アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
階段の下から、また名前が聞こえた。
返事はない。
呼ぶ側は少し待ち、同じ名前を繰り返した。
「欠席扱いにして次へ行けよ……」
ルクスンは小声で呟いた。
古代語だからわからない、という逃げ道はない。名前も、所属も、返事を要求する言葉も、すべて意味を伴って耳へ入ってくる。
ただし、言葉がわかることと、相手に話が通じることは別だった。
先ほど近づいてきた死霊は、こちらの事情を聞こうとはしなかった。
半開きの兵室から現れた姿を思い返す。
薄い軍服。長い腕。暗く落ち窪んだ顔。
スペクター。
完全版の記憶から、必要な知識を引き出す。実体を持たない死者へ、普通の刃を振っても意味はない。ベラなら斬れるが、こちらにはもう一つ手段がある。
ルクスンは剣を鞘へ収めた。
「主よ。今から戦うのではなかったか?」
「うん。右手を空ける」
「……なるほど。妾を差し置いて、素手で殴りに行くわけじゃな」
「相手がアンデッドだからね」
「魔剣を買うより拳を磨けとでもいうのか」
「君、買ってないだろ。拾ったんだろ」
「出会いを拾得物扱いするでない!」
ノクティアが、階段の先を見たまま手を上げた。
二人とも声を落とす。
点呼とは別に、何かが擦れる音がした。
ルクスンは左腕の盾を確かめ、仲間へ向き直った。
「下り口で立ち止まらない。僕が右へ出るから、ノクティアは左を見て。オトフリートとゼフィーリアは、その間へ。壁に背中をつけないで」
「階段へ追い込んで戦うわけではないのですね」
「壁を抜ける相手じゃ、僕の後ろに並んでも守り切れない。横から来るのを、お互いに見てほしい」
オトフリートは頷き、杖を持ち直した。
ノクティアが短く尋ねる。
「多かったら?」
「戻る。上の広間まで追ってくるなら、そこで仕切り直す」
「先に言って。殴りながら考えないで」
「僕への信用、低くない?」
「殴る方は信用してる」
それ以外については、返答がなかった。
*
二度目の階段を下りる。
ノクティアの明かりが、踏面の割れ目と、壁から抜けかけた金具を照らした。
ルクスンにも暗がりの中の気配は見える。しかし、熱や精霊力が見えるだけでは、足を取られそうな石の欠けまでは確かめにくい。
最後の数段で、兵室から影が現れた。
黄色く濁った負の精霊力。
先ほど斬ったものと同じ個体かはわからない。だが、近づくにつれて姿ははっきりした。
「スペクター。まず一体」
告げながら、下り口から右へ出る。
死霊が顔を上げた。
歩いてくるのではなかった。床を滑るように距離が縮まり、長い腕が伸びる。
ルクスンは盾を突き出しかけ、受け止めるのをやめた。身体をずらして指先をかわし、右拳を打ち込む。
しかし、影は横へ流れた。
拳が空を切る。
「ちっ、そこは普通に避けるのかよ!」
聖なる右手。
便利な名前がついていても、当てるところまでは自分の仕事だ。
大振りした腕を戻しながら退く。冷たい指先が、鼻先を掠めた。
「主よ、腕だけで追うでない!」
「わかってる!」
今度は足を運んだ。
死霊の動く先へ半歩寄せ、伸びてきた腕の内側へ踏み込む。
短い右の一撃。
拳が胸の輪郭へ触れた瞬間、白い光が広がった。
軍服の襟が見えた。
頬の痩せた、男の顔が見えた。
そして、崩れた。
黄色い気配が薄れ、廊下の石壁だけが残った。
ルクスンは拳を引き、すぐに左右を見る。
「右の壁です。もう一体」
ゼフィーリアの声が飛んだ。
*
壁から、肘が出ていた。
続いて肩と、頭の半分。
それが現れたのは、ルクスンの真正面ではない。階段を下り終えたオトフリートの斜め後ろだった。
「壁から離れて!」
ゼフィーリアは自分も中央へ移りながら、魔術師へ告げた。
オトフリートは振り返って立ち止まらず、そのまま彼女の隣へ出る。
死霊が壁を抜け切った。
追いかけようと向きを変えたところへ、ルクスンが横から踏み込む。
右拳が肩口を捉えた。
光に照らされた輪郭が大きく歪み、そのまま散った。
「二体。ほかは?」
「左から一つ」
ノクティアが明かりを向ける。
「正面にもいます」
ゼフィーリアが続けた。
左の廊下と、当直表のある壁際。
両方が近づいていた。
ルクスンは、二体の間へ立とうとしてやめた。欲張れば、どちらにも背中を見せる。
「左をやる。正面、頼める?」
「任せてください」
オトフリートが、ルクスンと射線が重ならない位置へ動いた。
杖が上がる。
「全知全能たる万能たるマナよ——」
ルクスンは左へ向かった。
薄い身体を透かして、背後の扉が見える。
実体がない相手へ拳を振るう。何度やっても、身体の方が納得しきれていない。
当たると思えば避けられる。
すり抜けそうに見える胸を殴れば、確かな抵抗が返る。
考えすぎるな。
届く場所へ踏み込んで、当てる。
死霊の腕をかわし、右足で床を踏んだ。
拳が胴を捉える。
白い光の向こうで、細い口が開いた。
何かを言ったのかもしれない。
