アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す   作:駄文亭

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第89話 剣を収める理由

 階段の下から、また名前が聞こえた。

 

 返事はない。

 

 呼ぶ側は少し待ち、同じ名前を繰り返した。

 

「欠席扱いにして次へ行けよ……」

 

 ルクスンは小声で呟いた。

 

 古代語だからわからない、という逃げ道はない。名前も、所属も、返事を要求する言葉も、すべて意味を伴って耳へ入ってくる。

 

 ただし、言葉がわかることと、相手に話が通じることは別だった。

 

 先ほど近づいてきた死霊は、こちらの事情を聞こうとはしなかった。

 

 半開きの兵室から現れた姿を思い返す。

 

 薄い軍服。長い腕。暗く落ち窪んだ顔。

 

 スペクター。

 

 完全版の記憶から、必要な知識を引き出す。実体を持たない死者へ、普通の刃を振っても意味はない。ベラなら斬れるが、こちらにはもう一つ手段がある。

 

 ルクスンは剣を鞘へ収めた。

 

「主よ。今から戦うのではなかったか?」

 

「うん。右手を空ける」

 

「……なるほど。妾を差し置いて、素手で殴りに行くわけじゃな」

 

「相手がアンデッドだからね」

 

「魔剣を買うより拳を磨けとでもいうのか」

 

「君、買ってないだろ。拾ったんだろ」

 

「出会いを拾得物扱いするでない!」

 

 ノクティアが、階段の先を見たまま手を上げた。

 

 二人とも声を落とす。

 

 点呼とは別に、何かが擦れる音がした。

 

 ルクスンは左腕の盾を確かめ、仲間へ向き直った。

 

「下り口で立ち止まらない。僕が右へ出るから、ノクティアは左を見て。オトフリートとゼフィーリアは、その間へ。壁に背中をつけないで」

 

「階段へ追い込んで戦うわけではないのですね」

 

「壁を抜ける相手じゃ、僕の後ろに並んでも守り切れない。横から来るのを、お互いに見てほしい」

 

 オトフリートは頷き、杖を持ち直した。

 

 ノクティアが短く尋ねる。

 

「多かったら?」

 

「戻る。上の広間まで追ってくるなら、そこで仕切り直す」

 

「先に言って。殴りながら考えないで」

 

「僕への信用、低くない?」

 

「殴る方は信用してる」

 

 それ以外については、返答がなかった。

 

     *

 

 二度目の階段を下りる。

 

 ノクティアの明かりが、踏面の割れ目と、壁から抜けかけた金具を照らした。

 

 ルクスンにも暗がりの中の気配は見える。しかし、熱や精霊力が見えるだけでは、足を取られそうな石の欠けまでは確かめにくい。

 

 最後の数段で、兵室から影が現れた。

 

 黄色く濁った負の精霊力。

 

 先ほど斬ったものと同じ個体かはわからない。だが、近づくにつれて姿ははっきりした。

 

「スペクター。まず一体」

 

 告げながら、下り口から右へ出る。

 

 死霊が顔を上げた。

 

 歩いてくるのではなかった。床を滑るように距離が縮まり、長い腕が伸びる。

 

 ルクスンは盾を突き出しかけ、受け止めるのをやめた。身体をずらして指先をかわし、右拳を打ち込む。

 

 しかし、影は横へ流れた。

 

 拳が空を切る。

 

「ちっ、そこは普通に避けるのかよ!」

 

 聖なる右手。

 

 便利な名前がついていても、当てるところまでは自分の仕事だ。

 

 大振りした腕を戻しながら退く。冷たい指先が、鼻先を掠めた。

 

「主よ、腕だけで追うでない!」

 

「わかってる!」

 

 今度は足を運んだ。

 

 死霊の動く先へ半歩寄せ、伸びてきた腕の内側へ踏み込む。

 

 短い右の一撃。

 

 拳が胸の輪郭へ触れた瞬間、白い光が広がった。

 

 軍服の襟が見えた。

 

 頬の痩せた、男の顔が見えた。

 

 そして、崩れた。

 

