アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
泉の中央は、見た目よりも深かった。
岸辺では膝ほどしかない水深が、水の湧き出す一点だけ、井戸のように落ち込んでいる。
ノクティアは外套と靴、ソフトレザーを脱ぎ、腰へ細縄を結びつけた。
反対側を握るルクスンへ、指で合図を示す。
「一度引いたら、縄を出して。二度なら引き上げて」
「三度は?」
「急いで引き上げて」
「一番怖い合図だな」
「妾を持っていけばよい。泉の底に何がいようと、一刀両断じゃ」
「だから、まず斬るという発想をやめろ」
ベラトリクスは岸辺に置かれたまま、不満そうに鍔を鳴らした。
ノクティアが泉へ手を浸し、水の精霊へ語りかける。
水面に淡い光が広がり、彼女の身体を包んだ。水中でも呼吸を可能にする〈ウォーター・ブリージング〉である。
大きく息を吸う必要もない。
ノクティアは水面をほとんど揺らさず、泉の底へ沈んでいった。
澄んだ水の中で、黒い髪が扇のように広がる。
岩へ手をかけながら、水の湧き出す縦穴へ潜る。
精霊の声は、人間の耳で聞くものではない。
姿や音に置き換えて感じることはあっても、その本質は精霊界を介した意思の触れ合いだ。
ノクティアには、泉の底から必死に呼びかける水の精霊が見えていた。
だが、その声は一点へ吸い寄せられ、そこで内側へ折り返している。
岩盤の割れ目に、灰色の物体が挟まっていた。
自然の石ではない。
手のひらほどの細長い金属片だった。
表面には、摩耗しかけた古代語の術式が刻まれている。
ノクティアは金属片へ触れず、縄を一度引いた。
それから身を翻し、水面へ戻った。
「下に楔がある。魔法がかかっている」
「引き抜けそう?」
「水の精霊が絡まっている。無理に抜くと、精霊まで傷つけるかもしれない」
ルクスンは水面へ顔を近づけた。
常時働いているセンス・マジックとセンス・オーラを、泉の底へ集中させる。
水の揺らぎによって像は歪んでいる。それでも、灰色の楔から漏れ出す古い魔力と、その周囲で渦を巻く水の精霊力は見えた。
見える。
だが、何を訴えているのかまではわからない。
「僕も潜る。ノクティア、僕にもウォーター・ブリージングを頼む」
「わかった」
「妾も連れていくのじゃ」
「魔法の剣を泉の底へ落としたら、六千ガメルの鞘どころじゃ済まないだろ。ベラはここで待っていて」
「主が流された時、誰が助けるのじゃ!」
「ノクティア」
「即答するでない!」
ノクティアの魔法を受けたルクスンは、ミスリル・チェインと靴を脱いだ。縄の端を岸辺の大樹へ結び、ノクティアと共に泉へ入る。
二人で底へ潜った。
縦穴では、岩盤の割れ目から水が絶えず湧き出していた。
灰色の楔は、その流れに押されて岩の間へ深く噛み込んでいる。
材質は鉄。
ただの鉄片ではない。
表面の古代語は、水の流れを止めるための術式ではなかった。
水の精霊が外へ発する声だけを捕らえ、内側へ閉じ込めるためのものだ。
ノクティアが楔の周囲へ手を差し入れた。
ルクスンにも精霊力の動きは見える。
しかし、ノクティアが触れているものは、その奥にある。
彼女は水の精霊へ、根気強く意思を伝えていた。
今から楔を動かす。
傷つけるつもりはない。
だから、少しだけ離れてほしい。
楔へ幾重にも絡みついていた水の精霊力が、ゆっくりと解け始める。
ノクティアがルクスンを見て頷いた。
ルクスンは持ち込んだ木製の杭を、楔と岩の隙間へ差し込んだ。
力を加える。
楔が僅かに浮き、水底から大量の泡が噴き上がった。
