彫像に近づいた六人を待ち受けていたのは、予感通りの死地であった。彫像を囲む八本の槍が空間を裂き、その切っ先から結晶化した狂える精霊、バルキリーが次々と具現化する。重厚な鎧の擦れる音、そして冷徹な殺気が部屋を支配した。
しかし、この絶体絶命の光景を、物理的な現実とは異なる「深淵」から眺める者がいた。
その場所は、あらゆる生命の喧騒が霧散し、光さえもが吸い込まれる虚無の領域――「モスコスの大迷宮」の最深部であった。空間そのものが重圧に軋むかのような玉座の間には、かつてこの地を聖別した神の威光を今に伝えるべく、壁面に幾重もの双角野牛(バイソン)の精巧な彫刻が施されている。
そこに鎮座するのは、荒々しい獣の毛皮と、古代の戦神を彷彿とさせる神聖な武具を全身に纏った巨大な
DMは無造作にその武具の山の中から、八つの6面ダイスを取り出した。その瞳には、彼が支配する迷宮の
「ふむ、正攻法か。まあ、退屈な道を選ぶのも人間らしいと言えば人間らしいな」
彼はどこか浮世離れした口調で独り言を呟くと、楽しげにダイスを宙に放った。カランコロンと、八つの不吉な音が、彫刻が施された石壁に反響し、重なり合って響く。
「八本の槍に対し、冒険者は6人。ダイスの出目が1ならテューレ、2ならレオン、3ならミーア、4ならフィランヌ、5ならラトーナ、6ならドルドムント。これで八体のバルキリーが誰を狙うか、過不足なく決まるな」
DMは興味深そうに、床の上で止まったサイコロを覗き込んだ。彼はその結果を、まるでチェスの駒を動かすかのように無機質に読み上げる。
「フィランヌ、レオン、ミーア、フィランヌ、フィランヌ、フィランヌ、フィランヌ、フィランヌ……。おや、極端な偏りだな。残念だが、聖女の旅路はここで終わりというわけか」
DMの冷徹な宣告が、玉座の間の深淵から迷宮の回廊へと、さざ波のように戦慄を運ぶ。――刹那、運命の
テューレの目前で、八体のバルキリーが槍を揃える。そのうち六本までが、一点、フィランヌへと向けられた。突風のような殺気。フィランヌは冷静さを保っていたが、その矛先の多さは己の死を確信させるには十分すぎた。
その時だった。
「――っ!!」
テューレの中で、何かが弾けた。それは恐怖による悲鳴ではない。かつて黄金峡の試練の果てに刻まれた、魂の奥底からの「使命」の狼煙だった。
テューレの口から発せられた獅子のごとき咆哮が迷宮に轟く。そのあまりの覇気に、フィランヌを狙っていた六体を含めた全てのバルキリーが動きを止めた。仲間であるミーアやドルドムントでさえ見たことのない、未知の力。
だが、一人だけその意味を知る者がいた。ラトーナである。
かつて黄金峡の試練において、テューレが自ら願い、神獣ディレーオンがその意志を承認して力を与えた唯一の使命――「フィランヌに借金を返すこと」。その承認が守護するものは、単なる金銭の返済だけではない。フィランヌが死んでしまえば借金を返すという使命そのものが果たせなくなるため、彼女が命を落とすことも許されない。そのため、絶対の加護であるディレーオンの力が、フィランヌを守るための手段として、今この瞬間に顕現したのだ。
それはラトーナが目撃した、あの日の記憶の通りだった。
『テューレ:あたしには、命を助けてもらった恩人がいます。彼らはあたしを助けるために、多大な労力を払い、多額の金品を使ってくれました。あたしは、彼らの恩に報いなければならないのです。せめて、お金ぐらいは返したい』
『黄金の獅子ディレーオン:どう言葉を飾ってもセコイ目的だけど、とにかく汝の目的は承認されたぞ』
(結局、全てフィランヌ様のためなのね……)
ラトーナの胸に、かつてない寂寥感が込み上げる。だが、そんな感傷に浸っている暇はなかった。注目を集めてしまったテューレに対し、バルキリーたちが改めて槍を構え直したのだ。
「させないわよっ!」
我を忘れたラトーナが爆発した。レオンからの「迂闊に使うな」という警告すら忘れ、迷いなく火球の魔法を放り投げる。炸裂したその猛烈な熱波と粉塵は、バルキリーたちの間近にいたレオンを容赦なく襲った。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
巻き上げられた焦げ臭い黒煙に激しくむせ返りながらも、レオンは気を取り直して手近なバルキリーの1体に魔法の短剣で斬りつけながら叫んだ。
「そうだ、ラトーナ!それでいい!」
だが、そんなレオンの叫びも、今の彼女には聞こえていなかった。ラトーナの視界は極限の焦燥に染まり、テューレが槍に貫かれるという悪夢が、現実を侵食し始めていた。喉の奥から絞り出されたのは、人語を解した音節ではなく、己の理性を焼き尽くすような咆哮に近い絶叫だった。