だが、音になる前に、その姿は消えた。
*
背後で、魔力が弾けた。
振り向くと、エネルギー・ボルトを受けた死霊が、身体を薄れさせながらも進んでいた。
抵抗されたか。
ルクスンが戻ろうとした時、ノクティアが声を掛けた。
「こっち」
死霊の横へ身を見せ、すぐ退く。
伸びてきた手をかわすのと同時に、彼女は空いた場所をルクスンへ譲った。
追いかけてはいない。
相手の向きを変えただけだ。
ルクスンはその間へ入り、身体の残った中心を打ち抜いた。
光が消えた後、廊下には四人の呼吸だけが残った。
「……今ので、近くは終わりか」
壁の中まで透けて見えるわけではない。
ルクスンは首を巡らせ、開いた扉、廊下の先、階段を順に確かめた。黄色い気配が新たに浮かび上がることはなかった。
オトフリートが杖を下ろす。
「一撃では消せませんでしたね」
「十分。こっちへ来る間ができた」
「もう一度撃つ必要がなくて助かりました。倉庫でも使っていますから」
ゼフィーリアがルクスンの腕を見る。
「触れられましたか?」
「いや。最初のは、ちょっと危なかったけど」
「では、治療は不要ですね。次も、そのつもりでお願いします」
「いつでも治せますよ、とは言わないんだ」
「言えば、当てにするでしょう?」
即答だった。
ルクスンは反論を探し、やめた。
ベラが鞘の中で笑う。
「主の日頃の行いじゃな」
「お前までそっちにつくなよ」
*
ノクティアが帰り道の目印を残す間、ルクスンは当直表を調べた。
文字は読める。
ただし、読めたからといって、この要塞の運用がすべてわかるわけではなかった。
札には兵室の番号と、幾つもの部隊名がある。交代を示すらしい記号の脇に、広間の名称が繰り返されていた。
「食堂前広間。集合場所はそこだね」
オトフリートが隣から覗く。
「こちらの札は出勤者の名簿ではなく、勤務を割り当てる表のようです。交代する組を、札ごと入れ替えるのでしょう」
「今いる兵士の数までは、わからないか」
「この表だけでは。記録を更新した時期も不明です」
ルクスンは頷いた。
知っている言葉。
知らない組織。
見たことのない要塞。
その区別をつけておかないと、読めること自体が落とし穴になる。
前世で見た記事も同じだった。
覚えているのは、エピタフに魔力の塔の建造書があるという手掛かりだけ。兵舎をどちらへ抜ければいいかなど、記憶のどこを探しても出てこない。
「次からは、記事を斜め読みしないようにしよう」
「次?」
ノクティアが目を上げた。
「昔の自分への文句」
「今の自分が読めばいい」
彼女は当直表を指した。
ごもっともである。
*
右の廊下へ進んだ。
ルクスンが前に立ち、ノクティアが明かりと足元を見る。ゼフィーリアとオトフリートは、左右の扉と背後を分担した。
兵室を一つずつ開けて回ることはしなかった。
目的は建造書だ。
倉庫の武器が崩れた後で、兵士の私物まで漁る気にはなれない。何より、寝台の間で囲まれたくなかった。
廊下の先が広がる。
ルクスンは手を上げ、角の手前で止まった。
声が、近い。
「第二班——」
名前が続く。
「現在」
掠れた返事。
身を少しだけ出すと、広間に二列の影が見えた。
兵士だったものたちが並んでいる。
ところどころに空きがあった。肩と頭しか見えないものもいれば、装具の形を残しているものもいた。
列の正面に立つ影が、次の名を呼ぶ。
返事はない。
少し待ち、もう一度。
ルクスンは角へ戻った。
「多い。並んで点呼を受けてる」
「命令に従っているのですか?」
オトフリートの問いに、ルクスンは首を傾けた。
「今、命令されてるのか、昔の動作を繰り返してるのかはわからない。さっきの連中みたいに、こっちを見つけたら襲ってくるかもしれない」
ゼフィーリアが、返事のない名前を呼ぶ声へ耳を向けた。
「終える者がいないのでしょうね」
「点呼を?」
「少なくとも、あの者には終えられないようです」
憐れむ声ではなかった。
自分ではやめられない行為を続ける死者へ、冷たい不快感を向ける声だった。
ルクスンはもう一度、広間を覗いた。
右端に通路がある。
その上の石には、『上級士官区連絡路』と刻まれていた。
あった。
だが、標識の先を通れるかどうかは、まだ見えていない。
「右奥が士官区への道。ただ、列の脇を通らないと入れない」
「先を見る」
ノクティアが言った。
「近づくなら、僕も一緒に。壁際から出られると逃げる方向が減る」
「わかってる」
短い返事の後、彼女は付け加えた。
「拳を握る前に、帰り道も見て」
ルクスンは、無意識に丸めていた右手を開いた。
「……本当に信用が偏ってるな」
「だから長生きできるのじゃ、主よ」
ベラまで同意した。
広間では、また同じ名前が呼ばれていた。
ルクスンは腰の柄と、左腕の盾を確かめる。
右手なら倒せる。
だが、倒せる相手を片端から殴るために来たわけではない。
先へ抜ける。
仲間を連れて。
そのために、どこまで戦う必要があるのか。
ルクスンは今度こそ拳を握らず、広間の床と、列の間隔を見直した。