一度では抜けない。
二度、三度と杭の角度を変え、岩盤を傷つけないよう慎重にこじる。
楔が半ばまで抜けたところで、ノクティアが両手で掴んだ。
二人で一気に引く。
灰色の楔が抜け落ちた。
泉の底から、堰き止められていた水が噴き出す。
勢いを増した流れが、二人の身体を押し上げた。
水面へ顔を出した瞬間、泉の音が戻った。
岩の隙間を抜ける水。
岸辺へ寄せる小さな波。
葉先から滴り落ちる雫。
それまで静まり返っていた森へ、無数のせせらぎが溢れていく。
ノクティアは灰色の楔を岸へ置き、濡れた髪を払った。
「喜んでいる」
「今度は、外まで声が届いている?」
「うん。少しうるさいくらい」
泉の周囲を、柔らかな風が巡った。
枝葉に溜まっていた雫が一斉に落ち、二人の肩や頭へ降り注ぐ。
「水の精霊なりの礼か?」
「たぶん」
「水を浴びた者へ、さらに水をかけるのが礼なのじゃな」
「ベラには一滴もかかってないだろ」
「妾だけ仲間外れは嫌なのじゃ!」
ルクスンは泉の水を手ですくい、ベラトリクスの柄へ数滴落とした。
「冷たいのじゃ!」
「面倒臭いな、お前!」
◇
灰緑色の衣をまとった老女は、二人が持ち帰った楔を長い時間眺めていた。
「古代王国期の精霊封じです。長く土中へ埋もれていたのでしょう。先日の雨で地下水路へ落ち、泉まで流されてきたようです」
「誰かが、あの泉へ仕掛けたわけではない?」
「その可能性は低いでしょう。土と錆の付き方を見るかぎり、近頃まで地上へ出た形跡がありません」
「流れ着いただけで、あれだけのことになるのか」
「古代王国の遺物とは、そういうものです。作った者が滅び、目的が失われても、魔力だけは働き続ける」
老女は灰色の楔を厚い布で包んだ。
「抜くだけなら、もっと早く済ませられたでしょう。ですが、水の精霊ごと引き裂いていたかもしれません。それに気づいたのは、そちらの娘ですね」
視線を向けられたノクティアが、僅かに身を引く。
「わたしは、声を聞いただけ」
「声を聞くことこそ、精霊使いの務めです。強い魔法を行使するだけなら、古代王国の魔術師にもできました。その結果が、この楔です」
老女は立ち上がり、森の奥へ顔を向けた。
「約束を果たしましょう。〈ヴァルキリー・ジャベリン〉をお見せします。ただし、私には使えません」
「使えない?」
「あの術に応える戦乙女は、男性の術者にしか槍を貸し与えません。私も詠唱と術理は知っていますが、実演はできないのです」
ノクティアにも使えない。
だからこそルクスンは、魔術師ギルドへ実演者まで含めた紹介を求めていた。
「こちらへ。術を修めた者を待たせています」
◇
案内されたのは、森の一角にある小さな空き地だった。
標的として置かれているのは、既に枯れた大木の幹。
その傍らに、草色の衣をまとった壮年の男が立っていた。
肩まで伸びた髪には白いものが混じり、手には一本の樫杖を持っている。
「泉の声を取り戻した方々ですね」
「ルクスンです。〈ヴァルキリー・ジャベリン〉を見せていただきたい」
「事情は聞いています。しかし、一度見ただけで術を学び取るとは、未だに信じられません」
「僕にも説明できません。でも、これまでに何度か成功しています」
「ならば、私が疑っても仕方がない。見極めるのは精霊です」
男は樫杖を地面へ置いた。
金属の鎧は着ていない。
両手を空け、空へ向けて掌を開く。
ルクスンもベラトリクスを腰から外し、傍らへ置いた。
「主よ、妾を置いていくのは本日二度目じゃぞ」
「両手を空けないと使えないんだよ。少し黙っていてくれ」
呼吸。
視線。
精神力の流れ。
