アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す 作:駄文亭
「全軍、配置を——」
将軍の声が途切れた。
卓へ置かれた手が、天板の中へ沈む。肩の飾りが暗がりに溶け、軍服の裾が床を這うように広がった。
ルクスンは下がった。
自分だけではない。
オトフリートの前へ腕を出し、扉の方へ促す。
「外へ。まだ書庫には行かないで」
持ち出しの許可は得た。
本は、包んである。
だが、今ここで荷物を取りに走れば、分かれた先で襲われる。
ノクティアが入口へ戻った。半ば閉じかけた扉を押し広げ、四人が通れる幅を確保する。
当直士官だけが、その場に残っていた。
「将軍。ご命令を」
将軍が顔を上げた。
冷たい目が、士官を見た。
次に、ルクスンたちへ向いた。
「誰の許可で、そこにいる」
さっきまでの会話が、消えていた。
*
「あなたの許可です。書庫を確認し、報告に戻りました」
ルクスンは答えた。
剣へ手を掛ける。
抜かずに済むなら、それでいい。
しかし、目の前の輪郭はもう、人の形へ戻ろうとしていなかった。
「書庫……」
将軍が呟く。
暗い顔が、オトフリートの手元へ向いた。そこには調査に使った紙があった。
「機密を、持ち出すか」
「許可は、先ほど——」
オトフリートの言葉を、ルクスンが遮った。
「下がって!」
将軍が卓へ踏み込んだ。
いや、卓を通り抜けた。
模型の城壁を避けもせず、黒い軍装が石の砦を呑み込み、そのまま向こう側へ出てくる。
ルクスンはベラを抜いた。
伸びてくる腕を、斜めに斬る。
銀の刃が暗い輪郭を裂いた。
手応えはあった。
だが、将軍は止まらなかった。
「くそっ!」
身体を捻る。
冷たい指が左肩へ触れた。
その瞬間、盾を支える腕から力が抜けかけた。
スペクターの時とは違った。
冷えが皮膚から入ってくるのではない。胸の奥を直接掴まれ、そこから身体全体を冷やされるようだった。
息が詰まる。
ルクスンは歯を食いしばり、足を引いた。
「ルクスン、こちらです!」
ゼフィーリアの声が聞こえた。
その方へ退く。
ベラの切っ先を上げたまま、将軍から目を離さない。
ミスリルの鎖帷子は裂けていない。
だからといって、守られているわけではなかった。
*
神聖語の祈りが響いた。
ゼフィーリアは入口寄りから、ルクスンを見ていた。
近づいてはこない。
将軍を挟まず、こちらへ魔法を届けられる位置を保っている。
胸の冷えが緩み、ようやく息が入った。
「動けますか?」
「動く!」
「では、こちらへ。今は追いかけないでください」
追いかけるどころか、追われていた。
レイスが再び近づく。
ルクスンは斬り込まず、横へ退いた。
卓を間に置けば止まる相手ではない。しかし、自分が卓の脚へ引っ掛かれば、それだけで終わる。
床を見る余裕を、無理に作る。
左後ろに椅子。
右は空いている。
右へ。
将軍の腕が届く前に、短くベラを振った。
狙いを深くせず、迫る肩口を斬る。
暗い輪郭が揺らいだ。
「主よ、届いておる! 焦って踏み込むでない!」
ベラの声が、近くに聞こえた。
そうだ。
斬れている。
効いていないわけではない。
ただ、こちらが一度触られる代償が重すぎた。
「全知全能たる万能たるマナよ——」
オトフリートの詠唱が始まった。
ルクスンはさらに横へ動いた。
魔術師の前から、自分の身体を外す。
杖先から放たれたエネルギー・ボルトが、将軍の胸へ突き刺さった。
暗い軍装が大きく波打つ。
その間に、ルクスンは入口近くまで退いた。
*
「廊下、今はいない」
ノクティアが知らせた。
彼女は扉の外へ出きらず、作戦室と廊下の両方を確かめていた。
右へ行けば書庫。
左手に、上へ戻る階段。
逃げるなら、今だった。
少なくとも、一度距離を取れる。
ルクスンは将軍を見た。
卓の横に立っている。
胸の輪郭は薄れ、斬られた腕の形も崩れていた。
それでも、こちらを見る目は消えていない。
当直士官が呼び掛けた。
「将軍。彼らは敵ではありません」
将軍の顔が、ゆっくり動いた。
「持ち場へ戻れ」
「私は、ここにおります」
「戻れ」
同じ言葉だった。
相手の返事を受けているようには聞こえなかった。
ルクスンは、上の兵舎を思い出した。
何度呼んでも返事のない名前。
返事があっても、次へ進めない点呼。
同じことが、ここでも起きていた。
「逃げる?」
ノクティアが尋ねた。
ルクスンは一度、廊下へ目を向けた。
そして、首を振った。
「この距離で背中を見せたくない。僕が前にいる。追ってきたら、廊下で受ける」
「わかった」
ノクティアは反対しなかった。
代わりに、足元の小さな木片を蹴り退けた。
ルクスンが退く場所から。
*
ベラを鞘へ戻す。
「右手か」
「うん」
それ以上の説明は、いらなかった。
ベラで斬った。
オトフリートの魔法も通った。
ここから先は、一度でも深く拳を入れたい。
