1
「!?ドルドムント!?」
異変を察知し、最後尾を歩いていたフィランヌが鋭く振り向いた時には、すでに遅かった。ほんの一瞬前まで、軽快にすぐ横を歩いていたはずのドルドムントの巨体が、まるで最初から存在しなかったかのように、美しい大理石の通路から忽然と姿を消していたのだ。
「ひ、ひえぇっ!? 嘘でしょ、ドルドムント!? どこ行っちゃったのよぅ!」
大盾を抱えたテューレが、血相を変えて通路を引き返してきた。
「ドルドムントぉーーっ! 返事をしてちょうだい! あたしたちのスカウトぉーーっ!」
テューレが床に這いつくばり、大理石の継ぎ目に向かって半泣きで叫び続ける。しかし、どれほど大声を出しても、冷たい石床からは何の反応も返ってこない。
「――無駄なことはおやめなさい、気高き勇者たちよ」
突如、白大理石の通路の空気が、不自然なほど急激に凍りついた。
「誰だ!?」
レオンが即座に長剣を構え、テューレの前に躍り出る。
声は、壁に掛けられた天使たちの絵画の中から響いてきた。やがて、壁面からにじみ出るようにして、半透明の姿をした一人の「スペクター」が姿を現した。
生前は高位の魔術師であったのだろう。豪奢なローブを身に纏っているが、その顔は狂信的な歪みと、傲慢さに満ち溢れていた。
「よくぞこの美しい聖域へと辿り着かれました。私はこの階層の美を護る者。……しかし、嘆かわしい。貴方たちのような選ばれた美しき人間が、なぜあのような『薄汚い害虫』などを引き連れておられたのです?」
スペクターは、心底理解できないといった様子で、芝居がかった手振りで嘆いてみせた。
「……あなたが、ドルドムントを落としたのね?」
フィランヌが、細身の剣の柄に手をかけながら、氷のように冷たい声で問う。
「『落とした』だなんて、人聞きの悪い。私はただ、不純物をあるべき場所へと還して差し上げただけです。この美しい芸術の回廊に、人間様以外の醜き獣や害虫の居場所などありません。彼らには、泥と血にまみれた『地下のゴミ捨て場』こそがお似合いでしょう?」
スペクターの、己の正しさを微塵も疑っていないそのヘイト発言に、レオンの頬が怒りで引きつり、ミーアとラトーナもそのスペクターをにらみつける。
しかし、誰よりも早く爆発したのは、床に這いつくばっていたテューレだった。
「……害虫、ですって?」
テューレはゆっくりと立ち上がると、愛用のタワーシールドをガシャン!と力強く床に叩きつけた。普段のオネエ言葉の気弱さはどこかへ消え失せ、その瞳には、仲間を侮辱された者だけが持つ、戦士としての本気の怒りが燃え盛っていた。
「あたしたちの大切な仲間を……プロのスカウトであるドルドムントを、ただ見た目が違うからって、そんな悪趣味な罠でコケにして……っ!」
テューレは剣を引き抜き、スペクターに向かって切っ先を突きつけた。
「あんたがどんな高尚な御仁か知らないけどね! ドルドムントが
テューレの力強い咆哮に呼応するように、フィランヌ、レオン、ミーア、ラトーナの四人も一斉に武器を構え、狂信のスペクターへとその刃と殺意を突きつけた。テューレの予想外の激昂に、スペクターの顔からゆっくりと「慈愛の笑み」が剥がれ落ちていく。
代わりに現れたのは、自らの「善意」を拒絶されたことに対する、底知れぬ嫌悪と冷酷な殺意だった。
「……おお、神よ。哀れなことだ」
スペクターの姿が、ゆらりと肥大化していく。周囲の温度がさらに急激に下がり、壁の絵画に描かれた天使や聖騎士たちの目が、一斉にテューレたちを睨みつけるように赤く光り始めた。
「純粋なる人間でありながら、あのような害虫に心を許し、汚染されてしまったのですね。……もはや、手遅れだ。あなた方もまた、浄化の対象に過ぎない」
絵画から這い出してきたのは、かつて大迷宮で命を落としたであろう兵士たちの大軍勢だった。冷酷な殺気を放つ剣や槍が、一斉にテューレたちに襲いかかる。
