アレクラスト転生記〜TRPGフリーク、フォーセリアに転生す   作:駄文亭

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第95話 持ち場を離れよ

「全軍、配置を——」

 

 将軍の声が途切れた。

 

 卓へ置かれた手が、天板の中へ沈む。肩の飾りが暗がりに溶け、軍服の裾が床を這うように広がった。

 

 ルクスンは下がった。

 

 自分だけではない。

 

 オトフリートの前へ腕を出し、扉の方へ促す。

 

「外へ。まだ書庫には行かないで」

 

 持ち出しの許可は得た。

 

 本は、包んである。

 

 だが、今ここで荷物を取りに走れば、分かれた先で襲われる。

 

 ノクティアが入口へ戻った。半ば閉じかけた扉を押し広げ、四人が通れる幅を確保する。

 

 当直士官だけが、その場に残っていた。

 

「将軍。ご命令を」

 

 将軍が顔を上げた。

 

 冷たい目が、士官を見た。

 

 次に、ルクスンたちへ向いた。

 

「誰の許可で、そこにいる」

 

 さっきまでの会話が、消えていた。

 

     *

 

「あなたの許可です。書庫を確認し、報告に戻りました」

 

 ルクスンは答えた。

 

 剣へ手を掛ける。

 

 抜かずに済むなら、それでいい。

 

 しかし、目の前の輪郭はもう、人の形へ戻ろうとしていなかった。

 

「書庫……」

 

 将軍が呟く。

 

 暗い顔が、オトフリートの手元へ向いた。そこには調査に使った紙があった。

 

「機密を、持ち出すか」

 

「許可は、先ほど——」

 

 オトフリートの言葉を、ルクスンが遮った。

 

「下がって!」

 

 将軍が卓へ踏み込んだ。

 

 いや、卓を通り抜けた。

 

 模型の城壁を避けもせず、黒い軍装が石の砦を呑み込み、そのまま向こう側へ出てくる。

 

 ルクスンはベラを抜いた。

 

 伸びてくる腕を、斜めに斬る。

 

 銀の刃が暗い輪郭を裂いた。

 

 手応えはあった。

 

 だが、将軍は止まらなかった。

 

「くそっ!」

 

 身体を捻る。

 

 冷たい指が左肩へ触れた。

 

 その瞬間、盾を支える腕から力が抜けかけた。

 

 スペクターの時とは違った。

 

 冷えが皮膚から入ってくるのではない。胸の奥を直接掴まれ、そこから身体全体を冷やされるようだった。

 

 息が詰まる。

 

 ルクスンは歯を食いしばり、足を引いた。

 

「ルクスン、こちらです!」

 

 ゼフィーリアの声が聞こえた。

 

 その方へ退く。

 

 ベラの切っ先を上げたまま、将軍から目を離さない。

 

 ミスリルの鎖帷子は裂けていない。

 

 だからといって、守られているわけではなかった。

 

     *

 

 神聖語の祈りが響いた。

 

 ゼフィーリアは入口寄りから、ルクスンを見ていた。

 

 近づいてはこない。

 

 将軍を挟まず、こちらへ魔法を届けられる位置を保っている。

 

 胸の冷えが緩み、ようやく息が入った。

 

「動けますか?」

 

「動く!」

 

「では、こちらへ。今は追いかけないでください」

 

 追いかけるどころか、追われていた。

 

 レイスが再び近づく。

 

 ルクスンは斬り込まず、横へ退いた。

 

 卓を間に置けば止まる相手ではない。しかし、自分が卓の脚へ引っ掛かれば、それだけで終わる。

 

 床を見る余裕を、無理に作る。

 

 左後ろに椅子。

 

 右は空いている。

 

 右へ。

 

 将軍の腕が届く前に、短くベラを振った。

 

 狙いを深くせず、迫る肩口を斬る。

 

 暗い輪郭が揺らいだ。

 

「主よ、届いておる! 焦って踏み込むでない!」

 

 ベラの声が、近くに聞こえた。

 

 そうだ。

 

 斬れている。

 

 効いていないわけではない。

 

 ただ、こちらが一度触られる代償が重すぎた。

 

「全知全能たる万能たるマナよ——」

 

 オトフリートの詠唱が始まった。

 

