アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
第四層へ下りる階段には、敷物が残っていた。
かつては赤かったのだろう。今は茶色く変わり、中央だけが薄く擦り切れている。
先導する士官の足は、その上に触れていなかった。
四人の靴音だけが響く。
ノクティアは曲がり角ごとに振り返り、帰りに見える景色を確かめていた。ルクスンも、階段の幅と、踊り場に置かれた台座の位置を覚える。
逃げる時には邪魔になる。
それが、この場所で装飾品を見る最初の基準だった。
下り切った所には、衛兵の控えがあった。
槍を立てるための台と、壁沿いの長椅子。
番兵はいない。
その先で、廊下が分かれていた。
オトフリートが小声で告げる。
「見取り図の通りですね。書庫は右、作戦室は正面です」
ルクスンは右手を見た。
閉ざされた扉のある方から、わかりやすく魔力が輝いているわけではなかった。
何も見えないから、封印がない。
そう判断してはいけないことを、彼は知っている。
今は手を出さない。
正面の扉へ向き直った。
*
当直士官が先に入り、一行は呼ばれるまで待った。
扉には大きな取っ手がある。
ノクティアは蝶番と、床との隙間を見た。
「片方、擦ってる」
「開く?」
「たぶん。帰りに閉まってると、邪魔」
ルクスンは頷いた。
ここまで、死霊に対しては扉が役に立たないことばかり考えていた。
だが、生きている自分たちの邪魔にはなる。
実に不公平な建具だった。
「入りたまえ」
中から声がした。
ノクティアが扉を押す。
片側は開いたが、もう片側は床を擦って途中で止まった。一行は開いた方から入り、扉をそのままにした。
広い部屋だった。
中央の卓には、要塞と周辺地形の模型が据えられている。城壁、街道、乾いた水路。砲台を避けて進んだ窪地らしいものも見えた。
壁の地図は下半分が失われていた。
書類棚には、枠だけが残っている。
その奥に、将軍が立っていた。
長い軍装を着た、背の高い影。
肩の飾りははっきりしているのに、顔は暗く、目の位置だけが冷たく光っていた。
負の精霊力が、人の形へ濃く集まっている。
レイス。
ルクスンは、その姿を確かめた。
隣に控える士官と同じ死者でも、受ける印象はまるで違った。
近づきたくない。
身体がそう訴えていた。
ルクスンは歩幅を狭め、卓を挟んだ位置で止まった。
*
「名と所属を」
低い声だった。
ルクスンは名乗り、仲間を紹介した。ゼフィーリアの信仰や、ノクティアの過去まで話す必要はない。
将軍は途中で口を挟まなかった。
オトフリートが一礼する。
「魔術の研究をしております。書庫の技術資料を拝見したく、参りました」
「君が責任者か?」
将軍の問いに、オトフリートはルクスンへ目を向けた。
「専門的な調査は私が担当しますが、一行の行動は相談して決めています」
将軍がルクスンを見る。
「君が前衛か」
「はい」
「塔の書物を求めていると聞いた。何に使う?」
「自分たちの拠点になる塔を造りたいんです。魔力を通し、維持するための技術を探しています」
将軍の指が、卓上の模型へ向いた。
「維持を先に考えたまえ。建てた時の術者が、いつまでも面倒を見られるとは限らん」
その言葉に、オトフリートが顔を上げた。
「この要塞では、区画ごとに動力を切り離せるようになっていました。塔でも同様の構造を用いるのでしょうか?」
「規模と用途による。すべてを一つへ繋げれば、故障も全体へ及ぶ」
将軍は模型の砲台を示した。
説明は明瞭だった。
オトフリートが問い、将軍が答える。
ルクスンにも言葉の意味はわかる。しかし、導管の組み方と実際の術式を結びつけて検討するのは、魔術師の領分だった。
こういう話をしている時のオトフリートは、目つきが変わる。
危険な相手だということは忘れていないだろう。
忘れていないと思いたい。
ルクスンは、さりげなく魔術師の横顔を確かめた。
その視線に気づき、オトフリートが一度だけ小さく頷く。
大丈夫らしい。
*
「ところで」
将軍が話を変えた。
「外から来たのであれば、輸送路を通ったのだな」
「途中までは、古い街道を使いました」
「補給隊は、どこまで来ている?」
ルクスンは黙った。
オトフリートも、開きかけた口を閉じた。
「僕たちは、補給隊を見ていません」
「最後に立ち寄った集落は?」
名を答える。
将軍に、心当たりはないようだった。
道筋を尋ねられ、ルクスンは実際に歩いた場所を説明した。ノクティアが距離や分岐を短く補う。
将軍の指が模型を移動する。
ある場所で止まった。
「橋を渡らなかったのか?」
「そこに橋はありませんでした。崩れた石はありましたが、乾いた所を歩いて渡りました」
将軍の顔が上がった。
「いつの報告だ?」
「ここへ来る途中で見たことです」
軍服の裾が揺れた。
風はない。
ルクスンは、仲間の位置を確かめた。
ノクティアは扉寄り。
ゼフィーリアはオトフリートの斜め後ろ。
当直士官は、将軍の傍らにいる。
「街道の維持は、誰が担当している?」
「わかりません。ただ、僕たちが通った道は、長く使われていないようでした」
「では、補給隊は別の道を——」
「将軍」
ルクスンは言葉を挟んだ。
将軍の目が、こちらへ止まる。
言えば、荒れるかもしれない。
だが、来もしない隊の居場所を尋ねられ続けても、答えは変わらなかった。
