アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
宿の裏庭で、ルクスンは水袋を逆さに持っていた。
栓は締まっている。
縫い目から水が漏れている様子もない。
それでもゼフィーリアは、しばらくそのままでいるようにと言った。
「……腕が疲れてきた」
「もう少しです」
「置いておけばよくないか」
「先ほど、それでご自分の上着を濡らしたでしょう」
ルクスンは黙って水袋を持ち直した。
足元には、濡れた上着が広げられている。
最初の一袋は問題なかった。二袋目も大丈夫だった。三袋目になって気が緩み、衣類の上へ横倒しにしたところ、栓の脇から水が滲んできたのだ。
今は別の袋を調べている。
ゼフィーリアは水滴の跡を指で確かめると、ようやく頷いた。
「そちらは大丈夫そうです」
「僕の腕も、そろそろ大丈夫じゃなくなるところだった」
「剣を振るう腕であろうに、水袋に負けるでない」
腰のベラが口を挟んだ。
「お前も一刻ほど逆さにして干そうか」
「妾まで洗濯物に数えるな!」
その声に、井戸の向こうで敷布を絞っていた宿の女中が振り向いた。
ルクスンは何でもないという顔で水袋を下ろしたが、ゼフィーリアは肩を震わせている。
オトフリートは調べ物へ出かけ、ノクティアは街で道や旅人の話を集めている。
残ったルクスンたちは、行き先が決まる前でもできる仕事から片づけていた。
水袋の点検。
荷紐の結び直し。
底に溜まったパン屑を払い、いつの間にか増えた細々した物を荷袋から出す。
華やかさには、まったく欠ける。
しかし、濡れた上着を前にしては文句も言いにくかった。
「この袋は修理に出そう。買い替えるほどじゃない」
「ええ。ほかの革物も一緒に見てもらいましょう」
ゼフィーリアは傷んだ物を一か所へ寄せ、無事だった物を別の布へ並べた。
ルクスンも腰を下ろして、荷袋の底を探る。
短い紐。布切れ。使いかけの蝋燭。
そして、紙に包まれた小さな塊。
「それは何ですか」
「……食べ物だったもの」
「だった、とは?」
ルクスンは包みをそっと閉じた。
「これは処分する」
ベラの笑い声が、裏庭に響いた。
◇
昼前にノクティアが戻り、三人で市場へ向かった。
街道と水場については、まだ話を集めている途中らしい。オトフリートの調査と照らし合わせるまで、食料を何日分買うかも決められない。
今日は修理を頼み、品物と値段を見るだけである。
そう決めて出てきたはずだった。
「これ、便利そうだな」
露店に吊るされた大きな鍋を前にして、ルクスンが足を止めた。
底が厚く、取っ手も丈夫そうだった。これなら煮込みを作る時に焦がしにくい。
ノクティアが無言で鍋を外し、ルクスンへ渡した。
ずしりと腕へ重さがかかる。
「……丈夫そうだな」
「背負って」
「そこまでしなくても分かる」
ノクティアは鍋を受け取り、元の場所へ戻した。
その手際を見て、店主が笑う。
「荷車ならいいんだがね。背負って歩く連中には、そっちの小さいのが出るよ」
「今ある鍋で足りる」
ノクティアの返事に、ルクスンも頷いた。
空飛ぶ魔力の塔を造るという大きな目標を掲げていても、今の一行は自分の荷物を自分で運ぶ冒険者だった。
台所を丸ごと連れていくわけにはいかない。
革細工の店へ水袋を預けた後も、ルクスンの足は何度か止まった。
頑丈な折り畳み椅子。
蓋つきの食器。
柄の長い調理用の匙。
「主よ、遠足の支度ではないのだぞ」
「座って食事をしたいと思うくらい、いいだろ」
「それは塔ができてからになされ」
「塔ができたら、椅子は折り畳まない」
ゼフィーリアがとうとう吹き出した。
露店の軒先を抜けると、香ばしい匂いが漂ってきた。焼き台の上で薄い生地が膨らみ、売り手がそれを裏返している。
ルクスンは今度こそ立ち止まり、ノクティアを見た。
「これは、持ち歩かずに食べれば重くならない」
「なるよ」
「荷袋は重くならない」
ノクティアは少し考え、二本の指を立てた。
「私も食べる」
「自分の分を入れたら急に話が早いな」
◇