 ルクスンはさらに横へ動いた。

 

 魔術師の前から、自分の身体を外す。

 

 杖先から放たれたエネルギー・ボルトが、将軍の胸へ突き刺さった。

 

 暗い軍装が大きく波打つ。

 

 その間に、ルクスンは入口近くまで退いた。

 

     *

 

「廊下、今はいない」

 

 ノクティアが知らせた。

 

 彼女は扉の外へ出きらず、作戦室と廊下の両方を確かめていた。

 

 右へ行けば書庫。

 

 左手に、上へ戻る階段。

 

 逃げるなら、今だった。

 

 少なくとも、一度距離を取れる。

 

 ルクスンは将軍を見た。

 

 卓の横に立っている。

 

 胸の輪郭は薄れ、斬られた腕の形も崩れていた。

 

 それでも、こちらを見る目は消えていない。

 

 当直士官が呼び掛けた。

 

「将軍。彼らは敵ではありません」

 

 将軍の顔が、ゆっくり動いた。

 

「持ち場へ戻れ」

 

「私は、ここにおります」

 

「戻れ」

 

 同じ言葉だった。

 

 相手の返事を受けているようには聞こえなかった。

 

 ルクスンは、上の兵舎を思い出した。

 

 何度呼んでも返事のない名前。

 

 返事があっても、次へ進めない点呼。

 

 同じことが、ここでも起きていた。

 

「逃げる?」

 

 ノクティアが尋ねた。

 

 ルクスンは一度、廊下へ目を向けた。

 

 そして、首を振った。

 

「この距離で背中を見せたくない。僕が前にいる。追ってきたら、廊下で受ける」

 

「わかった」

 

 ノクティアは反対しなかった。

 

 代わりに、足元の小さな木片を蹴り退けた。

 

 ルクスンが退く場所から。

 

     *

 

 ベラを鞘へ戻す。

 

「右手か」

 

「うん」

 

 それ以上の説明は、いらなかった。

 

 ベラで斬った。

 

 オトフリートの魔法も通った。

 

 ここから先は、一度でも深く拳を入れたい。

 

 ただし、そのために相手の懐へ飛び込めば、また触られる。

 

 ルクスンは左腕の盾を少し下げた。

 

 受け止める道具として頼るのではなく、視界を塞がない位置へ置く。

 

 将軍が動いた。

 

 さっきより輪郭は崩れている。

 

 だから遅いとは限らなかった。

 

 ルクスンは伸びる腕を見た。

 

 かわす。

 

 踏み込む。

 

 右拳を振る。

 

 将軍の身体が斜めに流れた。

 

 拳は軍装の端を掠めただけだった。

 

「ちっ!」

 

 当てなければ意味がない。

 

 強い一撃を持っているからといって、都合よく相手が立ち止まってくれるわけではなかった。

 

 すぐに引く。

 

 追ってくる腕が、顔の前へ迫った。

 

「右!」

 

 ノクティアの声へ反応し、身体を横へ投げ出すように動かす。

 

 足が床を滑った。

 

 転ぶな。

 

 ここで倒れるな。

 

 右足で踏み止まる。

 

 将軍の手が、肩のすぐ横を通り過ぎた。

 

 ルクスンは、その腕を掴もうとはしなかった。

 

 身体の向きを変え、伸び切った腕の内側へ踏み込む。

 

 大きく振る余地はない。

 

 腰を入れ、短く押し出すように拳を打った。

 

 今度は、胸の中央を捉えた。

 

     *

 

 白い光が広がった。

 

 暗い軍装の内側から、光が滲み出す。

 

 将軍の顔が見えた。

 

 頬の痩せた男だった。

 

 眉間に深い皺があり、口元が固く結ばれている。

 

 その顔が、驚いたようにルクスンを見た。

 

 ルクスンは拳を引き、退いた。

 

 まだ動くかもしれない。

 

 倒したと決めつけて、次を受けるわけにはいかなかった。

 

 将軍は追ってこなかった。

 

 卓の方へ、ゆっくり向き直る。

 

 片手を伸ばした。

 

 指先が、模型の城壁をすり抜けた。

 

 身体の輪郭が薄れていく。

 

「……報告を」

 

