レミリア・スカーレットの杞憂   作:アステリアスエ

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13.くじら島⑤

 貨物船の汽笛が、海の上に長く響いた。

 

 白い波を引きながら、くじら島が遠ざかっていく。

 港も、坂道も、木々の向こうにある家も、やがて消え去った。

 

 レミリアはポケットの上から、小さな貝殻に触れた。

 

「おい、お嬢ちゃん!」

 

 振り返ると、船長が木箱を指差していた。

 

「そいつを船倉へ運んでくれ」

 

「次の課題かしら」

 

「仕事だ」

 

 船長は髭の間から息を吐いた。

 

「乗せてやる代わりに働く。そういう約束だったろ」

 

「そういう体裁なのね」

 

 レミリアは木箱の端へ指をかけた。

 横にいた船員が、慌てて手を伸ばす。

 

「待て。そいつは二人がかりで――」

 

 箱が持ち上がった。

 片手だった。

 

 空いた方の手で、レミリアは隣の樽まで抱えた。

 

「運ぶだけでいいの?」

 

「……ああ」

 

「ずいぶん簡単な試験ね」

 

 船員は船長を見た。

 船長は海を見た。

 

    ◇

 

 甲板の後ろに、一人の男が立っていた。

 

 足を開き、重心を落とす。

 伸ばした手の五指が、獣の爪の形を作った。

 

 一歩。

 続けて、踏み込み。

 

 振り抜いた腕が空気を裂き、甲板の板が低く鳴った。

 

「あなたも受験生?」

 

 男の動きが止まった。

 

「受験生?」

 

「とぼけなくていいわ。さっきから、ずいぶん熱心じゃない」

 

「俺は戦いに行くところだ」

 

「ええ。そういう試験なのでしょう?」

 

 男は首を傾げた。

 レミリアも首を傾げる。

 

「……まあ、戦いに違いはない」

 

「素直に認めればいいのよ」

 

 男はゆっくりと構えを解いた。

 

「カストロだ」

 

「レミリア・スカーレットよ」

 

 カストロの視線が、彼女の背中へ落ちた。

 

「ところで、今のは何?」

 

「稽古だ。虎咬拳という」

 

「一人でやってる上に孤高? 自信家ね」

 

「違う、虎の牙に見立てた拳だ」

 

 レミリアは、カストロの手を見た。

 五指の先には、まだ薄い力の名残がまとわりついている。

 

「人間にしては悪くないじゃない」

 

「人間にしては?」

 

「褒めているのよ。いちいち引っかからないでちょうだい」

 

 帆が風を受けた。

 カストロは何か言いかけたが、結局、もう一度構えを取った。

 

    ◇

 

 昼を過ぎても、甲板の仕事は終わらなかった。

 

 船員の一人が、積み荷を押さえながら縄を引いている。

 風に煽られた布が、何度も男の顔へ張りついた。

 

「押さえてくれ!」

 

「こっちも手が離せねえよ」

 

 船員は縄を噛み、布を肘で押さえた。

 

「ああ、くそ。人手がもう一人あればなぁ」

 

 カストロの拳が止まった。

 

「もう一人」

 

 そのまま、自分の手を見下ろす。

 

「そうか……、もう一人いれば」

 

 正面から一人。

 横から、もう一人。

 二人がかりなら、相手に逃げ場はない。

 

 船長が船倉の入り口から顔を出した。

 

「お嬢ちゃん。次の荷を頼む」

 

「まだあるの? ずいぶん採点の厳しい試験官ね」

 

「俺のことは船長と呼べ」

 

 レミリアは立ち上がり、船倉へ下りていった。

 

    ◇

 

 波の高さが変わった。

 

 船の左舷から少し離れたところで、水面がゆっくりと盛り上がる。

 波が煌いた。

 

 何か大きなものが、その下にいた。

 

「船長!」

 

 声より早く、海面が割れた。

 

 太い腕が、甲板へ落ちてくる。

 吸盤の一つ一つが皿ほどもあり、その裏に並んだ鉤爪が木の床を削った。

 

「クラーケンだ!」

 

「舵を切れ!」

 

 二本目の触腕が帆柱へ巻きついた。

 帆が軋み、船体が大きく傾く。

 

 船員が足を滑らせた。

 転がった樽が、その身体へぶつかる。

 

 カストロが踏み込んだ。

 

「虎咬拳!」

 

 右手の五指が触腕へ食い込む。

 そのまま引き裂くと、太い腕が甲板の上で跳ねた。

 

「下がれ!」

 

 飛び込んできた二本目へ、左の拳を叩きつけた。

 触腕の先が弾け、海水と黒い液が飛び散る。

 

 船員たちが歓声を上げた。

 

 だが、海面の盛り上がりは遠かった。

 裂かれた腕が沈むより早く、さらに二本が水の中から伸びてくる。

 

 一本は舵へ。

 もう一本は、倒れた船員へ。

 

 カストロは舵の前へ飛んだ。

 振り下ろした虎咬拳が、触腕の先を砕く。

 

 その間に、残っている触腕が船員の足を掴んだ。

 

「くそ……!」

 

 振り返る。

 本体は、拳の届かない海の向こうにいた。

 

