地下二階の広間で起動した魔法陣は、容赦なく一行を飲み込み、その深淵を地下三階へと繋いだ。石造りの階段を降り、薄暗い回廊へ足を踏み進めた彼らを待っていたのは、静寂に包まれた「死の回廊」であった。しかし、真の窮地はそこから始まった。
先ほどの激戦で、彼女らの精神は摩耗しきっていた。フィランヌ、ラトーナ、そしてミーアの三人は顔色を悪くし、もはや魔法の糸を紡ぐ余力は残されておらず、その沈黙は彼女たちが限界にあることを何よりも雄弁に物語っていた。
「
レオンが低く命じる。だが、それはあまりに過酷な無理難題であった。通路を塞ぐ異形の魔物たちを討ち払うのは、必然的にテューレの盾とレオンの剣にかかってくる。盾で受け止め、剣で叩き切る。休む暇もなく繰り返される斬撃の重圧は、徐々に前衛二人の肉体を消耗させていった。度重なる交戦で、テューレの鎧には無数の傷が刻まれ、レオンの横腹からも掠ったような擦り傷がいくつも重なり、じわりと血を滲ませている。安全な休息の場など存在しない迷宮において、前衛が負う傷の積み重ねは、パーティ全体の「限界までの猶予」を削り取っていることに等しかった。もはや死線はすぐそこまで迫っていた。
「……これ以上は無理よ」
フィランヌが足を止め、小さく震える声で呟いた。彼女の顔色は土気色にまで落ち込んでいる。
「……次から、あたしが前衛を変わるわ。貴方たちが倒れたら、このパーティは終わりよ」
フィランヌの申し出に、テューレは即座に首を振った。
「馬鹿なことを言うんじゃないわよ、フィランヌ。そっちだって顔色が悪いままじゃないの。そんな状態で前に出れば、一撃で消し飛んじゃうわ」
「でも……っ!」
テューレはレオンと視線を交わし、力なく笑った。二人とも全身傷だらけで、足元もおぼつかない状態だ。自分たちが支えなければならないはずの仲間が、自分たちのために無理をしようとしている――その事実に、一行は深い絶望と、同時にどうしようもない閉塞感を感じていた。
一行が重い足取りで歩みを進めた先――。奇妙なT字路の突き当たりに、その看板は鎮座していた。
「……なんだ、これは」
最前線を歩くレオンが松明を掲げると、そこには古びた文字でこう記されていた。
『右の道は、早くそして危険な道。左の道は、遅くそして安息の道。正面の道は、最も早くそして最も危険な道。』
看板の前で六人は足を止め、困惑に眉をひそめる。
ラトーナが松明の光を頼りに左右を見回し、尖らせた声で呟いた。
「ちょっと待ってよ。ここ、どう見ても右と左に分かれるT字路じゃない。なのに、なんで選択肢が三つもあるわけ?」
レオンが正面へ松明をかざしても、そこにはただ無機質な壁があるだけだった。正面に道など、物理的にはどこにも存在しない。
しかし、ふと自分の腰元につけた「導きの短剣」に目を落としたとき、レオンはその異変に気づいた。
「……いや、看板の言葉は欺瞞ではないかもしれない」
背後に続く全員の視線が集まる中、彼が腰から引き抜いた古びた刀身は、今までにないほど激しく、ピカピカと黄金色の光を放ち始めていた。
「おや、これは驚きましたな。レオン殿の短剣が、まるで夜霧に輝くハエ取りランプのように煌々と輝いているではございませんか」
ドルドムントが小さく感嘆の声を漏らす。レオンはその短剣をそっと掲げ、右でも左でもなく、正面の行き止まりであるはずの「壁」へと突き出した。壁に近づくにつれ、短剣の明滅はその速度を増し、周囲の暗黒をかき消すほどの強い輝きとなっていく。
「まさか……正面の壁に、隠し通路があるというのか?」
レオンの言葉に、ドルドムントが一歩前へ進み出た。
「……どうやらレオン殿の仰る通り、正面の壁の向こうに『答え』が隠されているようですな。失礼、少々確かめさせてもらいましょう」
ドルドムントは短剣の光に照らされた壁の継ぎ目や石の配列を慎重に確認し、やがて特定の石塊に手をかけた。ゴゴゴ……という重苦しい音と共に、壁が左右へスライドし、闇の深淵を覗かせる隠し扉が姿を現した。
「正面の隠し通路が、最速のルートか……」
レオンが険しい表情でその奥を見つめる。するとドルドムントが慎重に言葉を選びながら、含み笑いを浮かべた。
「先行するパーティに追いつくにはここを通るのが最短ですが……今の皆様の疲弊ぶりを見れば、飛び込むのは死への『最短』コースですな。ここで全滅しては、目も当てられない『最速』の敗北でございますよ」