 将軍が言った。

 

 ルクスンは呼吸を整えながら答えた。

 

「報告は、終わりました」

 

 将軍の目が、こちらへ戻る。

 

「そうか」

 

 それは、先ほどまで話していた人の声だった。

 

     *

 

 当直士官が近づいた。

 

 ルクスンは止めようとして、やめた。

 

 士官も、今の将軍を見ていた。

 

 消えかけた軍装。

 

 薄くなった肩の飾り。

 

 卓へ触れられない手。

 

「将軍」

 

 霊は姿勢を正した。

 

「ご命令を」

 

 将軍は、士官の顔を見た。

 

 長い間、何も言わなかった。

 

 ルクスンには、どれほど長かったのかわからない。

 

 息を吸い、吐く音が、自分の耳にうるさかった。

 

 やがて、将軍の口が動いた。

 

「持ち場を……離れよ」

 

 士官の肩が、わずかに揺れた。

 

「承知しました」

 

 返事は、はっきりしていた。

 

 将軍は頷こうとした。

 

 その輪郭が、先に崩れた。

 

 軍服も、顔も、冷たい目も、薄れていく。

 

 最後に残った光が消えると、作戦室には模型と、古い椅子があった。

 

 レイスの姿は、もうなかった。

 

     *

 

 ルクスンは、すぐには拳を下ろさなかった。

 

 目の前を見る。

 

 左右を見る。

 

 卓の向こうと、背後の廊下を確かめる。

 

 将軍の濃い負の精霊力は消えていた。

 

「……終わった?」

 

 ベラが尋ねた。

 

「少なくとも、今ここにはいない」

 

 ルクスンはようやく右手を下ろした。

 

 指を開く。

 

 汗で、掌が濡れていた。

 

 オトフリートが近づく。

 

「傷は?」

 

「最初のは治してもらった。その後は、たぶん触られてない」

 

「たぶん、では困ります」

 

 ゼフィーリアが顔色と呼吸を確かめた。

 

 ルクスンは肩を動かし、胸へ手を当てる。

 

 冷えはない。

 

 苦しいのは、息が上がっているからだった。

 

「大丈夫。本当に」

 

「なら、今のうちに呼吸を整えてください」

 

 彼女の声にも、張り詰めていたものが残っていた。

 

 ノクティアは廊下を見ている。

 

「上は、まだいる」

 

 遠くから、声が聞こえていた。

 

 点呼だった。

 

 将軍が消えても、兵舎の死者たちが一斉に消えることはなかった。

 

 砲台が止まったという音も、何もない。

 

 ルクスンは、そちらへ目を向けた。

 

「……命令を出しただけで、全部終わるほど簡単じゃないか」

 

 ゼフィーリアが静かに答えた。

 

「聞いていない者も、聞いても理解できない者もいるでしょう」

 

 ルクスンは頷いた。

 

 わかっていたつもりだった。

 

 それでも、少しだけ期待していたらしい。

 

     *

 

 当直士官は、将軍のいた場所を見ていた。

 

 まだ、消えていない。

 

 ルクスンは近づきすぎない位置で声を掛けた。

 

「僕たちが、倒しました」

 

 士官は振り返った。

 

「見ていた」

 

「敵として来たわけじゃありません。でも、仲間を襲われたままにはできなかった」

 

「それも、見ていた」

 

 責める声ではなかった。

 

 だからといって、許されたと決めつけることもできなかった。

 

 ルクスンは、次の言葉を探した。

 

 士官が先に言った。

 

「書物を持っていきたまえ」

 

「いいんですか?」

 

「許可は下りている」

 

 士官は作戦室の奥を一度見てから、扉へ向き直った。

 

「私が受けた命令だ。そこまでは、済ませよう」

 

 ルクスンは頷いた。

 

 オトフリートとノクティアが先に廊下へ出る。

 

 ゼフィーリアが続いた。

 

 最後にルクスンが作戦室を振り返った。

 

 卓の向こうに、大きな椅子がある。

 

 誰も座っていない。

 

 そこへ戻る者も、もういなかった。

 

「主よ」

 

 ベラが呼んだ。

 

「うん。行こう」

 

 ルクスンは扉を閉めず、仲間の後を追った。

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