 黄色い気配が薄れ、廊下の石壁だけが残った。

 

 ルクスンは拳を引き、すぐに左右を見る。

 

「右の壁です。もう一体」

 

 ゼフィーリアの声が飛んだ。

 

     *

 

 壁から、肘が出ていた。

 

 続いて肩と、頭の半分。

 

 それが現れたのは、ルクスンの真正面ではない。階段を下り終えたオトフリートの斜め後ろだった。

 

「壁から離れて!」

 

 ゼフィーリアは自分も中央へ移りながら、魔術師へ告げた。

 

 オトフリートは振り返って立ち止まらず、そのまま彼女の隣へ出る。

 

 死霊が壁を抜け切った。

 

 追いかけようと向きを変えたところへ、ルクスンが横から踏み込む。

 

 右拳が肩口を捉えた。

 

 光に照らされた輪郭が大きく歪み、そのまま散った。

 

「二体。ほかは?」

 

「左から一つ」

 

 ノクティアが明かりを向ける。

 

「正面にもいます」

 

 ゼフィーリアが続けた。

 

 左の廊下と、当直表のある壁際。

 

 両方が近づいていた。

 

 ルクスンは、二体の間へ立とうとしてやめた。欲張れば、どちらにも背中を見せる。

 

「左をやる。正面、頼める?」

 

「任せてください」

 

 オトフリートが、ルクスンと射線が重ならない位置へ動いた。

 

 杖が上がる。

 

「全知全能たる万能たるマナよ——」

 

 ルクスンは左へ向かった。

 

 薄い身体を透かして、背後の扉が見える。

 

 実体がない相手へ拳を振るう。何度やっても、身体の方が納得しきれていない。

 

 当たると思えば避けられる。

 

 すり抜けそうに見える胸を殴れば、確かな抵抗が返る。

 

 考えすぎるな。

 

 届く場所へ踏み込んで、当てる。

 

 死霊の腕をかわし、右足で床を踏んだ。

 

 拳が胴を捉える。

 

 白い光の向こうで、細い口が開いた。

 

 何かを言ったのかもしれない。

 

 だが、音になる前に、その姿は消えた。

 

     *

 

 背後で、魔力が弾けた。

 

 振り向くと、エネルギー・ボルトを受けた死霊が、身体を薄れさせながらも進んでいた。

 

 抵抗されたか。

 

 ルクスンが戻ろうとした時、ノクティアが声を掛けた。

 

「こっち」

 

 死霊の横へ身を見せ、すぐ退く。

 

 伸びてきた手をかわすのと同時に、彼女は空いた場所をルクスンへ譲った。

 

 追いかけてはいない。

 

 相手の向きを変えただけだ。

 

 ルクスンはその間へ入り、身体の残った中心を打ち抜いた。

 

 光が消えた後、廊下には四人の呼吸だけが残った。

 

「……今ので、近くは終わりか」

 

 壁の中まで透けて見えるわけではない。

 

 ルクスンは首を巡らせ、開いた扉、廊下の先、階段を順に確かめた。黄色い気配が新たに浮かび上がることはなかった。

 

 オトフリートが杖を下ろす。

 

「一撃では消せませんでしたね」

 

「十分。こっちへ来る間ができた」

 

「もう一度撃つ必要がなくて助かりました。倉庫でも使っていますから」

 

 ゼフィーリアがルクスンの腕を見る。

 

「触れられましたか?」

 

「いや。最初のは、ちょっと危なかったけど」

 

「では、治療は不要ですね。次も、そのつもりでお願いします」

 

「いつでも治せますよ、とは言わないんだ」

 

「言えば、当てにするでしょう?」

 

 即答だった。

 

 ルクスンは反論を探し、やめた。

 

 ベラが鞘の中で笑う。

 

「主の日頃の行いじゃな」

 

「お前までそっちにつくなよ」

 

     *

 

 ノクティアが帰り道の目印を残す間、ルクスンは当直表を調べた。

 

 文字は読める。

 

 ただし、読めたからといって、この要塞の運用がすべてわかるわけではなかった。

 

