貨物船の汽笛が、海の上に長く響いた。
白い波を引きながら、くじら島が遠ざかっていく。
港も、坂道も、木々の向こうにある家も、やがて消え去った。
レミリアはポケットの上から、小さな貝殻に触れた。
「おい、お嬢ちゃん!」
振り返ると、船長が木箱を指差していた。
「そいつを船倉へ運んでくれ」
「次の課題かしら」
「仕事だ」
船長は髭の間から息を吐いた。
「乗せてやる代わりに働く。そういう約束だったろ」
「そういう体裁なのね」
レミリアは木箱の端へ指をかけた。
横にいた船員が、慌てて手を伸ばす。
「待て。そいつは二人がかりで――」
箱が持ち上がった。
片手だった。
空いた方の手で、レミリアは隣の樽まで抱えた。
「運ぶだけでいいの?」
「……ああ」
「ずいぶん簡単な試験ね」
船員は船長を見た。
船長は海を見た。
◇
甲板の後ろに、一人の男が立っていた。
足を開き、重心を落とす。
伸ばした手の五指が、獣の爪の形を作った。
一歩。
続けて、踏み込み。
振り抜いた腕が空気を裂き、甲板の板が低く鳴った。
「あなたも受験生?」
男の動きが止まった。
「受験生?」
「とぼけなくていいわ。さっきから、ずいぶん熱心じゃない」
「俺は戦いに行くところだ」
「ええ。そういう試験なのでしょう?」
男は首を傾げた。
レミリアも首を傾げる。
「……まあ、戦いに違いはない」
「素直に認めればいいのよ」
男はゆっくりと構えを解いた。
「カストロだ」
「レミリア・スカーレットよ」
カストロの視線が、彼女の背中へ落ちた。
「ところで、今のは何?」
「稽古だ。虎咬拳という」
「一人でやってる上に孤高? 自信家ね」
「違う、虎の牙に見立てた拳だ」
レミリアは、カストロの手を見た。
五指の先には、まだ薄い力の名残がまとわりついている。
「人間にしては悪くないじゃない」
「人間にしては?」
「褒めているのよ。いちいち引っかからないでちょうだい」
帆が風を受けた。
カストロは何か言いかけたが、結局、もう一度構えを取った。
◇
昼を過ぎても、甲板の仕事は終わらなかった。
船員の一人が、積み荷を押さえながら縄を引いている。
風に煽られた布が、何度も男の顔へ張りついた。
「押さえてくれ!」
「こっちも手が離せねえよ」
船員は縄を噛み、布を肘で押さえた。
「ああ、くそ。人手がもう一人あればなぁ」
カストロの拳が止まった。
「もう一人」
そのまま、自分の手を見下ろす。
「そうか……、もう一人いれば」
正面から一人。
横から、もう一人。
二人がかりなら、相手に逃げ場はない。
船長が船倉の入り口から顔を出した。
「お嬢ちゃん。次の荷を頼む」
「まだあるの? ずいぶん採点の厳しい試験官ね」
「俺のことは船長と呼べ」
レミリアは立ち上がり、船倉へ下りていった。
◇
波の高さが変わった。
船の左舷から少し離れたところで、水面がゆっくりと盛り上がる。
波が煌いた。
何か大きなものが、その下にいた。
「船長!」
声より早く、海面が割れた。
太い腕が、甲板へ落ちてくる。
吸盤の一つ一つが皿ほどもあり、その裏に並んだ鉤爪が木の床を削った。
「クラーケンだ!」
「舵を切れ!」
二本目の触腕が帆柱へ巻きついた。
帆が軋み、船体が大きく傾く。
船員が足を滑らせた。
転がった樽が、その身体へぶつかる。
カストロが踏み込んだ。
「虎咬拳!」
右手の五指が触腕へ食い込む。
そのまま引き裂くと、太い腕が甲板の上で跳ねた。
「下がれ!」
飛び込んできた二本目へ、左の拳を叩きつけた。
触腕の先が弾け、海水と黒い液が飛び散る。
船員たちが歓声を上げた。
だが、海面の盛り上がりは遠かった。
裂かれた腕が沈むより早く、さらに二本が水の中から伸びてくる。
一本は舵へ。
もう一本は、倒れた船員へ。
カストロは舵の前へ飛んだ。
振り下ろした虎咬拳が、触腕の先を砕く。
その間に、残っている触腕が船員の足を掴んだ。
「くそ……!」
振り返る。
本体は、拳の届かない海の向こうにいた。
射程が足りない。
――倒せない。
もう一人いれば。
一人が船から飛び出す。もう一人が船員を助ける。
