1
南クリスタニアの国境へと続く道は、どこまでも平坦に広がる赤茶けた荒野だった。
遮るもののない広い空の下、乾いた風が吹き抜けるたび、砂埃が容赦なく舞い上がる。その巨大な世界の真ん中で、ただ一人、寂しく歩みを進める者がいた。
見渡す限りの荒凉とした大地。行き交う旅人の姿もなく、耳に届くのは己の足音と風の鳴る音だけ。その底知れない静寂に包まれながら、彼女は一歩、また一歩と砂埃の舞う道を歩んでいた。
風に煽られ、外套のフードからこぼれ出たのは、息をのむほどに美しい金の巻毛だった。
それは荒野の色彩の中で、そこだけが神聖な光を放っているかのようにきらめいている。ラーダの法衣をまとい、腰に一振りの見事な細身の剣を帯びたその姿は、誰もが振り返るような絶世の美女そのものであった。
だが、その完璧な美貌には、どこか割り切れない深い孤独の色が影を落としている。
かつて背中を預け、共に死線を潜り抜けた大切な仲間たちの顔が、砂塵の向こうに陽炎のように浮かんでは消えていく。怒号と笑い声が絶えなかったあの賑やかな旅路はもうない。今、彼女の周りには「本当に誰もいない」という冷厳な事実だけが、この広大な荒野にポツンと取り残されていた。
(あたしは、一人でいかなきゃならないんだから……)
胸の奥に湧き上がる寂しさを、自嘲気味な微笑みとともに必死に堰き止める。他者を導き、自らの使命に生きる身だ。感傷など、この乾いた大地に捨てていくべきものだった。
やがて、地平線の先に国境沿いの街の輪郭が見えてくる。
彼女は小さく息を吐き出し、乱暴に髪をかき上げると、誰にも見せることのない孤独を再び心の奥底へと仕舞い込んだ。そして、賑やかな喧騒が漏れ聞こえてくる街の門をくぐり、旅の疲れを癒す酒場を目指して歩みを進めていった。
2
南クリスタニアの国境沿いの酒場は、旅の垢に汚れた冒険者たちで賑わっていた。
その片隅のテーブルに、いかつい鎧をその身に着け、大きな盾を傍らに立てかけている青年がちょこんと座っていた。どう見ても完全武装の戦士風のいでたちだが、どことなく、その風体に似合わない覇気のなさを感じさせるものがあった。彼は顔をしかめながら安酒を煽ってぼそりとつぶやいた。
「はぁ……嫌になっちゃうわ。10万ゴールドなんて、しがない戦士のあたしがどうやって返せばいいのよ……」
「もう、テューレ様〜! そんなに落ち込まないでくださいよぉ!」
隣に座っていた褐色のエキゾチックな美人が、その見た目の年齢からは違和感があるほどの子供っぽい笑顔を弾けさせて、彼の肩をポンと叩いた。
「次の冒険で一攫千金といきましょう! 私がバッチリ魔術でサポートしちゃいますから!」
テューレと呼ばれた戦士は、うろんな目をその女性に向ける。
「でもね、ラトーナちゃん。10万ゴールドを一気に稼げるような、そんなうまい冒険がそうそうあるかしらねぇ……」
この「10万ゴールド」という気の遠くなるような巨額の借金には、涙なしには語れない理由があった。かつて帝国との戦いでテューレは命を落としたのだが、ラーダの神官であるフィランヌたちが、囚われの最高司祭を救出して彼に『
「おやおや。テューレ殿、落ち込んでばかりいては幸運に逃げられて、こう『うん』と言えなくなった…、ということになりますぞ?」
テーブルの反対側からそんなダジャレが飛んできた。そのお茶目な言葉を発したのは、直立した赤い羽蟻の姿をした異形の亜人である。彼の名はドルドムント。ミュルミドンという蟻人族の貴族出身でありながら、怪盗紳士を気取ってスカウトの技を磨く変わり者であった。なお、スカウトとはシーフのクリスタニアでの一般的な呼び方である。
先ほどラトーナと呼ばれた妙齢の美女は、ドルドムントのダジャレに「あはは!ドルドムント、それ座布団一枚!」と少女のように大ウケしている。そんな二人のあまりのノリの軽さに、それまでどっしりと椅子に腰かけ、腕を組んで黙って見ていた気の強そうな女性が、呆れたように深いため息をついた。