「くっ、数が多いわ……!」
ミーアが精霊魔術で応戦するが、大理石の通路という狭い地形も手伝い、テューレたちの防衛線は徐々に押し込まれていく。テューレは大盾で必死に死守するが、死者の軍勢は尽きることなく湧き出し、一行は確実に消耗していった。
2
――その頃、奈落の底に落されていたドルドムントは、冷静さを保っていた。
凄惨な拷問部屋。しかし、彼は並外れた「プロのスカウト」である。愛用のピッキングツールを懐から取り出し、カチ、カチリと、暗闇の中で驚異的な精度で鍵を解除していく。
施錠された鉄格子付きの重い扉が、音もなく開いた。
「ふう……紳士の夜歩きを阻むには、少々立て付けが甘いですな」
手袋を優雅に整え、ドルドムントは埃を払いながら、その部屋を出たところにあった階段を上り始めた。足音を殺しながら軽快に上りきった先、彼が足を踏み入れたのは、豪奢な装飾に彩られたスペクターの「私室」だった。
そこは一見美しい部屋だったが、中央には禍々しい「黒血の洗礼壇」と呼ばれる石造りの祭壇が鎮座していた。どろりとした負の魔力が脈動し、かつてこの迷宮で犠牲になったであろう亜人たちの血が、今なお不気味な光を放っている。
ドルドムントはそれが何であるか、正確な知識は持ち合わせていなかった。だが、その光景に激しい不快感を覚えた彼は、迷うことなくその巨体と怪力をもって、祭壇を力任せにガシャーン!!とひっくり返した。
「悪趣味な置物は、片付けるに限ります」
その瞬間、通路でテューレたちを圧倒していた死者の軍勢が、まるで幻影のように一斉に霧散した。
「おのれ……っ! まさか、祭壇が……!?」
スペクターは驚愕に顔を歪めると、テューレたちを捨て置き、通路の奥へと猛烈な勢いで飛び去っていった。
「消えた……? もしかして、ドルドムントが何かやってくれたのかも!」
「行くぞ、追うんだ!」
テューレの叫びにレオンが応じ、一行は急激に霧散していく軍勢の残滓を払いのけながら、スペクターが消えた通路の奥へと全速力で駆け出した。
3
私室へとなだれ込んだスペクターは、無残にひっくり返った祭壇の前に立つドルドムントを発見し、怒髪天を衝く勢いで金切り声を上げていた。
「なぜだ! なぜ、あの崇高なる絶対の精神攻撃から脱することができた!? 我ら人間様に害虫と蔑まれ、心を閉ざしていたお前が、なぜ正気でいられる!!」
ドルドムントは、静かに、しかし誇らしげに顎を上げた。
「簡単なことです。私には、私の『ウデマエ』だけを真っ直ぐに求めてくれた、素晴らしい仲間がおりますのでね。何より、我らがパーティーのリーダー、テューレ殿のあのお馬鹿で愛すべき嘘の張り紙が、私の心をとうに救ってくださっている。貴殿の安っぽい幻影など、我が絆の足元にも及びませんよ」
「……『テューレ殿』、か。ふん、なるほどな」
スペクターが忌々しげに呟いた。その傲慢な瞳が細められ、ドルドムントがそれほどまでに信奉する「テューレ」という存在に対し、邪悪な思考が巡らされていく。
「ドルドムントーーッ!!」
その直後、背後の扉が激しく開き、遅れて通路を駆け抜けてきたテューレたちが息を切らせて滑り込んできた。
「ドルドムント、無事だったのね! よかったぁ……っ!!」
テューレが涙目で声を上げると、ドルドムントもその厳つい触角を嬉そうに揺らし、紳士的に一礼して応じた。
「ええ、テューレ殿。この通り、怪我一つありません。お待たせいたしましたな」
安堵のやり取りも束の間、六人は瞬時にスペクターを包囲する。
逃げ場を失ったスペクターは、その憎悪に満ちた目をテューレへと向けた。
(あのテューレという男……。一見、最も打たれ弱く情けない男に見えるが、こいつこそがこの異質なパーティーの『要』に違いない。ならば、その要を根本から叩き潰してやる!)