どの精霊へ語りかけ、どのような姿を思い描くのか。
精霊語の一音。
指先の僅かな動き。
一つたりとも見落とせない。
男が、精霊語で呼びかけた。
「高き空を駆け、戦場へ降り立つ乙女よ。汝が携えし槍の一条を我が手へ。白銀の穂先をもって、立ち塞がるものを貫け」
空き地を吹き抜けていた風が止まった。
男の背後へ、淡い光が集まる。
翼ある兜。
長い髪。
白銀の鎧。
投槍を携えた戦乙女の輪郭が、空中へ浮かび上がった。
戦乙女が槍を差し出す。
その姿が光へほどけ、男の右手へ集まっていく。
細く。
長く。
鋭く。
白銀の光が、一筋の投槍となった。
「〈ヴァルキリー・ジャベリン〉」
投槍が放たれた。
白銀の軌跡が空き地を貫く。
枯れた大木へ命中した瞬間、轟音と共に幹の中央へ大穴が穿たれた。
それでも槍は止まらない。
大木を貫通し、後ろの岩へ突き刺さって消滅した。
ルクスンの中へ、今見た術のすべてが流れ込んでくる。
言葉を記憶しただけではない。
戦乙女へ声を届ける道筋。
白銀の槍へ形を与える精神の働き。
標的を定め、解き放つ瞬間。
ばらばらだった知識が、一つの術として結びついた。
未使用経験点五百点が失われる。
代わりに、新たな魔法がルクスンの中へ定着した。
「覚えたのですか?」
「試してもいいですか?」
男が頷く。
ルクスンは両手を空けたまま、今聞いた精霊語を唱えた。
「高き空を駆け、戦場へ降り立つ乙女よ。汝が携えし槍の一条を我が手へ。白銀の穂先をもって、立ち塞がるものを貫け」
風が止まった。
ルクスンの背後へ、戦乙女の輪郭が現れる。
男の時よりも薄く、ところどころ光が透けている。
それでも戦乙女は槍を差し出した。
白銀の光がルクスンの右手へ集まり、一本の投槍となる。
「〈ヴァルキリー・ジャベリン〉」
二本目の槍が飛んだ。
先ほど穴を穿たれた大木を貫き、後ろの岩を浅く削って消える。
壮年の精霊使いは、驚きを隠さずルクスンを見つめていた。
「本当に、一度見ただけで……」
「僕にも、どうしてできるのかは説明できません」
老女が静かに口を開く。
「見ることのできる目を持ち、戦乙女から槍を借りる術も得た。ですが、泉を救ったのは、声を聞くことのできる耳です。それを忘れないように」
ルクスンはノクティアを見る。
「忘れません。僕一人だったら、楔を見つけても泉ごと壊していたかもしれない」
「わたしは、付き添いで来ただけ」
「違うよ。必要だから一緒に来てもらった。ノクティアがいなければ、ここまで来られなかった」
ノクティアは何も答えなかった。
ただ、いつもより僅かに柔らかな表情で、水音の戻った泉へ顔を向けた。
◇
数日後。
ライナスへ戻ったルクスンたちは、真っ先に魔法の武具を扱う店へ向かった。
目当ての鞘は、まだ壁に掛けられている。
「主よ、残っておるぞ!」
「わかってるよ。店主さん、この鞘をください」
六千ガメルを支払う。
鞘は、見たところ茶色い革製だった。
装飾は少なく、魔法の品だと知らなければ、少し上等な革の鞘にしか見えない。
ルクスンがベラトリクスを納める。
銀色の刀身が収まった瞬間、二つの魔力が触れ合った。
革が小さく脈打つ。
鞘の内側が伸び、成長した刀身へ寸分違わず馴染んでいく。
ルクスンのセンス・マジックには、鞘の魔力が細い糸となってベラトリクスへ結びつく様子が見えていた。
「鞘を取り込んだのか?」
「食ってはおらぬぞ。妾の装具として扱えるようになっただけじゃ」
「どっちにしても、物騒な言い方だな」
店の衝立を借り、ベラトリクスが〈ヒューマノイド〉を使う。
銀色の光が広がった。