 札には兵室の番号と、幾つもの部隊名がある。交代を示すらしい記号の脇に、広間の名称が繰り返されていた。

 

「食堂前広間。集合場所はそこだね」

 

 オトフリートが隣から覗く。

 

「こちらの札は出勤者の名簿ではなく、勤務を割り当てる表のようです。交代する組を、札ごと入れ替えるのでしょう」

 

「今いる兵士の数までは、わからないか」

 

「この表だけでは。記録を更新した時期も不明です」

 

 ルクスンは頷いた。

 

 知っている言葉。

 

 知らない組織。

 

 見たことのない要塞。

 

 その区別をつけておかないと、読めること自体が落とし穴になる。

 

 前世で見た記事も同じだった。

 

 覚えているのは、エピタフに魔力の塔の建造書があるという手掛かりだけ。兵舎をどちらへ抜ければいいかなど、記憶のどこを探しても出てこない。

 

「次からは、記事を斜め読みしないようにしよう」

 

「次?」

 

 ノクティアが目を上げた。

 

「昔の自分への文句」

 

「今の自分が読めばいい」

 

 彼女は当直表を指した。

 

 ごもっともである。

 

     *

 

 右の廊下へ進んだ。

 

 ルクスンが前に立ち、ノクティアが明かりと足元を見る。ゼフィーリアとオトフリートは、左右の扉と背後を分担した。

 

 兵室を一つずつ開けて回ることはしなかった。

 

 目的は建造書だ。

 

 倉庫の武器が崩れた後で、兵士の私物まで漁る気にはなれない。何より、寝台の間で囲まれたくなかった。

 

 廊下の先が広がる。

 

 ルクスンは手を上げ、角の手前で止まった。

 

 声が、近い。

 

「第二班——」

 

 名前が続く。

 

「現在」

 

 掠れた返事。

 

 身を少しだけ出すと、広間に二列の影が見えた。

 

 兵士だったものたちが並んでいる。

 

 ところどころに空きがあった。肩と頭しか見えないものもいれば、装具の形を残しているものもいた。

 

 列の正面に立つ影が、次の名を呼ぶ。

 

 返事はない。

 

 少し待ち、もう一度。

 

 ルクスンは角へ戻った。

 

「多い。並んで点呼を受けてる」

 

「命令に従っているのですか?」

 

 オトフリートの問いに、ルクスンは首を傾けた。

 

「今、命令されてるのか、昔の動作を繰り返してるのかはわからない。さっきの連中みたいに、こっちを見つけたら襲ってくるかもしれない」

 

 ゼフィーリアが、返事のない名前を呼ぶ声へ耳を向けた。

 

「終える者がいないのでしょうね」

 

「点呼を?」

 

「少なくとも、あの者には終えられないようです」

 

 憐れむ声ではなかった。

 

 自分ではやめられない行為を続ける死者へ、冷たい不快感を向ける声だった。

 

 ルクスンはもう一度、広間を覗いた。

 

 右端に通路がある。

 

 その上の石には、『上級士官区連絡路』と刻まれていた。

 

 あった。

 

 だが、標識の先を通れるかどうかは、まだ見えていない。

 

「右奥が士官区への道。ただ、列の脇を通らないと入れない」

 

「先を見る」

 

 ノクティアが言った。

 

「近づくなら、僕も一緒に。壁際から出られると逃げる方向が減る」

 

「わかってる」

 

 短い返事の後、彼女は付け加えた。

 

「拳を握る前に、帰り道も見て」

 

 ルクスンは、無意識に丸めていた右手を開いた。

 

「……本当に信用が偏ってるな」

 

「だから長生きできるのじゃ、主よ」

 

 ベラまで同意した。

 

 広間では、また同じ名前が呼ばれていた。

 

 ルクスンは腰の柄と、左腕の盾を確かめる。

 

 右手なら倒せる。

 

 だが、倒せる相手を片端から殴るために来たわけではない。

 

 先へ抜ける。

 

 仲間を連れて。

 

 そのために、どこまで戦う必要があるのか。

 

 ルクスンは今度こそ拳を握らず、広間の床と、列の間隔を見直した。

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