スペクターの半透明の手が、禍々しい紫の魔力を宿す。
「――“深淵の底、記憶の檻を開け。不浄なる塵芥どもに、甘美なる絶望の洗礼を”――」
朗々と響き渡る古代語の詠唱。スペクターの歪んだ美意識から紡がれる呪言は、冷酷な旋律となって部屋の空気を侵食していく。
「誇り高き人間でありながら、害虫の血に染まりし同胞の面汚しどもめ……! 尽きぬ悪夢に狂い、己が血の無力を呪うがいい! 『
それは、術者が明確な意図を持って選択した悪夢――すなわち「戦士テューレが戦死する光景」を、対象の脳裏へ強制的に投影する、最悪の精神攻撃魔法だった。しかも、この場にいる全員が共有するその凄惨なビジョンが、六者六様の生々しさで脳内に直接送り込まれた。
「う、あ……ガハッ……!?」
レオンは、脳裏に刻まれた凄惨な光景に息を詰まらせ、その場に激しく膝をついた。
「嫌、嫌ぁぁぁ! テューレ様ぁぁぁ!!」
ラトーナは耳を塞いで絶叫し、その場に崩れ落ちて激しく泣きじゃくった。
「嘘……、嘘でしょ……そんなの……っ」
ミーアは両手で顔を覆い、恐怖と激しい衝撃のあまりその場にへたり込んだ。
「テュ、テューレ殿……ッ! 我らの、リーダー……っ!!」
ドルドムントは誇り高き紳士としての理性を完全に削ぎ落され、頭部の触角を激しくのたうち回らせながら床に拳を叩きつけた。
術の当事者であるテューレ自身もまた、その悪夢から逃れることはできなかった。
かつて帝国との戦いで、槍に貫かれて本当に命を落とした瞬間の「死の恐怖」が脳裏に鮮明にフラッシュバックする。ガタガタと歯を鳴らし、全身から冷や汗を流しながら、愛用の大盾を床に落とした。
誰もが凄絶な悪夢に縛られ、身動きが取れない。スペクターは勝ち誇ったように笑おうとした。
――しかし、ただ一人。
金髪の神官フィランヌだけは、何事もなかったかのように、手にした細身の剣を構えたまま、凛としてその場に立ち続けていた。
その瞳には、恐怖も、狂気も、動揺すらもない。絶対的な拒絶と、静かな怒りだけが宿っていた。
「な……何だと……!? なぜお前だけが正気でいられる!? 仲間の無惨な死を見せられているのだぞ!!」
当てが外れたスペクターが、狼狽しながらさらなる魔法を唱えようと手を掲げる。
だが、それよりもフィランヌの祈りの方が早かった。彼女は聖印を高く掲げ、凍てつくような美しい声で、ラーダの最高位秘呪を紡ぎ出す。
「――虚妄を語る不浄なる魂よ。知恵の光の前に、その傲慢ごと無に還りなさい。……『
フィランヌの手から放たれたのは、部屋全体を昼間のように照らし出す、圧倒的な神聖なる白光だった。
「ギャアアアアアアアアアア!!」
直撃を受けたスペクターは、防護の魔術を唱える暇さえ与えられず、その狂信に満ちた身体を光の粒子へと分解され、悲鳴と共に完全消滅した。
魔法が解け、部屋に静寂が戻る。崩れ落ちていた仲間たちが、荒い息を吐くようにようやく正気を取り戻した。
テューレは床に落とした盾を拾い上げ、胸の奥をキリキリと締め付けるような痛みに耐えていた。
先ほど見せられた、自分が死ぬ光景。ラトーナもミーアもドルドムントも、あんなに激しく泣き、取り乱し、苦しんでくれた。たった数日しかともに過ごしてないレオンですらそうだ。しかし、フィランヌだけは眉一つ動かさず、冷徹に呪文を唱えてスペクターを消し去った。
(やっぱり……。フィランヌにとって、あたしが死ぬなんて、どうでもいいことなのかしら。ただの、虫けらみたいな借金まみれの男が死ぬだけの、些細なこと……)
そんな思いが頭をもたげ、テューレは消え入るような声で、努めていつものように話しかけた。
「……フィランヌ、すごかったわね。あたしが死ぬシーンを見せられても、全然動じないなんて。さすがは本物の英雄様だわ」
フィランヌは、いつもの涼やかな、しかし息をのむほど洗練された顔つきでテューレを振り返った。
「あんな三流スペクターの安っぽい精神攻撃に、ラーダの神官たるあたしが惑わされるわけないでしょう。あんな悪党の思うままになるなんて、神官の矜持が許さないわ。それに、誰かが戦わなきゃ負けてた。当然のことよ」
「……そう、よね。正論だわ」
テューレはそれ以上、何も言えなかった。彼女の言うことはいつだって正しくて、完璧だ。けれど、胸の奥に澱のように溜まった寂しさは、消えてはくれなかった。この人は、あたしが本当に死んでも、こうして冷酷に何事もなかったかのようにふるまうのだろうか、と。
テューレは気付かなかった。
背を向けたフィランヌの、白い手袋に包まれた指先が、目に見えないくらいの微かさで震えていたことに。
彼女の美しい唇が、血の気が引いたように白くなり、きつく噛み締められていることに。
フィランヌは心の中で、狂いそうなほどの嗚咽を必死に飲み込んでいたのだ。
脳内に投影された、テューレの死。それは他の仲間たちにとっては「最悪の未来の幻影」だったが、フィランヌにとっては違った。
彼女は、本当に、目の前で一度テューレが死んだ姿を見ているのだ。