「はぁ……ちょっとラトーナ、あなた本当はそんなキャラだったの……? 黄金峡の案内人をしてた時の、あの厳しかった態度は一体どこへ行ったわけ? 『テューレ様〜』なんて、よくそんな声が出るわね」
「ちょっとミーア、過ぎた試練の話を蒸し返さないでよ! あれは骨のない腑抜けを
ラトーナは顔を真っ赤にして必死に言い返す。ミーアと呼ばれた気の強そうな女性は、それに言い返さず、ただラトーナの激高ぶりをニヤニヤと黙って見ていた。
その横で、テューレとドルドムントは、ラトーナの言葉に「?」と首を傾げた。二人の記憶の中では、自分たちはただ伝説の『黄金峡』を目指して旅をした、ということしか残っていない。黄金の獅子ディレーオンによって、黄金峡にまつわる詳細な記憶は忘却の彼方へ消え去ってしまっているからだ。そのため、目の前でいつもニコニコと穏やかに接してくれているラトーナが、かつて自分たちを冷酷に値踏みした「黄金峡の案内人」だったなどとは、夢に思ってもいないのである。
だが、このパーティにおいて、ミーアだけは特別だった。かつて黄金峡の冒険の果てに「波乱万丈の人生」を望んだ彼女は、ディレーオンから「唯一、すべての記憶を保持して帰る」ことを許されたのだった。だからこそミーアは、忘却に守られているテューレたちの呑気さと、必死に過去のキャラを隠そうとするラトーナのギャップが、可笑しくもあり、呆れ半分でからかわずにはいられないのだった。
――その時、きぃ……と、酒場の扉が小さくきしむ音を立てて開いた。
そのドアから入ってきた者に、客たちの視線が一斉に引き寄せられる。と、その瞬間、それまでがやがやとうるさかった酒場の喧騒が、まるで潮が引くように一瞬でピタリとやんだ。皆、あまりの光景に言葉を失い、ただ目を奪われていたのだ。
入ってきたのは、ラーダの法衣をまとい、腰に一振りの見事な細身の剣を帯びた、息をのむほど美しい金髪の美女――かつて帝国との長い戦いを勝ち抜き、古の民を救った英雄フィランヌだった。彼女は蟻人たちの新天地への先導として南クリスタニアを旅していたが、1年ほど前からはアンバースたち仲間とも離れて、単独で探索を行っていた。その当てもない旅の途中、ふらりとこの酒場に立ち寄ったのだった。
フィランヌの目が、壁際のテーブルに留まる。
「あら……? そこにいる情けない顔の戦士は、もしかしてテューレ?」
完璧な美貌が、思いがけない元メンバーとの再会に純粋な喜びで綻んだ。
しかし、テューレの方は一瞬でその顔が土気色に変わる。
「ひ、ひえっ!? フィ、フィランヌぅっ!?」
まだ10万ゴールドの蘇生費用を返す当てが全くない後ろめたさと、何よりも「この人には絶対に敵わない」という純粋な苦手意識が、テューレにはあった。それでも、かつて自分が命を落として彼女が引き継ぐまでは、自分がパーティの『リーダー』だったというわずかな意地があり、だからこそ、どれだけ恐ろしくても頑なに「フィランヌ」と呼び捨てにするのだが――そんな小さなプライドとは裏腹に、彼はオネエ言葉のまま(椅子の上なのに)正座の姿勢となり、ガタガタと震え始めた。
「お、お元気そうで何よりだわ……。あ、あたし、別に逃げ回ってたわけじゃないのよ?」
「あら、テューレ。そんなに怯えなくたって、10万ゴールドの借金なんてラーダの慈悲に比べれば些細なものよ。あたしはそんなもの、急かしたりしないわ」
フィランヌは上品な女性言葉のまま、しかし射抜くような鋭い視線で威圧感たっぷりに一歩歩み寄った。
「ひえぇぇ、嘘でしょ!? 言葉の優しさと、目線から出てる圧の強さが全然比例してないものぉ!」
テューレはタワーシールドの陰に隠れそうになりながら、涙目で絶叫し、ミーアに訴えた。
「まったく、現実は借金持ちだけど、怖さに関しては大金持ちよ! これ以上ビビったら、怖さの利息だけであたしの心臓が自己破産しちゃうわよぅ!!」
その様子を見ていたフィランヌはフッと意味深に微笑んだ。彼女は、テューレの隣で堂々と腕を組んでいるミーアと、そんなミーアにどこか頭が上がらない様子で小さくなっているテューレの現在の力関係を、一瞬で見抜いたのだ。