彼女が突き出した指先から、再び圧縮された高熱の火球が射出される。着弾したそれは、迷宮の空気を歪めながら轟音と共に爆ぜた。白熱する炎の渦が、標的となったバルキリーたちを瞬時に飲み込む。冷徹な殺気を漂わせていた狂える精霊たちが、凄まじい業火に焼かれ、彼女たちが纏う重厚な鎧が圧倒的な熱量によって飴細工のようにドロドロと溶け落ちる。
さらに爆発の余波は迷宮の強固な石壁をも大きく吹き飛ばし、瓦礫の雨と焦げ臭い黒煙を周囲に撒き散らした。迷いを完全に捨て去ったその魔導は、もはや制御を離れた破壊の力と化し、バルキリーのうち三体を光の塵へと変えていった。
だが、その代償はあまりに峻烈だった。立て続けに強力な火球の魔法を使うという魂を削るような魔力の行使に、ラトーナの意識は急速に深淵へと引きずり込まれる。糸が切れた操り人形のように、彼女の身体はその場に崩れ落ちた。
「テューレ殿ッ!」
空からドルドムントが舞い降りる。クロイセのタレントによるアシッドスピットが、さらに一体のバルキリーを溶かして消滅させた。残るは四体。だがその瞬間ついに、死の投槍がテューレの心臓を狙って放たれた。
「テューレッ!」
フィランヌは神官としての矜持さえ投げ捨て、ただその名を叫んだ。思考は白く染まり、彼女はがむしゃらに攻撃魔法を解き放つ。
「何なのよあんたらぁあああっ!」
裂帛の気合と共に放たれた四つの不可視の衝撃波――『フォース』は、残る四体のバルキリーを貫き、その肉体を虚空に四散させた。しかし、既に放たれていた四本の投槍は、無情にもテューレの心臓を狙ってなおも殺到する。
誰もが悟った。――防げない。
だが、死の予感が現実を塗りつぶそうとしたその瞬間、テューレの背後で、燃えるような金色の燐光が爆ぜた。その閃光によって、その場にいた皆の視界から一瞬テューレが消える。
そしてフィランヌたちの視界が戻ったとき、テューレはというと、その場で目を閉じてガチガチと震えたまま、盾を突き出した姿勢で固まっていた。
「アレ……? どうしたのかしら、あたし、また死んだ……?」
とぼけた呟きに、全員の肩から力が抜けた。フィランヌは安堵からくる苛立ちを隠すように、テューレの腕を軽く小突いた。
「もうっ、バカテューレ! 心臓が止まるかと思ったでしょ! ……でも、まあ、ありがとう。助けてくれて」
真っ赤な顔で視線を逸らすフィランヌに、テューレは目を白黒させている。しかし、ミーアは確かに見ていた。彼の全身に纏わりついていた金色のオーラが、まるでいたずら好きな獅子が最後の最後で主を救い上げたかのように、ふわりと消えゆくのを。
それは迷宮の闇を払い除ける、あまりに気高い黄金の奇跡であった。
……。
……その光景を、深淵の玉座から眺めていた牛頭の魔人、DMは不愉快そうに眉をひそめた。
「やれやれ、ディレーオンの介入か。余りにも恣意的だな……。あの大仰な守護獣め、あんな小細工をしてまで、自分の駒を守るとはな」
DMは吐き捨てるように呟く。神獣の加護はゲームの盤面を乱すノイズ以外の何物でもない。だが、彼はすぐにその細い口元を歪め、愉快げにニヤリと笑みを浮かべた。
「だがまあ、ここで彼らの見納めとなるのも、確かにつまらなかったのは事実だ。——返済という不自由が、二人の魂を深淵で結びつける『錆びない鎖』となっている。聖女に支えられ子獅子が紡ぐ、その歪な
玉座の間において、DMはその全てを静かに眺めていた。彼は玉座の傍らに広げた、分厚い記録の書に視線を落とす。そこには、「八本の牙が戦乙女を
「さて、この毒を前に、彼らは一体どんな悲劇を書き足すのかな。刃の驟雨を潜り抜けた先にあるのは、安息ではなく真実という名の猛毒だ。せいぜい、面白いテーブルトークを見せてもらうとしよう」
DMは満足げに玉座へ深く座り直し、再び運命のダイスをその禍々しい手に握りしめる。戦いの余韻も冷めやらぬ迷宮の回廊に、彼らが直面した「死」の謎が、次なる試練として重くのしかかろうとしていた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
今回は地下二階最後の試練「バルキリー戦」でした。
四大精霊とは異なり、純粋に「勇気」を試す精霊だからこそ、属性相性ではなく、それぞれの覚悟が問われる戦いになっています。
そして、テューレに起きた黄金の奇跡。
水野良の本来の設定では、「黄金峡の承認」はここまで強力なものではないのですが、ここはご都合主義で押し通させていただきました。
もっとも、そのトリガーは「フィランヌへ借金を返したい」という、いかにもテューレらしい理由なのですが(笑)。
ただし、まだ地下二階でのイベントは全て終わっていません、ダンジョン・マスターが最後に言い残した「毒」がまだ残っています。そうです、11話で発見した謎の死体です。
この謎は次話で解かれることになるのか。引き続きお付き合いいただければ幸いです。