「僕たちは、補給の遅れを報告しに来たのではありません」
一度、息を吸った。
「将軍の王国は、もうありません」
*
肩の輪郭が膨らんだ。
軍装の飾りが暗がりへ沈む。
顔のある場所が歪み、冷気が卓を越えて流れてきた。
ルクスンは剣へ手を掛けなかった。
ただ、足を置き直した。
右手を前へ出せるように。
オトフリートが半歩下がる。ノクティアは扉への道を空けた。
ゼフィーリアは将軍から目を逸らさず、静かに呼吸を整えていた。
「将軍」
当直士官が進み出た。
「この件は、以前にもご報告しました」
暗い顔が、そちらを向く。
士官は退かなかった。
「連絡は回復いたしません」
長い沈黙があった。
ルクスンは、将軍の腕を見ていた。
攻撃の兆しがあれば動く。
その一方で、何も起こらないでくれと願っていた。
模型を挟んで踏み込むには、距離がある。ここで戦い始めれば、右手が届くまでに何を受けるかわからない。
やがて、軍服の形が戻った。
肩。
襟。
長い裾。
将軍は卓へ手を置いた。
「……覚えている」
低い声だった。
士官が頭を下げる。
ルクスンは構えを解かなかったが、止めていた息をゆっくり吐いた。
*
「ならば、君たちは誰の命令で来た?」
「誰の命令でもありません」
ルクスンは答えた。
「欲しい本があるので、仲間と相談して来ました。道を調べて、食料を用意して、危なくなったら引き返すつもりで」
「独断か」
「僕一人では決めていません。みんな、それぞれの理由で来ています」
将軍は四人を見た。
揃わない装備。
異なる服。
同じ紋章を持たず、同じ姿勢でも立たない一行。
その視線が、ルクスンの盾に残った焦げ跡で止まった。
「その損傷は?」
「ここの砲台です」
ルクスンは答え、続けた。
「城壁から撃たれました。だから、正面からは入れませんでした」
*
今度は、最後まで聞いてもらえた。
砲台で拘束されていた火の精霊。
倒しても再び魔力が流れ込み始めたため、装置への供給を止めたこと。
オトフリートが操作した機構を説明すると、将軍は一度だけ頷いた。
中庭の話では、ルクスンは少し言葉を選んだ。
「ドリアードは、傷を覆ってくれました。休ませようとしたんだと思います。でも、出ていこうとすると捕まえようとした」
将軍は動かなかった。
「倉庫では、七体のヴァルキリーに襲われました。話はできなかったので、倒しました。武器は、その後で崩れ始めています」
当直士官が目を伏せた。
「兵舎でも襲われました。こちらへ来るために、何体も倒しています」
「損害は?」
ルクスンは仲間へ目を向けた。
「怪我はしました。治してもらいました。全員、ここにいます」
将軍の肩が、わずかに下がった。
続けて、要塞側の被害も問われる。
止めた砲台は一つ。
倉庫の七体は消滅。
兵舎で倒した死霊の数は、正確には記録していない。
答え終えてから、ルクスンは将軍の反応を待った。
こちらは、この人の要塞へ入り、部下だったものと戦ってきた。
必要だった。
その判断を撤回する気はない。
だが、相手も同じように考えるとは限らなかった。
*
将軍は卓の端へ手を伸ばした。
小さな金属の鈴があった。
指が、それをすり抜ける。
音は鳴らない。
将軍の手が止まった。
当直士官が静かに一歩進み、呼ばれた者の位置へ立つ。
それを見て、ルクスンは鈴の用途を理解した。
「書庫の封印を解く」
将軍が命じた。
「同行して、必要な書物を確認させよ」
ルクスンは、思わずオトフリートを見た。
魔術師もこちらを見る。
だが、喜ぶには早かった。
「持ち出しの許可は、まだだ」
将軍の声に、視線を戻す。
「条件がありますか?」
「兵站の記録も確認してもらいたい。兵員、糧食、稼働する設備。現在の状況を、報告したまえ」
ルクスンは黙った。
要塞全体を調べ直せと言われたら、引き受けられない。
すでに戦っている。
上へ戻れば、また戦うことになるかもしれない。
「僕たちが見てきたことと、残っている記録で確かめられる範囲なら」
はっきりと条件を返した。
「全区画を制圧して調査する約束はできません。仲間を、そのために危険へ戻すつもりはありません」
将軍の目が細くなったように見えた。
ルクスンは、続けて言おうとした弁解を飲み込んだ。
返事を待つ。
「……確認したことと、未確認のことを分けたまえ」
「それなら、できます」
ルクスンは仲間へ向き直り、短く相談した。
オトフリートは、記録の調査なら引き受けられると答えた。
ノクティアは、再調査が必要なら、その時に進むか戻るかを決めると言った。
ゼフィーリアは将軍を一瞥し、ルクスンへ告げた。
「事実を知りたいというのであれば、協力します。ただし、望んだ答えが出るとは限りません」
ルクスンは頷き、そのまま将軍へ伝えた。
「聞きたい報告になるとは、限りません」
将軍は卓上の模型を見下ろした。
欠けていない城壁。
途切れていない街道。
小さな木の立つ中庭。
そこへ置かれた透ける手が、ゆっくり引かれた。
「報告とは、そういうものだ」
ルクスンは一礼した。
当直士官が、書庫へ案内するために歩き出す。
その後を追う時、腰のベラが小さく言った。
「主よ。まだ、油断するでないぞ」
「わかってる」
振り返ると、将軍は模型の前に立っていた。
こちらを見てはいなかった。
指先が、もう存在しない橋の上で止まっていた。