「あなたをミーアさんたちに紹介したときは、一応あなたがリーダーになれるように後押ししてあげたはずなんだけど……? でも、あたしの目には、そちらのミーアさんが本物の『姉御』で、あなたは名ばかりの、仮の、そのまた仮のリーダーにしか見えないわねえ。そんな頼りない有様で、本当にこの南クリスタニアの危険を切り抜けていけるのかしら?」
「うっ……! そ、それには色々と大人の事情があるのよぅ……!」と図星を突かれて冷や汗を流すテューレ。
「まったく、相変わらず鋭い人ね」と、ミーアも苦笑しながら肩をすくめる。
「ふふ、やっぱり心配だわ。あなたがちゃんと一人前のリーダーになれているかどうか、このあたしの目でしっかり見極めてあげる。さあ、あっちでとことん飲み明かしましょうよ」
フィランヌはそう言うと、テューレの腕を引いて無理やり立たせた。しかし、立ち上がったテューレはすぐさま、このパーティの真の支配者であるミーアの方へ、縋るような視線を向けた。
『ミーア! 助けて! この人からあたしを救い出してぇ!』と、瞳だけで必死に無言の懇願を送る。
それを見透かしたかのように、フィランヌはミーアの方へと上品に一礼した。
「ミーアさん、ごめんなさいね。少々手荒いかもしれないけれど、この子を少しの間、貸していただいてもよろしくて?」
テューレは、ミーアが自分に助け舟を出してくれるのを期待して、縋るような思いで彼女を見つめる。
しかし、ミーアはテューレのそんな哀れなSOSを視界の端で受け止めると、少しだけ口角を上げて――。
「いいよ、貸してあげる。こいつ、最近ちょっと調子に乗ってて引き締めが必要だったの」と軽やかに、そして冷酷にそう言い放った。
「アウーッ!? あんたまでぇぇ!!」
テューレは盛大な悲鳴を上げ、首根っこを掴まれた子猫のようにフィランヌに引きずられていく。
「ちょっと待ってよ、本当に強制連行じゃないのー!」と絶叫する戦士を尻目に、フィランヌは礼儀正しい微笑みを保ったまま、彼を空いているテーブルへと連れて行った。
その様子を見ていたラトーナの胸の奥で、少しだけ切ない寂しさがふわりと広がった。
フィランヌの言葉は容赦なく、テューレも本気で彼女を恐がっている。けれど、フィランヌの叱責にはテューレへの絶対的な理解があり、テューレの恐怖にはフィランヌからもらった恩義への絶対的な信頼があった。かつてテューレを生き返らせるためだけに帝国と戦った女と、そのために莫大な借金を背負った男。このテューレの「隣の席」は、ラトーナが「案内人」としての過去すら明かせぬまま、取り繕ってようやく掴んだ大切な居場所なのに、あの美しい神官は、久しぶりに再会した瞬間から当たり前のように深く踏み込んでみせた。
(羨ましいな……。私には、あんな風に彼の情けなさを笑い飛ばせるような強い絆は、まだないもの……)
ラトーナはほんの少しだけ羨ましそうに目を細めたが、同時に込み上げてくる、胸を締め付けるような焦燥感と嫉妬に戸惑っていた。彼女の持ち前の優しい人柄から、彼らの賑やかなやり取りに心が温かくなるのを感じつつも、その奥底では「この関係に割って入る隙間など、自分には微塵もないのだ」という残酷な現実が、静かにチリチリと胸を焼き続けていた。
ご覧いただきありがとうございます。 本作は水野良先生の『クリスタニア』を愛するあまり、リプレイや小説の要素を再構成して書き始めた二次創作です。物語開始時点でテューレが散々な目に遭っていますが、彼の背負った「10万ゴールドの蘇生費用」という設定は、本作の根幹をなす「不自由な鎖(きずな)」でもあります。フィランヌが多額の費用を投げ打ってまで彼を生き返らせたという事実が、二人の間に単なる恋愛ではない「重すぎる絆」を生んでおり、それが迷宮を打破する力になってゆきます。次回はオリジナルキャラクターを出すつもりですので、こうご期待(かな?あるいは「こんなメアリー・スーをやらかすなよ!」となるかな?)。