだった。
水平線の一部が揺らいだ。
熱気による陽炎に似ていたが、湖上の風は冷たい。
青い水面へ、一本の白い線が浮かび上がる。
最初は波頭にしか見えなかった。
だが、白線は船と平行に進みながら、ゆっくりと長さを増していく。
十メートル。
二十メートル。
やがて、その先端が湖面から持ち上がった。
白い蛇の頭だった。
「サーペントだ!」
見張りの水夫が叫び、甲板が騒然となった。
白い巨体が水を割って立ち上がる。
蛇というより、翼を持たない竜に近い。白銀の鱗が陽光を反射し、二本の角が後方へ伸びている。
しかし、ルクスンには別のものが見えていた。
白い巨体の全身から、濃密な魔力が立ち昇っている。
同時に、その周囲にいる水の精霊たちは、巨大な肉体を避ける動きをしていなかった。
鱗の中を、湖水と精霊が平然と通り抜けている。
「待て! こいつには肉体がない。レイクサーペントじゃない。魔法で作られた像だ!」
「幻なら、船へ何ができるのです?」
オトフリートが杖を構えた。
「それを確かめる前に近づいてきてる! 何か撃ってみろ!」
「全知全能、万能なるマナよ、集いて光の矢となり、彼のものを穿て。《エネルギー・ボルト》」
青白い魔法の矢が放たれた。
必中の光条が、白いサーペントの眉間へ突き刺さる。
巨体が大きく歪んだ。
鱗が光の粒となって飛び散り、その奥から青い湖面が透けて見える。
だが、次の瞬間には元の姿へ戻っていた。
「当たった。しかし、手応えがありません」
「やっぱり像だ! ノクティア、精霊魔法は使うな。攻撃しても精神力の無駄になる!」
「では、どうする?」
「幻を作っている本体か、魔法の起点を探す。サーペントを見るな。湖面か船の周囲に——」
最後まで言えなかった。
白いサーペントが口を開いた。
咆哮は聞こえない。
代わりに、船の周囲から水の壁が立ち上がった。
甲板を囲んだ湖水が内側へ倒れ込む。
ルクスンは咄嗟に船縁へ掴まった。
水が全身を包む。
だが、濡れる感覚がなかった。
息もできる。
それでも身体だけが、凄まじい力で湖の中へ引きずり込まれていく。
「全員、手を離すな! これは水じゃない。場所そのものを移動させる魔法だ!」
ルクスンはノクティアの腕を掴んだ。
ノクティアはオトフリートの外套を握り、その肩には黒猫が爪を立てている。
妖姫殺しが鞘から飛び出した。
「主よ、下じゃ! 湖底の奥から、数えきれぬほどの刃物の気配がするぞ!」
「湖底に武器庫でもあるのかよ!」
四人と一匹、そして一本の魔剣が甲板から引き剥がされた。
船が遠ざかっていく。
船室へ置いた背負い袋も、旅費も、着替えも、食料も、これまで揃えた道具も、すべて船に残されたままだ。
水夫たちが投げた縄は、ルクスンたちの身体をすり抜けた。
白いサーペントが大きく身を翻す。
視界が白く染まった。
◇
落下は唐突に終わった。
ルクスンは硬い床へ背中から叩きつけられた。
「痛っ……湖に落ちたはずなのに、なんで石の床なんだよ」
身体を起こす。
そこは白い石造りの広間だった。
柱には竜の彫刻が施され、壁面には見覚えのない紋章が並んでいる。
天井は存在しなかった。
頭上にはエア湖の水が広がっている。
魚の群れが泳ぎ、その遥か上を、先ほどまで乗っていた船の影が通過していた。
水は一滴も落ちてこない。
広間の外には家々が並び、その中央には白亜の城がそびえていた。
湖底へ沈んだのではない。
湖底に重ねて作られた、別の場所へ落とされたのだ。
「大規模な蜃気楼……いや、幻覚だけじゃない。空間まで切り離している。こんなの、完全版の魔法にもないぞ」
「主よ。感心している場合ではない。囲まれておるぞ」
妖姫殺しの警告と同時に、柱の陰から武装した人影が現れた。
白い外套。
竜鱗を重ねた鎧。
槍や剣を携えた者が、広間の出口を塞いでいる。
その中から、一人の女性が進み出た。
年齢は三十歳前後に見える。
長い銀髪を背へ流し、額には白い鱗を連ねた冠を載せていた。
「ようこそ、湖上の城へ。白きサーペントが少々手荒な招き方をしたことについては謝罪いたします。私は、この地を守る竜神官の一人です」
オトフリートが立ち上がり、濡れてもいない外套の裾を整えた。
「私たちはラムリアースへ向かう途中の旅人です。あなた方の領域を侵す意図はありません。乗っていた船へ戻していただけませんか?」
「それはできません。かつて竜を信仰する者たちは、神を殺す力を求めた者と、争いを捨てて静かに生きることを望んだ者に分かれました。私たちは後者です。この蜃気楼の内側で、誰にも知られず暮らしてきました」
「僕たちは、あなた方の存在を誰かに話すつもりはありません」
ルクスンが口を挟んだ。
竜神官の女性は穏やかに微笑んだ。
「旅人の約束だけに、同胞すべての命を預けることはできません。しかし、あなた方を殺すつもりもありません。見つかってしまった以上、このまま私たちと一緒に暮らしてください。住居も食事も仕事も用意いたします」
「それは歓待じゃない。無期限の監禁だろ」
「理解が早くて助かります」
白い外套の竜神官たちが、一斉に武器を構えた。
退路はない。
荷物は船の上。
現在地は地図に存在しない蜃気楼の城。
ルクスンは両手を上げながら、心の中で悪態をついた。
――スニーキング・エグゾダス。
どうやら次の冒険は、湖底の楽園から着の身着のままで逃げ出す脱出劇になるらしい。