焼きたての薄パンを食べながら市場を歩いていると、ゼフィーリアが木箱の並ぶ店先で足を止めた。
大きな衣装箱の隣に、小ぶりな蓋つきの箱が積まれていた。
「ルクスン。建造書は、何冊くらいあるのでしょう」
口へ運びかけたパンが止まった。
「……そこまでは覚えてない」
「一冊とは限らないのですね」
「ああ。図面が別になっているかもしれない」
魔力の塔建造書。
頭の中では、いつの間にか片手で抱えられる一冊の本になっていた。
だが、大判の図面が何枚もある可能性はある。分厚い書物が何冊にも分かれているかもしれない。長い巻物だったら、荷袋へ折り曲げて詰めるわけにもいかなかった。
ゼフィーリアは小さな箱の蓋を開け、内側を見た。
「水袋と一緒に入れるのは、避けたいですね」
「……今朝の件は反省してる」
「責めているのではありません。無事に見つけても、持ち帰る途中で傷めたら残念ですから」
ルクスンも箱を一つ持ち上げた。
軽い。
しかし、落とした時に角を守るには少し薄そうだった。
横からノクティアが箱の縁を押し、蓋の収まりを確かめる。
「大きさが分からないなら、今は決められない。布と、外から水を防ぐものも見よう」
「それは必要だな」
ルクスンは素直に箱を戻した。
先ほどの鍋とは違って、これは欲しい物を持って帰るための道具だった。
店主に相談すると、紙類を包むために買っていく客もいるという油布を見せてくれた。縫い目や折り癖を確かめ、必要になりそうな大きさを相談する。
箱は保留にした。
その代わり、包む布と紐を買う候補に加えた。
「僕は入ることばかり考えてたな」
店先を離れてから、ルクスンが呟いた。
「見つけた後は、荷物が増える」
ノクティアはパンの最後のひと口を飲み込んだ。
「持って帰る人も必要」
「僕だろうなあ」
「大きい鍋、買わなくてよかった」
それはもう、返す言葉がなかった。
◇
午後、一行は宿の卓で合流した。
オトフリートは数枚の書き付けを広げたが、エピタフの所在を断定できるだけの記録は、まだ揃っていなかった。
「目録から当たりをつけているところです。別の名前で記録されている可能性もありますから、軍事施設の記述も追っています」
「何か見つかりそう?」
「まだ何とも。ただ、調べる先はあります」
ルクスンは頷き、市場で気づいたことを伝えた。
「建造書が何冊あるか分からない。持ち帰る箱を用意した方がいいかと思ったけど、大きさが分からないから見送った」
オトフリートの表情が変わった。
「包む物は?」
「油布と、内側に巻く柔らかい布。今日は品物を見てきた」
「紙と筆記具も必要です。原本を動かせない場合に、書き写せるようにしておきましょう」
「全部写すとなると、大変そうだな」
「ええ。ですから、まず何が書かれているか確かめます。関連のない書類まで抱えて帰っても仕方ありません」
そう言いながら、オトフリートは自分の紙へ書き足していく。
地図の写しに使う分。
現地で記録する分。
資料を写す必要が生じた時の予備。
ペン先が止まる気配はなかった。
「……随分、増えるな」
「足りなくなるよりはいいでしょう」
ノクティアが席を立ち、部屋の隅から空の荷袋を持ってきた。
オトフリートの椅子の横へ、そっと置く。
「運ぶ分も考えて」
彼は荷袋を見下ろし、自分の書いた紙を見た。
それから、予備と書いた文字の下でペンを止めた。
ルクスンは顔を伏せた。
今笑えば、鍋の話になる。
「どうしました、ルクスン」
「いや。準備って大事だと思って」
「何じゃ主よ。あの大鍋のことを申しておるのか」
ベラの声に、ノクティアとゼフィーリアが同時に笑った。
オトフリートが説明を求める視線を向けてくる。
ルクスンは椅子へ深く座り直した。
「塔ができたら、買うことにしたんだ」
窓から入る午後の光が、卓上の書き付けを照らしていた。
道具の修理は頼んだ。買い足す物も少しずつ見えてきた。遺跡への道は、これから調べる。
今日は剣を抜いていない。
それでも、空の荷袋を挟んで続く相談は、確かに次の冒険を前へ進めていた。