帝国との戦いのさなか、冷たくなった彼の身体をその手で抱きしめた過去が脳裏で再生される。そこから最高司祭を助け出し、10万ゴールドもの莫大な対価と奇跡の蘇生呪文を用いて彼をこの世に繋ぎ止めるまでに、彼女とその仲間がどれほどの筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えてきたことか。
もう二度と、あんなことは起きてはならない。その強い執念と、彼を絶対に死なせないという「生への呪縛」こそが、彼女の心に刻まれた不滅の聖痕だった。
そのあまりにも深すぎる「生への呪縛」と、過去の地獄を乗り越えた心構えがあったからこそ、彼女はギリギリのところで『
ひょっとしたら、テューレに純粋な恋心を抱いているラトーナや、いつも隣で笑い合っていたミーアたちよりも、フィランヌの胸の引き裂かれるような苦しみは、遥かに苛烈で、深いものだったかもしれない。
「さあ、ドルドムントも無事だったんだし、さっさと先へ進むわよ。あんたの借金、利息も含めてきっちり回収するまでは、地獄の底からでも引きずり戻してあげるから」
フィランヌはいつものドSな笑みを無理に作って振り返り、歩き出した。
その言葉の裏にある、狂おしいほどの祈りに気付かぬまま、テューレは「ひえぇ、やっぱり取り立て屋は怖いわねぇ……」と情けない声を上げて、大盾を構え直すのだった。
4
彼らが談笑とも罵倒ともつかないいつもの調子を取り戻し、迷宮の先へと消えていった後――。
静まり返った私室の隅、ドルドムントがかつて閉じ込められていた地下檻へと続く扉が、重苦しい音を立てて開いた。
そこから、よろよろと姿を現したのは、ダークエルフのメルヴィーだった。
スペクターの放った強烈な精神攻撃と拘束からようやく解かれ、心身ともに衰弱しきった彼女は、壁に手を突きながら荒い息を吐く。
「……ッ、ハァ……ハァ……。やっと、動けるように……」
メルヴィーがふらつく足取りで歩み出そうとした、その時だった。
「……随分と無様な姿だな、メルヴィー」
冷ややかな声が、薄暗い部屋に響いた。メルヴィーが驚いて顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。彼女の声に反応し、ゆっくりとこちらを振り返ったその男の顔を見て、メルヴィーは息を呑む。
「リ、リーダー……?」
メルヴィーは大きく目を見開く。目の前にいたのは、彼女が所属するパーティーのリーダーだった。
「……なぜ、ここに」
「地下五階への階段はすでに発見した。そこで、たいまつが一本燃え尽きるまでの間という条件で、お前を回収できないか試していただけだ」
男は淡々と告げると、己のタレントについて言葉を続けた。自分と任意の1名を、一度見たことのある場所に瞬間移動させるという希少な能力。他メンバーの休息時間を削るリスクと天秤にかけた結果、単身での救出が最も合理的だと判断したのだという。
「……ありがとう」
メルヴィーの口から、自然と感謝の言葉がこぼれた。しかし、リーダーは心底不思議そうに首をかしげる。
「何が『ありがとう』なのだ? 貴重な戦力を失うことと、探索が遅れるリスクを比較し、最善の選択をしたに過ぎん。感謝されるようなことは何もしていない」
「……そうだな。あんたはいつもそうやって、割り切るんだよね」
メルヴィーは苦笑し、今度は小さく息を吐いて呟いた。
「……すまなかった」
「……何が『すまなかった』なのだ?」
メルヴィーは、自分が捕まっていた間に、背後から追走していた者たちに追い付かれたことを告げた。自分が罠にかかっているところにドルドムントという名の蟻人のスカウトが現れたこと。さらにそのドルドムントには五人の仲間がいたこと。
そして何より――。
「その中の一人は、驚くべきことに……あの『蟻帝伝説』の救国の英雄、フィランヌだった」
淡々と事実を語るメルヴィーの言葉を聞き、リーダーは表情を崩さなかったが、その口元だけがニヤリと歪んだ。
「それは、こっちがメルヴィーに『ありがとう』と言わねばならないな。貴重な情報だ」
淡泊なリーダーらしい返答に、メルヴィーは呆れ果てたように首を振った。
だが、その顔には、今までの閉鎖的でどこか影のあった彼女とは違う、かすかな微笑みが浮かんでいた。迷宮の闇の中でも、それは確かに彼女の心に灯った、小さな光だった。
精神攻撃を受けた瞬間、他のみんなが見たのは「テューレが死ぬ未来」でした。
けれどフィランヌだけは違います。
彼女だけは、本当にテューレの死を経験しています。
だから彼女にとってテューレの死は「もしも」ではなく、「もう二度と繰り返してはいけない現実」です。
その地獄を乗り越えていたからこそ、同じ悪夢を見せられても折れなかった。
英雄だから強いのではなく、誰よりも深い傷を抱えているから強いのです。
さて、次回は本作最大の転換点、地下五階の「真の深淵」へと突入します。 そこでテューレが直面するのは、フィランヌから突きつけられる、あまりにも残酷な「決断」……。
どうぞお楽しみに。