どちらも捨てずに済む。
船倉の扉が開いた。
「さっきから、何を騒いでいるの?」
レミリアが木箱を抱えて立っていた。
「下がれ!」
「どうして?」
「見れば分かるだろう!」
触腕が甲板を薙いだ。
カストロが船員を抱え、その下へ滑り込む。
帆柱が折れた。
重い帆布が、甲板へ倒れてくる。
「まったく」
レミリアは木箱を片手で受け直し、空いた手で帆柱を押し返した。
「荷運びの次は、海の化け物退治なのね」
「そんなことを言っている場合か!」
彼女は船員を掴んだ触腕を、指先で軽く弾いた。
腕がほどけ、男が甲板へ転がる。
海面の下で、巨大な影が動いた。
レミリアの紅い瞳が細くなった。
「私が乗っている船を沈めるなんて、ずいぶんいい度胸じゃない」
抱えていた木箱を、甲板へ置く。
掲げた手に、紅い光が集まった。
音が消える。
槍の形に伸びた光が、海も、空も、船員の顔も赤く染めた。
――神槍
『スピア・ザ・グングニル』
レミリアの腕が振り下ろされた。
紅い一条が海を走る。
次の瞬間、海面が左右へ裂けた。
巨大な影が水の底へ沈み、触腕が一斉に船から離れていく。
遅れて波が戻り、船体が大きく揺れた。
誰も声を出さなかった。
船腹を波が打った。
一度、二度。
倒れていた船員が、ゆっくりと顔を上げた。
船長が、折れた帆柱を見た。
それから海を見て、最後にレミリアを見た。
「……何だ、今の」
「試験課題でしょう?」
「違う」
レミリアは腕を組んだ。
「隠さなくてもいいのに」
◇
船員たちは、黙って帆柱を直していた。
海にはもう、クラーケンの姿も、紅い光の名残もない。
ただ、船の横には、まだ長い波の筋が残っていた。
カストロが、レミリアの前へ立った。
「今のは念能力か?」
「念?」
雨の匂いがした。
濡れた窓。白い頁。
六つの言葉が、輪を描いて並んでいた。
「纏、絶、練――発」
カストロが口を閉じた。
「やはり知っているのか」
「今、思い出したのよ。絶なら、前にも見たことがあるわ」
「誰に教わった」
「誰にも」
潮の匂いが戻った。
「それより、右手に集めているのがそうでしょう」
カストロの指が止まった。
「見えているのか」
「さっきから丸見えよ」
「念を知らない人間には、普通は見えない」
「普通は、でしょう? 私は普通じゃないの」
カストロの視線が、彼女の翼へ落ちた。
レミリアは、さきほど槍を持っていた手を開いた。
「これは念というより、スペルカードといったところかしら」
「スペルカード?」
「知らないの?」
「知らない」
「では、お互い様ね」
カストロは小さく息を吐いた。
「そうか。何にせよ強いな」
「私は怪物だからね」
レミリアは得意げに顎を上げた。
背中の翼が、潮風を受けて揺れている。
海面に残った波の筋を、カストロは目で追った。
「だいたい、困っているなら助けを呼びなさいよ。例えば――このレミリア・スカーレットとか」
カストロは、レミリアを見た。
「俺一人では何もできないと?」
「そうは言ってないでしょう。船なのだから、ほかにも人はいるわ」
カストロは甲板へ目を向けた。
一人が折れた帆柱を支え、もう一人が縄を締めている。
自分の拳を見る。
紅い槍が消えた海は、まだ遠かった。
「……俺も、君のように投げられたら」
「何を?」
「この拳を」
五指の先に、オーラが集まった。
光が牙の形を作り、指先からわずかに伸びる。
潮風にほどけた。
「ひどい出来ね、ちょっと光る程度じゃない」
「まだ、思いついただけだ」
「だったら、できあがったら教えてちょうだい」
直した帆が、風を受けた。
レミリアは、くじら島で拾った紙を取り出した。
滲んだ文字の中で、『ハンター試験』だけが読めた。
「ところで、試験はまだ終わらないのかしら」
カストロが顔を上げた。
「ハンター試験よ。あなたも受験生なのでしょう?」
カストロは紙を受け取り、滲んだ文字を確かめた。
それから、ゆっくりと顔を上げた。
「何の話だ。この船は天空闘技場行きだぞ」
「……は?」
くじら島は、これで一区切りです。
次章は、準備が整い次第。