 射程が足りない。

 ――倒せない。

 

 もう一人いれば。

 

 一人が船から飛び出す。もう一人が船員を助ける。

 どちらも捨てずに済む。

 

 船倉の扉が開いた。

 

「さっきから、何を騒いでいるの?」

 

 レミリアが木箱を抱えて立っていた。

 

「下がれ!」

 

「どうして?」

 

「見れば分かるだろう!」

 

 触腕が甲板を薙いだ。

 カストロが船員を抱え、その下へ滑り込む。

 

 帆柱が折れた。

 重い帆布が、甲板へ倒れてくる。

 

「まったく」

 

 レミリアは木箱を片手で受け直し、空いた手で帆柱を押し返した。

 

「荷運びの次は、海の化け物退治なのね」

 

「そんなことを言っている場合か!」

 

 彼女は船員を掴んだ触腕を、指先で軽く弾いた。

 腕がほどけ、男が甲板へ転がる。

 

 海面の下で、巨大な影が動いた。

 レミリアの紅い瞳が細くなった。

 

「私が乗っている船を沈めるなんて、ずいぶんいい度胸じゃない」

 

 抱えていた木箱を、甲板へ置く。

 掲げた手に、紅い光が集まった。

 

 音が消える。

 槍の形に伸びた光が、海も、空も、船員の顔も赤く染めた。

 

――神槍

 

『スピア・ザ・グングニル』

 

 レミリアの腕が振り下ろされた。

 紅い一条が海を走る。

 

 次の瞬間、海面が左右へ裂けた。

 

 巨大な影が水の底へ沈み、触腕が一斉に船から離れていく。

 遅れて波が戻り、船体が大きく揺れた。

 

 誰も声を出さなかった。

 

 船腹を波が打った。

 一度、二度。

 

 倒れていた船員が、ゆっくりと顔を上げた。

 

 船長が、折れた帆柱を見た。

 それから海を見て、最後にレミリアを見た。

 

「……何だ、今の」

 

「試験課題でしょう?」

 

「違う」

 

 レミリアは腕を組んだ。

 

「隠さなくてもいいのに」

 

    ◇

 

 船員たちは、黙って帆柱を直していた。

 海にはもう、クラーケンの姿も、紅い光の名残もない。

 ただ、船の横には、まだ長い波の筋が残っていた。

 

 カストロが、レミリアの前へ立った。

 

「今のは念能力か?」

 

「念?」

 

 雨の匂いがした。

 

 濡れた窓。白い頁。

 六つの言葉が、輪を描いて並んでいた。

 

「纏、絶、練――発」

 

 カストロが口を閉じた。

 

「やはり知っているのか」

 

「今、思い出したのよ。絶なら、前にも見たことがあるわ」

 

「誰に教わった」

 

「誰にも」

 

 潮の匂いが戻った。

 

「それより、右手に集めているのがそうでしょう」

 

 カストロの指が止まった。

 

「見えているのか」

 

「さっきから丸見えよ」

 

「念を知らない人間には、普通は見えない」

 

「普通は、でしょう? 私は普通じゃないの」

 

 カストロの視線が、彼女の翼へ落ちた。

 レミリアは、さきほど槍を持っていた手を開いた。

 

「これは念というより、スペルカードといったところかしら」

 

「スペルカード?」

 

「知らないの?」

 

「知らない」

 

「では、お互い様ね」

 

 カストロは小さく息を吐いた。

 

「そうか。何にせよ強いな」

 

「私は怪物だからね」

 

 レミリアは得意げに顎を上げた。

 背中の翼が、潮風を受けて揺れている。

 

 海面に残った波の筋を、カストロは目で追った。

 

「だいたい、困っているなら助けを呼びなさいよ。例えば――このレミリア・スカーレットとか」

 

 カストロは、レミリアを見た。

 

「俺一人では何もできないと?」

 

「そうは言ってないでしょう。船なのだから、ほかにも人はいるわ」

 

 カストロは甲板へ目を向けた。

 一人が折れた帆柱を支え、もう一人が縄を締めている。

 

 自分の拳を見る。

 紅い槍が消えた海は、まだ遠かった。

 

「……俺も、君のように投げられたら」

 

「何を?」

 

「この拳を」

 

 五指の先に、オーラが集まった。

 光が牙の形を作り、指先からわずかに伸びる。

 

 潮風にほどけた。

 

「ひどい出来ね、ちょっと光る程度じゃない」

 

「まだ、思いついただけだ」

 

「だったら、できあがったら教えてちょうだい」

 

 直した帆が、風を受けた。

 

 レミリアは、くじら島で拾った紙を取り出した。

 滲んだ文字の中で、『ハンター試験』だけが読めた。

 

「ところで、試験はまだ終わらないのかしら」

 

 カストロが顔を上げた。

 

「ハンター試験よ。あなたも受験生なのでしょう?」

 

 カストロは紙を受け取り、滲んだ文字を確かめた。

 それから、ゆっくりと顔を上げた。

 

「何の話だ。この船は天空闘技場行きだぞ」

 

「……は?」




 くじら島は、これで一区切りです。
 次章は、準備が整い次第。
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