その時、張り詰めた空気を切り裂くように、ラトーナがぷっと吹き出した。
「ふふっ、ドルドムント。その回りくどい言い回し、さっきみたいになるのが怖いの? 『元利も利息もない』って言いたいんでしょ?」
場が少しだけ和み、それを受けてテューレが傷だらけの腕をさすりながら、静かに、しかし断固とした口調で口を開く。
「レオン、今のあたしたちには選択の余地なんてないわ。最速を求めて全滅しては、本当に元も子もないものね。左へ行きましょう。安息を得てから追い上げるのが、今のあたしたちにとって唯一の勝ち筋よ」
ミーアは唇を噛み締め、悔しげに正面の道を睨んでいた。一刻も早く先行パーティを追い越し、出し抜くことが最大の先決事項だと考えているからだ。だが、仲間たちの限界近い顔色を視界の端に捉え、彼女は深く息を吐き出した。
「……悔しいけど、あんたの言う通りね。ここで無理をして全滅したら、先を行く連中に出し抜かれるどころか、漁夫の利を献上することになるわ」
「分かった。テューレの判断に従う」
レオンが正面の道から視線を外し、左の道へと顔を向ける。
一行は左の道へ足を踏み入れた。数十メートルほど歩くと、突き当たりに重厚な鉄の扉が一つ、鎮座していた。
「……ここか」
レオンが緊張した面持ちで取っ手に手をかけ、ゆっくりと扉を押し開く。その先には、四角い石造りの部屋が広がっていた。部屋の正面には何の変哲もない鉄扉が、そして右手には「安息所」と刻印された扉が設置されている。
一行が全員、部屋の中へと足を踏み入れたその瞬間であった。背後でパタン、という乾いた音が響く。振り返れば、先ほどまで通ってきたはずの扉が、まるで最初から存在しなかったかのように完璧に壁と一体化し、閉ざされていた。
「……閉じ込められたか」
レオンが剣の柄に手をかけ、即座に周囲を警戒する。だが、部屋に敵の気配はない。レオンは素早く正面の扉に歩み寄り、渾身の力で押し開こうとしたが、その扉は微動だにしなかった。
「くそっ、開かない……。おい、見てくれ」
レオンが扉の表面を指差すと、そこには薄く発光する数字が浮かび上がっていた。数字は「28800」から始まり、一まばたきするごとに「3」ずつ刻々と減少している。
「……ひょっとして、これが『零』にならないと出られない仕組みなのかもね」
フィランヌが冷静に数値を凝視し、小さく呟いた。
「零になるまで、一体どれくらいかかるのかしら?」
ミーアが苛立ち混じりに問いかけると、ドルドムントは自身の脈拍を確かめるように手首に指を添え、少しだけ思案してから優雅に微笑んだ。
「……我々の心拍と照らし合わせるに、おそらく一晩グッスリと眠りこけるくらいの時間ですな」
ドルドムントの言葉に、一行は目を見合わせた。迷宮が強制的に停滞を強いている。
一行は続いて、右手側の「安息所」と刻印された扉を慎重に開いた。そこには、迷宮の奥とは思えないほど清潔なシーツが敷かれたベッドが、三つ整然と並んでいた。
「なるほど……。焦って進ませず、遅い探索を強制する安息所、というわけか」
レオンが納得したように呟くと、一同は重い武装を解き、静かな安堵の息を漏らした。冷酷な設計者の意図を受け入れ、彼らは束の間の休息へと身を投じることにしたのである。
扉に刻まれた「28800」という数字。お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、これは秒数に直すとちょうど「8時間」となります。 魔法使いたちの精神力(MP)が枯渇し、前衛のHPも削り取られた絶望的な状況において、この「強制的な停滞」は冷酷な設計者による唯一の慈悲でもあります。リソース管理が生死を分ける本作において、この8時間が彼らに何をもたらすのか……。
また、「先行パーティを追い越さなければならない」という焦燥感の中、仲間の顔色を見て「安息」を選んだテューレ。 一見、弱気な選択に見えるかもしれませんが、全滅のリスクを回避し、パーティを立て直すためのこの判断こそが、彼が「仮」ではない真のリーダーへと脱皮し始めている証拠です。レオンやミーアがその判断に異を唱えず従ったシーンには、彼らの間にある確かな信頼の芽生えを感じていただけたのではないでしょうか。
さて、ここで問題になるのが「清潔なシーツが敷かれた三つのベッド」……そう、ベッドは「三つ」しかありません。 誰がベッドを使うのか?
次回まで、ああでもない、こうでもないと予測しながらお待ちください。