剣だった輪郭がほどけ、人の姿へ組み上がっていく。
銀色の長髪。
普通の人間にはない銀色の瞳。
その身体を、鞘と同じ茶色の革衣が包んでいた。
柔らかな革が胸元から腰を覆い、肩と脇は動きを妨げないよう仕立てられている。衣服の形を取りながら、ソフトレザーとして身体を守る作りだ。
ベラトリクスは、自分の身体を見下ろした。
「おお……服を着ておる!」
「初めて、着替えを用意せずに変身できたな」
「じゃが、妾の望んでいたドレスとは少々違うのう」
「最初から舞踏会用のドレスになると思うなよ」
その時、ルクスンの脳裏へ聞き覚えのある幻聴が響いた。
――魔力を持つ鞘との同調を確認しました。
――取得済み技能〈ソーディアン・シィース〉一レベルを適用します。
――魔力を持つ鞘は、剣形態では鞘として、ヒューマノイド形態では衣服として機能します。
――対応形態〈ソーディアンズ・ドレス(レザー)〉を確認しました。
――形状、ソフトレザー。
――防御力、一+ソーディアン・シィース・レベル。
――現在の防御力、二。
――登録された鞘形態、一。
――これは、最初の一つです。
「最初の一つ……?」
ベラトリクスの銀眼が輝いた。
「主よ、ほかの鞘も探すのじゃ! 革の次は鎖か? 銀か? 妾は黒いドレスも欲しいぞ!」
「まだ続きがある!」
幻聴は、ルクスンの都合など待たなかった。
――取得済み技能〈ソーディアン・グッズ〉一レベルを確認しました。
――魔力を持つアイテムを、ソーディアンの装具として扱えます。
――ソーディアンへ装備された魔晶石および魔宝石を、リスクなく扱うことができます。
――何をリスクと見なすかは、ソーディアン自身が感覚的に判断します。
「感覚的って、ずいぶん曖昧だな」
「仕方なかろう。魔力を持つ品は、一つ一つ性質が異なるのじゃ。触れれば、何が危ないかは妾にわかる」
「バロウルの魔眼や炎晶石を装着した時も?」
「うむ。使ってよいか、何をしてはならぬか、妾には何となくわかっておった」
「何となくで、あんな危険物を使ってたのかよ!」
「妾の何となくは、主の考え込んだ末の結論より信用できるのじゃ」
「否定しにくいことを言うな!」
新たに技能を取得したわけではない。
〈ソーディアン・シィース〉と〈ソーディアン・グッズ〉は、どちらも既に一レベルを取得していた。
これまでは対応する鞘や装具を持っていなかったため、その働きが表へ出ていなかっただけだ。
少なくとも、ここでベラトリクスの経験点が減ることはない。
「よかった。ベラの経験点は減ってない」
「主は先ほど、自分の五百点を使い切ったばかりではないか」
「だからこそだよ。経験点は計画的に使わないと」
「では、次は〈ソーディアン・シィース〉を成長させるのじゃ! 妾のドレスを豪華にするぞ!」
「その計画を、今から立てるんだよ!」
【今回の習得・支出】
・ルクスン:未使用経験点五百点を消費し、〈ヴァルキリー・ジャベリン〉を習得。残り零点。
・装備費:魔力を持つ鞘を六千ガメルで購入。
・ベラトリクス:〈ソーディアン・シィース〉一レベル、取得済み。魔力を持つ鞘は、ヒューマノイド形態で衣服となる。
・〈ソーディアンズ・ドレス(レザー)〉:形状はソフトレザー。防御力は一+〈ソーディアン・シィース〉レベル。現在の防御力は二。
・ベラトリクス:〈ソーディアン・グッズ〉一レベル、取得済み。装備した魔力ある品、魔晶石、魔宝石をリスクなく扱える。
・リスクの有無と内容は、ベラトリクス自身が感覚的に判断する。
・二技能とも取得済みのため、今回の経験点消費はなし。