ただし、そのために相手の懐へ飛び込めば、また触られる。
ルクスンは左腕の盾を少し下げた。
受け止める道具として頼るのではなく、視界を塞がない位置へ置く。
将軍が動いた。
さっきより輪郭は崩れている。
だから遅いとは限らなかった。
ルクスンは伸びる腕を見た。
かわす。
踏み込む。
右拳を振る。
将軍の身体が斜めに流れた。
拳は軍装の端を掠めただけだった。
「ちっ!」
当てなければ意味がない。
強い一撃を持っているからといって、都合よく相手が立ち止まってくれるわけではなかった。
すぐに引く。
追ってくる腕が、顔の前へ迫った。
「右!」
ノクティアの声へ反応し、身体を横へ投げ出すように動かす。
足が床を滑った。
転ぶな。
ここで倒れるな。
右足で踏み止まる。
将軍の手が、肩のすぐ横を通り過ぎた。
ルクスンは、その腕を掴もうとはしなかった。
身体の向きを変え、伸び切った腕の内側へ踏み込む。
大きく振る余地はない。
腰を入れ、短く押し出すように拳を打った。
今度は、胸の中央を捉えた。
*
白い光が広がった。
暗い軍装の内側から、光が滲み出す。
将軍の顔が見えた。
頬の痩せた男だった。
眉間に深い皺があり、口元が固く結ばれている。
その顔が、驚いたようにルクスンを見た。
ルクスンは拳を引き、退いた。
まだ動くかもしれない。
倒したと決めつけて、次を受けるわけにはいかなかった。
将軍は追ってこなかった。
卓の方へ、ゆっくり向き直る。
片手を伸ばした。
指先が、模型の城壁をすり抜けた。
身体の輪郭が薄れていく。
「……報告を」
将軍が言った。
ルクスンは呼吸を整えながら答えた。
「報告は、終わりました」
将軍の目が、こちらへ戻る。
「そうか」
それは、先ほどまで話していた人の声だった。
*
当直士官が近づいた。
ルクスンは止めようとして、やめた。
士官も、今の将軍を見ていた。
消えかけた軍装。
薄くなった肩の飾り。
卓へ触れられない手。
「将軍」
霊は姿勢を正した。
「ご命令を」
将軍は、士官の顔を見た。
長い間、何も言わなかった。
ルクスンには、どれほど長かったのかわからない。
息を吸い、吐く音が、自分の耳にうるさかった。
やがて、将軍の口が動いた。
「持ち場を……離れよ」
士官の肩が、わずかに揺れた。
「承知しました」
返事は、はっきりしていた。
将軍は頷こうとした。
その輪郭が、先に崩れた。
軍服も、顔も、冷たい目も、薄れていく。
最後に残った光が消えると、作戦室には模型と、古い椅子があった。
レイスの姿は、もうなかった。
*
ルクスンは、すぐには拳を下ろさなかった。
目の前を見る。
左右を見る。
卓の向こうと、背後の廊下を確かめる。
将軍の濃い負の精霊力は消えていた。
「……終わった?」
ベラが尋ねた。
「少なくとも、今ここにはいない」
ルクスンはようやく右手を下ろした。
指を開く。
汗で、掌が濡れていた。
オトフリートが近づく。
「傷は?」
「最初のは治してもらった。その後は、たぶん触られてない」
「たぶん、では困ります」
ゼフィーリアが顔色と呼吸を確かめた。
ルクスンは肩を動かし、胸へ手を当てる。
冷えはない。
苦しいのは、息が上がっているからだった。
「大丈夫。本当に」
「なら、今のうちに呼吸を整えてください」
彼女の声にも、張り詰めていたものが残っていた。
ノクティアは廊下を見ている。
「上は、まだいる」
遠くから、声が聞こえていた。
点呼だった。
将軍が消えても、兵舎の死者たちが一斉に消えることはなかった。
砲台が止まったという音も、何もない。
ルクスンは、そちらへ目を向けた。
「……命令を出しただけで、全部終わるほど簡単じゃないか」
ゼフィーリアが静かに答えた。
「聞いていない者も、聞いても理解できない者もいるでしょう」
ルクスンは頷いた。
わかっていたつもりだった。
それでも、少しだけ期待していたらしい。
*
当直士官は、将軍のいた場所を見ていた。
まだ、消えていない。
ルクスンは近づきすぎない位置で声を掛けた。
「僕たちが、倒しました」
士官は振り返った。
「見ていた」
「敵として来たわけじゃありません。でも、仲間を襲われたままにはできなかった」
「それも、見ていた」
責める声ではなかった。
だからといって、許されたと決めつけることもできなかった。
ルクスンは、次の言葉を探した。
士官が先に言った。
「書物を持っていきたまえ」
「いいんですか?」
「許可は下りている」
士官は作戦室の奥を一度見てから、扉へ向き直った。
「私が受けた命令だ。そこまでは、済ませよう」
ルクスンは頷いた。
オトフリートとノクティアが先に廊下へ出る。
ゼフィーリアが続いた。
最後にルクスンが作戦室を振り返った。
卓の向こうに、大きな椅子がある。
誰も座っていない。
そこへ戻る者も、もういなかった。
「主よ」
ベラが呼んだ。
「うん。行こう」
ルクスンは扉を閉めず、仲間の後を追った。